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生き返りゲーム  作者: ナレソメ
13/17

十三話〜追憶の砦・第三関門〜

 

 *1*


 僕たち三人は、山の頂上に聳え立つ塔の中へと足を踏み入れた。


 だがその塔の中へと入った瞬間、まるで別の空間にいる様な気がして、少しだけ辺りの空気が重くのしかかる様な感覚がした。


 塔内を見渡すと壁に沿って渦巻く様な螺旋階段があり、ずっと上の方まで続いているのが見えた。


 薄暗い塔の中にはその螺旋階段以外の物や扉などは無かったので、僕たちはその螺旋階段を登る事にした。


 一歩一歩階段を登る度、靴の音が塔内に響き渡り、虚空の空間だけが永遠に広がっている様だった。


 そしてある程度の高さまで登った所で、螺旋階段の先に一つの扉が現れた。


 僕達は立ち止まり少し迷ったが、その扉を通らなければ先へは進めない為、意を決して怪しい扉を開けその中へと入って行った。


 扉の中に入ると、急に辺りが明るくなり、思わず目を細めてしまった。


 徐々に目が慣れてきて辺りを見渡すと、そこにはこの塔の大きさからしても考えられ無い程の広い空間が広がっていた。


「な、なんだ…ここ?」


 辺りは自分達の立っている地面と背後の扉があるだけで、天井や壁がある訳でも無く、ただただ明るく広い空間だけが広がっている。


 僕達はその広い空間が何処まで続いているのか分からなかった。だが、ただ立ち止まっているだけでは何にもならないので、まっすぐ歩く事にした。


 しばらく歩き続けていると、ひんやりとした空気を感じた後、どこからともなく霧の様な”もや”が現れてきた。


 それは次第に濃くなり、あっと言う間に目先も見え無い程の濃霧になってしまった。


 僕は二人とはぐれ無い様に声をかけようとしたが、それは既に遅かった様だ。


 その濃い霧の出現と共に、僕はジュンと権左ェ門の姿を見失ってしまった。


 僕は辺りを見回し、二人の姿を探した。


「ジュンさん…権左ェ門さん…。何処にいるんですか?か、からかわないでくださいよ…。」


 僕の言葉は広い空間の霧の中に吸い込まれるだけで、誰からの返事も無い。返事どころか、まるで人の気配が皆無であった。


 僕は一人きりの不安に耐え切れず、更に大きな声で二人の事を呼んだ。


「ジュンさん!権左ェ門さん!僕はここにいますよ!お願いだから、返事してください!」


 だがその声も虚しく、濃い霧の中へと吸い込まれて行った。


 僕は来た道を戻ろうと思ったが、既に右も左も分からず、自分が何処にいるのかも定かでは無い状況であった。


 その状況に僕は不安と焦りを感じ、先の見えない霧の中を彷徨った。


 フラフラと右へ左へ覚束ない足取りで霧の中をひたすら歩く。そんな時、突然キーンと言う耳鳴りがして来た。


 そしてその直後、急に重力が何倍にも重くなった様な感覚に襲われ、僕はその場に膝をついた。


「な、なんだ…これ。」


 重力は更に重くのしかかり、とうとう両手すらも地面についてしまった。その重力はもはや身動きすら出来無い程になるまでに達した。


 僕は必死でその重力に耐えようとしたが、それも虚しくだんだんと意識が遠くなって行き、僕はガクッとその場に倒れ込んでしまった。


「ジュンさん…権左ェ門さん…。」


 遠のく意識の中、僕はジュンと権左ェ門の事を思った。


 ここ数日間、ずっと行動を共にして来た二人が突然いなくなり、そして僕一人だけが取り残されてしまったその不安。そして恐怖。


 僕は意識を失う寸前に、その不安や恐怖が、何処かで感じた事があるような気がした。


 そう思いながら僕は、濃い霧の中で完全に意識を失ったのだ。


 時を同じくして、ジュンと権左ェ門もそれぞれ一人きりになり、イイロクと同じ様に意識を失い倒れていた。


 そして行く手を阻む濃い霧は、まるで意識を持っているかの様に動き、三人に覆い被さりその姿を包んでいった。



 *2*


 僕は足元や腹の上に僅かな柔らかい重みを感じて、ゆっくりと目を覚ました。


 見覚えのある天井に、少し硬めの安いベッドの感触。そして、二匹の猫が僕の体の上に乗って眠っていた。


 その二匹の猫を見た瞬間、目を見開き完全に意識を取り戻した。


「ジャン!ユーコ!」


 二匹の猫はその声にびっくりして、慌てて僕の上から逃げて行った。


 そしてすぐに起き上がり、この部屋を見渡した。


「ここ…僕の部屋だ…。」


 僕が目覚めた時、そこはまさしく現世の自宅アパートの部屋だったのだ。


 思わずベッドから飛び降り、カーテンを勢い良く開け窓の外を見てみた。


 道路には車が走り、見慣れた街並みが懐かしくも思える。


「僕は…生き返ったのか…?」


 普段と全く同じ街の風景と、この部屋。そして二匹の猫のジャンとユーコもいる。


 それはまるで、今まで夢を見ていたかの様な感覚だった。だが、ふと手首に目をやると、さっきまできちんと付けていたポイントウォッチが何処にも無かったのだ。だが、おかしな事に三人で記念に買ったお揃いのブレスレットだけはしっかりと身に付けていた。


「どう言う事だ…?なんでブレスレットだけが…。」


 僕はハッと思い、部屋のテレビをつけてみた。


 そしてその目に飛び込んで来たのは、見た事もない世にも不思議な映像だった。


 テレビが映し出したのは、僕の良く見ていた朝の情報番組であった。だが、決定的におかしな部分がある。


 そのテレビ画面の中には、誰一人として人の姿が無いのだ。ただ番組のBGMのみが聞こえるだけで、人の声は全く無かった。


 恐る恐るチャンネルを幾つか回して見たが、どれも同じ様に人の姿が無い番組ばかりだった。


 何かがおかしいと感じた時、外に車が走っていたのを思い出した。そしてもう一度窓の外を見てみた。


 そこには先程と同じように車が走っていたが、よく見ると運転席には誰も乗っておらず無人で走っていたのが見えた。


「何なんだよ…これって。」


 不安に駆られる中、幸いにも大好きな二匹の猫達がいてくれる事が唯一の救いだった。


 僕は猫用の皿にドライフードをこんもりと盛り、とりあえず外に出て様子を見てみる事にした。


 急いで支度をし、玄関に向かうとそこにはカミヤに買ってもらったスニーカーが綺麗に揃えて置いてあった。


 だがそれを気にもせず、そのスニーカーを履きドアを開け外に出た。


 ふと、インターホンの横にある表札に目をやった。


「やっぱり…。」


 そこには真っ白な無地の表札だけが壁にへばり付いていた。


「まだ、僕の本当の名前を知る事は出来なそうだな…。」


 そう言い捨てて、自宅のアパートの階段を駆け下りた。


 通りに出てみると、更に奇妙な光景が目に入って来る。無人の自転車が目の前を通り過ぎ、散歩をしている犬のリードがフワフワと宙に浮いていた。


 それはまるで、この世界の人間の姿だけを切り取った様に見えた。


 街の生活感はあるし、電気も水道もガスもちゃんと動いている様だ。


 だが、人の姿が一切ない。そんな奇妙な世界だ。


 僕は生き返ったのか、それとも違う世界に飛ばされたのか。不安と猜疑心に(さいな)まれたが、まだ何処かに人がいるかも知れないと言う僅かな望みを頼りに、普段から通勤で使っている駅に向かってみる事にした。


 無人の車や自転車を無視し、急ぎ足で駅に向かう。


 そして駅に着くと、僅かな期待は(あぶく)の様に消え去った。やはり誰もいないのである。だが、電車はいつも通りの様に動いていたので、普段と同じ様にその電車に乗ってみることにした。


「違う街に行けば、もしかしたら…。」


 既に期待などしていなかったが、自分で自分を安心させる為に静かに呟いた。


 そして電車は幾つかの駅に停まったが、誰一人として人の姿はなかった。やがて僕を乗せた電車は毎日通勤で使っている駅に到着した。


 ふと自分の勤める会社が気になり、その駅で降りる事にした。


「いつもと同じだけど、全く違う感じだな…。」


 そこは都心に近い駅なので、毎朝多くの人が行き交う場所だったが、今は活気のない寂しい廃墟の様にも思える程だ。


 そしてその廃墟の様な駅を出で、自分の勤める会社に向かって歩いて行った。


 人の姿は無いが、車や自転車は通っているので外はいつも通りの音がした。


 そんな無人の街をしばらく歩き、やがていつもの様に会社の前に着いた。


 何故か僕は、その自分の勤める会社に呼び寄せられるかの様にこの場所へ来てしまったのだ。そして、不安を抱きつつもその自分の勤める会社のビル内へと足を踏み入れた。


 ひとまず僕の働く部署のある5階へ向かう為、エレベーターに乗り込む。そしてエレベーターの中で5階へ向かう途中、3階の所でエレベーターは停まって扉が開いた。


 そしてまた、静かに扉が閉まった。


 僕はある種の不安を感じたが、なるべく気にしない様に平然を保っていた。


 5階に到着し、エレベーターの扉が開いた。そこで降りて、自分の部署がある部屋に入っていった。


 無人の部屋を見渡すと、電話の鳴る音とキーボードのタイピング音だけが響いていた。


 辺りを見回して自分のデスクへと向かい、その部屋の中を歩いていた時、僕の手が違う社員のデスクの上に置いてあるコーヒーカップに引っかかってしまい、そのまま地面に落ちて割れてしまった。


 その音を聞いた時、背筋の凍る様な感覚を覚えた。まるでどこかであった様な光景…つまりデジャヴだった。


 不意に後ろを振り向くと、一瞬だったが部屋から出て行く人影を見た。僕は思わず声を上げ、その人影を呼び止めてみる。


「ちょ、ちょっと!待ってください!」


 そう言って慌ててその人影を追いかけた。そして部屋の外へ出たと同時に、エレベーターの扉が閉まるのを見た。その人影が乗り込んだエレベーターは下の階へと降りていった。


 それを見て僕は急いで階段を駆け下り、エレベーターとその人影を追いかけた。


 階段を降りて2階に着いた時、エレベーターの扉が開く音がしたのですぐさまエレベーターの場所へ駆け寄る。


 その時、同じ階にある男子トイレにその人影が入って行くのが見えた。


 それを見た瞬間、心臓の鼓動が急に速くなった。普通の恐怖とは違う何か表しきれない程の恐ろしい感覚を感じたのだ。


 しばらく男子トイレの前から動けなくなり、額からは汗が滲み出てくる。


 すると突然、ブレスレットのしてある左手首がチクチクと痛み出し、その左手首をブレスレットごと握った。


「なんだ…一体…。」


 その痛みは一分程続き、やがて徐々に和らいでいった。


 そして僕はその左手で、人影の入っていった男子トイレの扉を開け中に入る。


 一見、中には誰もいない様に見えた。


 だが、三つある個室の一番奥の扉だけが閉まっていたのに気付き、恐る恐るゆっくりとその個室の前へと近寄った。


 その時、個室の下の隙間から赤黒い液体がジワジワと溢れ出てきたのだ。


 それを見て咄嗟に後ずさりし距離を取るが、その赤黒い液体は更に広がりを増してとうとう僕のスニーカーの爪先まで達してきた。


「これって…血…?」


 そう言った瞬間、閉まっていた個室の扉がゆっくりと開いた。


 僕はその個室の中を見た。


「ど、どうして…。」


 個室の中には、左手首からおびただしい程の血を流し、青白い顔をして項垂れている”僕”の姿があった。


 その僕はピクリとも動かず、右手には血の付いた割れたコーヒーカップの破片が力無く握られていた。


「なんで…僕が…。」


 その時、ズキンと言う激しい頭痛が襲いフラッシュバックの様に記憶が蘇ってきた。


 それと同時に吐き気をもよおし、僕は隣の個室の便器に嘔吐した。


「そ…そんな…そんな事って…。」


 そう、今までの記憶と自分の死んだ理由を思い出したのだ。


 それは、自殺であった。



 *3*


 僕は心臓の病気が原因で死んでしまった訳では無かったのだ。


 だが確かに心臓は弱かった。そのせいで、小さい頃からよく同級生にイジメられていたのだ。


 何せ暗い性格でもあった為、友達と呼べる人も殆どいなかった。学校へ行ってもいつも一人きり。だがそれでも良かった。


 僕の家には一匹の黒猫がいて、その黒猫が唯一の友達だった。


 名前はミミ。首輪を付けたままの捨て猫だ。


 ある日の学校の帰り道に拾って来て、そのまま飼う事にした。僕の両親は優しくて、すんなりと猫を飼う事を許してくれた。


 そんな両親は、僕が中学生の時の修学旅行に行っている間に強盗に襲われて死んでしまった。


 その連絡を受け、僕だけ修学旅行の途中で帰って来たのだ。だから、修学旅行の思い出も無いし、集合写真も無い。


 だからと言って、そんな事はどうでも良い事だった。両親が殺されたと聞いた時から、両親との思い出や両親の笑顔、声、温もり全てが闇の中に埋もれてしまっている様な感覚だった。


 優しかった両親を失ったが、幸いな事に黒猫のミミだけが唯一の生き残った家族であった。


 両親が死んでからは、親戚が経営している古い木造のアパートの一室を借りてそこで黒猫のミミと二人で暮らしていた。


 慣れない家事や洗濯も、しばらくすると手際よくこなせる様になり、なんとか一人暮らしも出来ていた。


 両親の遺してくれたお金もあったが、必要な分だけを残してアパートの一室を貸してくれた親戚に渡した。その親戚は、お金を受け取れないと拒んでいたが、無償でアパートを貸してくれたり、時々食事に誘ってくれたりしていたので、感謝の気持ちを伝えて無理にでも受け取ってもらった。


 そして僕は高校へと入学した。特に進学校でも無く、底辺ランクでもない所謂(いわゆる)普通の高校だ。


 そこでも僕は相変わらず友達を作ること無く、平凡に毎日を過ごしていた。


 その頃、黒猫のミミも随分と歳を取り最近ではヨロヨロとして来ていた。猫用のご飯も一口程度しか食べず、一日中寝てばかりだった。


 そしてある冬の晩、ミミはヨロヨロと僕の布団の中へ入って来て、僕の懐で丸まって寝ていた。


 歳を取ったミミの体温はそれ程高くなかった為、布団の中はあまり温かくはならなかった。


 そんなミミの事を優しく撫でて、ミミと一緒に眠りについた。


 ミミはそのまま目覚めること無く、僕の腕の中で一生を終えた。


 大好きだった両親とミミを亡くし、とうとう僕は一人になってしまった。


 誰もいないアパートの部屋をボーッと見渡していると、ミミが使っていたお皿やトイレがポツンと置いてあるのが目にとまった。


 もう使う事も無いミミの皿やトイレを、僕はいつまでも片付ける事無く、毎日綺麗にしてやった。


 そして時間は過ぎ、僕は晴れて社会人となった。


 大学へは行かず、高卒で今の会社へ入社したのだ。


 だが相変わらずの性格だった為、なかなか同期の人間や先輩、上司に馴染めずにいた。


 入社して二年程経った頃、会社からの帰り道で二匹の子猫を見つけた。


 その子猫は野良猫で、車に轢かれて死んでしまった親猫の傍で鳴いていたのだ。


 その様子を見た時、元々猫や動物が好きな僕の心臓はいつに無くきつく締め付けられた。


 そして、血を流して倒れている親猫を自分のスーツのジャケットで包み、残された二匹の子猫を肩掛け鞄の中へ優しく入れた。


 僕はその親猫の包まったジャケットを優しく抱き、アパートの近くの空き地に向かった。


 親猫の包まったジャケットからは、じんわりと血が滲みでて来て、僕の手を伝ってワイシャツの袖を赤く染めた。


 行き違う人達が怪訝そうな目で見てくるが、そんなのはお構い無しだ。人間なんてどうでもいい。今はこの人間のせいで死んでしまった親猫を自分で出来る限りの供養をしてやる事で頭がいっぱいだった。


 しばらくそのジャケットを抱えて歩き、アパートの近くの空き地に着いた。そして既に硬くなった体の親猫をゆっくりと下ろしてやった。


 僕は近くに転がっている石ころで地面に穴を掘った。石ころは小さかった為、大きな穴になるまで三十分程掘り続けたのだ。


 やがて親猫がスッポリと入るくらいの大きさになった穴に、ジャケットごと入れて優しく土をかけた。


 子猫の入った鞄からは、モゾモゾと力無く動き二匹とも小さく鳴いていた。


 僕はその二匹の子猫と親猫の最後の別れをさせてやり、その場を立ち去った。


 そして血で汚れたワイシャツのまま、アパートの部屋へと戻り、子猫達を部屋に放してやった。


 二匹ともまだ生後一カ月くらいの大きさだったが、よちよちと可愛く元気に歩いているのを見て、心が安らいだ。


 僕はその二匹の子猫に名前を付けた。


 キジトラの雄の子猫には”ジャン”、赤毛の雌の子猫には”ユーコ”と名付け、この日からまた猫との暮らしが始まったのだ。


 そして、生前ミミの使っていた皿とトイレを、新しくやって来た可愛い子猫達に使わせてあげる事にしたのだ。



 *4*


 それから半年程経ったある日、その時はやって来てしまったのだ。


 僕はいつも通り会社へ出社して、いつもの様に一人で仕事をしていた。


 そんなある時、皆の前で部長に呼ばれて僕はビクッとしながら部長の元へ向かった。


 話の内容は覚えていないが、僕の仕事のミスを皆に聞こえるようにわざとらしく大きな声で言われた。


 そしてしばらく嫌味や悪態を突かれ、何も言えず立ち尽くしている僕の姿を皆に晒されたのだ。


 周りからは小さな笑い声や、あえて聞こえる様な声の大きさで嫌味を言われた。


 普段の僕なら、そんな事は気にもしないのだが、何故かこの日は違った。


 周りから必要とされていない、むしろ(けむ)たがられている事に、僕の心の何かが壊れそうになっていた。


 そんな状況の中にいる事のストレスが、自分の気付かない所で薄いオブラートを一枚一枚重ねるように積み重なっていたのだ。


 そして、その積み重なっていた物がとうとう崩れた時、思わずその場から逃げる事を選択した。


 下に俯き、早足でデスクの間を縫うように歩き、部屋の扉へと脇目も振らず歩いた。


 だがその時、同僚のデスクの上にあったコーヒーカップに手を引っ掛けてしまい、落としてしまった。


 パリンと言う鈍く陶器の割れる音がして、その場に立ち止まり振り返った。


 僕は急いでその割れたコーヒーカップの破片を拾い、持ち主に小さく謝罪した。


 だが、その同僚に卑劣な言葉を掛けられて僕は破片を拾う手を止めた。


 そのまま無言で立ち上がり、扉へと走った。硬く握り締めた手の中にはコーヒーカップの破片があった。そして鋭い痛みと共に、血が滲みでて来ていた。


 僕は思わずトイレに逃げ込んだ。そう、一番奥の個室だ。


 一人になり、自然と涙が溢れ出て来る。悲しかったり、嬉しかったりする訳ではない。感情と言う物が感じられ無くなった時、無意識に涙が流れ落ちたのだ。


 僕は、本当の意味で一人になりたかった。


 人間のいない世界があるなら、そんな所に行ってみたいとも思っていた。


 そう願いながら、コーヒーカップの破片を手首の少し上の方に突き立てる。鋭くなった破片が肌に食い込み、じんわりと血が出てくるのを見つめる。


 そしてそのまま、ゆっくりと力を入れて目を瞑った。



 ーーこれが、僕の最後の記憶だった。



 僕はまた、一番奥の個室にもたれ掛かって血を流している”僕”の前に立った。


 そしてその姿を見た後、立ち去ろうとしたその時背後から声が聞こえたのだ。



『思い出したみたいだね。』



 背筋の凍る思いがして、ハッと振り返り個室にいる”僕”の方を見ると、そこには穏やかな表情をして目を開きじっと見つめる”僕”の姿があった。


「ど、どうして…生きてるの?」


 僕の問いに”僕”はにこやかに答えた。


『別に生きてる訳じゃないよ。君だって死んでるのに、こうして存在しているじゃないか。』


 確かに愚問だった。僕自身も生きている訳ではなく、死んでしまった身でここにいるのだから。


 だが、僕が二人存在するという事がどういう事なのか気掛かりでいた。


 死後の世界があり、色々な物を見て来たが、まさかもう一人の”僕”に会う事なんて想像もしていなかったのだ。


 そしてまた、もう一人の僕に問いかける。


「ここは、一体どこなのかな…?天国?もしかして、地国なのかな…。」


 その問いに、”僕”は淡々と答えてくれた。


『どちらでもないよ。ましてや中国(なかこく)でも無い。あえて言うなら、もう一つの現世だね。』


 その言葉は意外だった。まさか天国や地国、中国の他にも世界があるなんて。しかもそれは、もう一つの現世だと言う。


「もう一つの…現世?ど、どういうこと?」


 その問いかけに、もう一人の僕は落ち着きながら話し始めた。


『どういうこと?君はまだ分からないのかな。ここは君の創り上げた理想の世界だよ。』


「ぼ、僕の創り上げた世界?」


『あぁ、君が目覚めてからここへ来るまで誰かに会ったかい?』


「い、いや、誰とも…。」


『この世界には僕と君以外の人間は誰も存在していない。でもちゃんと世界は回ってる。他の人間は存在はしないけど、存在している世界と同様にあらゆる物の流通はしているし、ライフラインだって現世と全く同じままだ。もちろん、仕事なんてしなくてもいい。だからこの先、誰にも邪魔されず君の大好きな猫達と一緒に暮らすだけでいいんだ。』


 もう一人の僕の話に、思い当たる節があった。確かに、僕は死ぬ前にそう思っていた。


 僕を必要としている人間がこの世界にいないのなら、いっそのこと誰もいない世界に行きたいと。


『…もう分かったかな?ここは君の理想が詰まった素晴らしい世界なんだ。君が自ら命を絶とうとした時に、強く望んだ事によって実現した君だけの理想の世界。もし、君が生き返る事になれば、また同じ事の繰り返しになるよ。君が生き返ったって、誰も君の事を必要としていないし、また嫌な会社に行かなきゃならない。車に轢かれて死んだ猫を何度も何度も見なければならない。そんな君以外の人間に怒りや憎しみを感じ続けて生きるんだ。そんな世界、君は望んでないだろう?』


「…そうだ、ここは僕の理想の世界だ。」


 僕は次第にこの世界にいる事に対して、不安や迷いが無くなって来ていた。


『そう、ここなら君が大切にしている物を守る事が出来る。例えば、猫が車に轢かれる事もないし、いたずら半分で動物を虐待する人間もいない。密猟などで命を落とす動物達もいないんだ。君と僕は同じだから分かるよ。人間さえいなければ、この世界はもっと幸せになれる。いや、そもそも人間が支配していた事自体が間違っているんだ。』


 その言葉の続きが、無意識に僕の口から出てくる。


「自然を大切にとか、動物の命を大切にとか、そんなのは人間の勝手なエゴだ。そもそも人間が私利私欲の為だけに、動物や自然を破壊して来たんだ。そして破壊し続けて来た挙句、その代償を受けたのは人間じゃなく動物達や自然だ。だから僕は望んだ。人間のいない世界を。」


 僕の言葉の後に、もう一人の僕は満足そうに頷いていた。


『どうだい?君の理想の世界は素晴らしいだろ?僕も同じだからこの世界には満足だよ。無理にあの現世に生き返ろうと思わなくてもいいんだ。この世界で、動物達と幸せに暮らせれば満足だしね。』


「そうだ、それでいいんだ。僕は、この世界で生きて…。」


 そう言いかけた時、ふと気になる事があった。僕はそれをもう一人の僕に聞いてみた。


「そう言えば、僕の名前って何だっけ?すっかり忘れちゃって。それだけがまだ思い出せないんだよなぁ。」


 僕のその言葉に、もう一人の僕の表情が険しくなり、声色も変わった。


『…名前?そんなの必要ないじゃないか。この世界には僕と君以外には誰もいないんだから名前なんて必要ないだろ?まさか、本当は現世に戻りたいの?』


 もう一人の僕は何故か怒りを表している様であったが、一握りの不安の様な気持ちも感じ取れた。


「あ、いや、別に名前なんていいんだ!もうそんなの必要ないしね。ごめん、気にしないで…。」


 そう言って片手を上げた時、ブレスレットが目にとまった。


 僕はその時、一瞬だけ時間が止まった様な感覚に陥った。


 そして頭の中に、ぼんやりと誰かの笑顔が浮かんだ。


 僕はブレスレットを見つめ、また無意識に呟いた。


「…ジュンさん、権左ェ門さん。」


 その時、目を真っ赤に血走らせたもう一人の僕が個室を飛び出し、血塗れの姿のまま掴みかかって来た。


『誰だよそれ?何でだよ?どうしてそんな事思い出すんだよ…。ここで暮らせばいいんじゃないのか?僕達の理想の世界だろ?なぁ、どうしたんだよ…なぁ。』


 もう一人の僕は必死だった。それは怒りや憎しみでは無く、不安と寂しさを表していたのだ。


 目には涙を浮かべ、僕の事を力一杯揺さぶっていた。


 だがそんな”僕”の次の一言で、僕自信の本当の心の底の想いを気づかせたのだ。


『お願いだ…もう一人にしないでくれ…。ここで僕と一緒にいてくれ…。』


 そう、彼は僕自信だ。僕の想いその物だ。彼の言う事は、僕の言う事と同じ。


 確かにこの世界から、人間がいなくなればいいと思っていた。そんな世界を望んだ。だが、本当は違ったのだ。


 死んだ後、僕は色々な人に出会った。


 そこで初めて、人との繋がりがある事の嬉しさや安心感を感じた。


 今までの様に、誰からも相手にされず煙たがられているくらいなら、最初から誰もいない方がいい。最初から誰もいなければ繋がりが生まれる事も無いし、繋がりが絶たれる事も無い。そう思っていた。


 だが今となって、死んだ後だが人との繋がりが出来た。


 嬉しかった。


 初めて仲間と呼べる人達と出会えた。共に力を合わせ、苦難を乗り越える喜び。それを感じた事に、僕は僕自身の存在する意味を少しだが感じたのだ。


 そう、僕は一人になりたいんじゃない。


 僕は一人になるのが怖いんだ。そして寂しいんだ。今のもう一人の僕の様に、一人になるのが怖くて必死に繋がりを守ろうとしているんだ。




 本当の名前なんて、どうでもいい。




 僕は、”イイロク”だ。




「…ごめん。僕はここにはいられない。ここで暮らすわけにはいかないんだ。」


 そう言って、僕はもう一人の僕の肩をゆっくりと掴み、優しく突き放した。


「ここは僕の理想の世界だったかもしれない。いや、僕たちのだ。でも、それは理想じゃなくて辛い事から逃げたいと思い、僕が創り上げた幻想の世界だ。今の君の様子を見て思い出したよ。僕は、一人になるのが怖くて、そして寂しかったんだ。そして今、やっと出来た繋がりを必死になって守りたいと思ってる。今の君の様にね。だから僕はここには居られない。ジュンさんや権左ェ門さんの元に戻るよ。」


 僕の中からは、迷いが無くなっていた。もう一人きりになりたく無い。大切な人や動物との繋がりを守りたい。そう強く決心したのだ。


 そして、そんな僕の想いを聞いたもう一人の僕はしばらく黙り込み、やがて穏やかな表情浮かべてゆっくりと言った。



『行かせないよ。』



 その瞬間、もう一人の僕の血塗れの手が僕の首を物凄い力で掴み掛かってきた。


「ぐっ…ど、どうして…うっ…。」


 もう一人の僕の力は想像も出来ない程強く、僕は首を掴まれたまま宙に持ち上げられた。


『これが本当の君の姿だよ。君も人間だ。自分の為なら手段を選ばない。まさに人間その物の姿だよ。君だって人間が憎いと思って、全ての人間がいなくなればいいと思ってたじゃないか。それだって充分自分勝手な事だよ。綺麗事じゃ収まらない世の中だ。繋がり?守る?そんなのは絵空事だ。いくら君が頑張った所で、周りはそれを認めない。そして踏みにじる。そして憎しみが生まれる。その繰り返しだ。だから僕がここで、そんなくだらない世界から救ってあげるよ。』


 もう一人の僕の手が、更に強く僕の首を絞め付ける。


 僕は息が出来ず意識が遠のき、もう限界に達していた。


 だが、最後の力を振り絞って強く言葉を言い放った。



「…守るんだ!」



 その一言を言った瞬間、僕の首からフッと力が抜けその場に倒れこんだ。


 それと同時に辺りは大きく揺れ動き、轟くような地響きがしていた。


「な、何が起きたんだ…?」


 すると、目の前にいるもう一人の僕が虚ろな目で立ちすくんでいるのが目に入った。


『安心したよ。君の想いは伝わった。』


 もう一人の僕がそう言うと、彼の顔や腕がボロボロと崩れ出して来たのだ。


『僕は君自身の迷いや不安、怒りや憎しみその物だ。だけど、君の想いの強さには勝てなかった。だから、これでお別れだ。』


 彼の崩れかけた顔からは、穏やかな笑顔が垣間見えた。そして、ほんの少しだけ寂しい気分にもなった。


『さぁ、この世界ももう終わりだ。あとは君自身がどうしたいか考えて行動するんだ。もう迷いは無いはずたよね。頑張るんだよ。イイロク。』


 そう言って彼は血塗れの手を差し出した。


『君に会えて、本当に良かった。ありがとう。』


 僕がその手を握ろうとした瞬間、彼の体は砂の像が崩れるように消え去った。


「…僕もだよ。」


 そして辺りが崩れ始めた時、何処からともなく僕を呼ぶ声が聞こえて来た。


 ”…ロク!……イイロク!”


 それはジュンの声だった。


 僕は崩れ落ちる世界の中で目を瞑り、そしてその声に意識を集中した。


「ごめんなさい。今、行きますね。」


 そして僕はまた、意識を失った。



 *5*


 僕を呼ぶ声が聞こえる。


 ゆっくりと目を開けると、そこにはジュンの姿が見えた。


「イイロク…イイロク!…良かった…良かったよ…イイロク…。」


 ジュンは僕を抱きかかえ、声を荒げ泣いていた。


「ジュ、ジュンさん…?僕は…。」


 まだ体に力が入らず、ぐったりとしている僕をジュンはきつく抱きしめてくれた。柔らかい女性の感触、そしてジュンの良い香りで僕はまた戻って来れたと安心していた。


 すると、権左ェ門の声が聞こえてそちらの方に目をやった。


「おぉ、イイロク殿。誠に良かったでござるよ。わしらが意識を取り戻してお主を見つけた時、既に息をしとらんかったのだ。だが、無事で何よりだ!ガハハハっ!」


 相変わらずの権左ェ門に、僕は少しだけ嬉しい気分になった。


「ジュンさん、権左ェ門さん。心配かけてごめんなさい。でも、もう何処にも行きませんよ。僕は、みんなとずっと一緒ですから。」


 そう言って、二人に微笑んで見せた。


「当たり前よ、バカ。死人が死んでどうするのよ、ったく。」


 ジュンは泣き顔だったが、いつもの様にジュンらしい口調で言った。


 そんなジュンに僕は軽く謝って、またニッコリと笑って見せた。


 次第に体力も回復して行き、僕は自力で起き上がる事が出来るようになった。


「色々とごめんなさい。でも、もう大丈夫です。さぁ、行きましょうか。」


 そう言って立ち上がった時、広い空間の先に小さな扉が現れたのを見つけた。


「あ、あの扉!あれが出口ですかね?」


「まぁ、きっとそうでしょうね。って言うか、わかり易すぎでしょ。」


「ガハハハっ!まぁまぁ良いではないか!延々とこの空間を彷徨うよりはマシであるぞ!」


 三人はまた、いつもの様に仲良く歩き出した。イイロクの意識が戻った事か、それとも出口と思われる扉を見つけた事か、それ以外の事かは分からないが三人はいつもより晴れやかな気分でいた。


 そして間も無く、三人はその扉の前に辿り着いた。


 すると何処からともなく、聞きなれた声が聞こえて来た。


 ”お前達、よくぞここまで辿り着いた!これにて第三チェックポイントのクリアとみなす!ハッハー!”


 それは紛れも無いエンマ部長の声だった。


「えっ?クリアって、アタシら何もしてないけど?どして?」


「さよう、拙者も気を失っていただけであるが。」


「僕は…。」


 イイロクが言いかけた時、それを遮るようにエンマ部長の声が響き渡った。


 ”今回の試練、これはイイロク君個人に課せられたものだ。二人が気を失っている間、イイロク君は闘っていたのだ。”


「へっ?この死に損ないのイイロクが?一人で闘ってたって?」


 ジュンはまるで信じられ無いと言うような表情でイイロクの方を見た。


「いや…何ていうか…その。」


 僕が言葉に詰まっていると、エンマ部長が今回の事の説明をしてくれた。


 ”ハッハー!イイロク君は頑張ったぞ。この試練はだな、”自分の闇”との闘いだ。誰しもが心に闇を持っておる。その闇に打ち勝つ心の強さ、そして人を想う優しさが無ければあっさりと闇に食われてしまう。先ほどの山道で会った奴を見ただろう。我を失い、暴挙に駆られて狂ったあの姿を。もし、イイロク君の心の強さや優しさが無ければ、君たちもあの三人の様な姿となっていただろう。だが、イイロク君はその闇に勝った。だが決して一人では勝てなかった。何故なら、イイロク君に君たちの事を想う強さを与えたのは紛れもなく君たちの絆の強さがあった故の事。イイロク君は、自分の思い描く幸せな世界よりも、辛い事や悲しい事、怒りや憎しみのある世界、そして君たちと一緒にいる世界を選んだのだ。イイロク君は自分の闇に打ち勝ち、こうして君たちの元へ戻って来た。それがこの試練のクリア条件だ。ハッハー!”



 エンマ部長のその言葉に、三人は黙り込んだ。時々目を合わせたり逸らしたり、少しだけ恥ずかしい気分だった。


 だが、三人は嬉しかった。試練をクリアした事だけでは無く、三人の絆の強さを更に深く感じる事が出来たからだ。


 元々バラバラだった三人が、こうしてここまで来れたのも一人一人が誰かを想い、気遣う気持ちがあったからであろう。


 イイロク、ジュン、権左ェ門。彼らの絆は固く結ばれ、それはどんな試練も乗り越えられる程の強い力になっていた。誰か一人でも欠けてはならない、皆が同じだけの想いの強さを同調しなければ成せないものであった。


 それはまるで、三人のお揃いのブレスレットがそれを物語っているかの様にも思えた。



 ”さぁ!残す試練はあと一つ!この先も皆で力を合わせて頑張るのだぞ!ハッハー!”



 エンマ部長の声はそれ以降聞こえる事は無かった。


 そうして僕たち三人は、一度顔を見合わせ扉のノブを回しその扉を開けた。



 行先は分からない。



 だが、この三人ならどんな事も乗り越えられる。



 そう思い、三人は力強く扉の中へと足を踏み入れたのであった。













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