一話〜楽園〜
ストーリーの出だしはちょっとミステリアスですが、二話目からは台詞も増え、一気にコミカルな雰囲気に変わります。軽い気持ちで読んで頂けたら幸いでございます。
*1*
彼はベッドの上で、ゆっくりと目を覚ます。
小鳥のさえずり、カーテンがそよ風にたなびき、そこから陽の光が差し込む気持ちの良い朝だった。
「ん…あぁ〜…。」
彼は体を起こし、大きく伸びをした。そして、ベッドの上でぼーっとしていた。
見慣れない部屋、ふかふかのベッド、羽根の様に軽く暖かい毛布。彼はその毛布を摩りながら、やっと自分の部屋では無いという事に気が付いた。
「ここ、どこだ…?」
彼はゆっくりとベッドから降り、部屋を歩いた。洗面所には、丸い鏡があった。その鏡は、木枠にはめ込まれていて綺麗な装飾が施されていた。
彼はその鏡の前に来て、映った自分の姿をぼんやりと見つめて呟いた。
「俺…だな。やっぱり。」
彼はその自分の顔の頬を触った。いつもの自分の顔だった。
ふと、自分の体に目をやると彼は見慣れない服を着ていた。
その服は少し落ち着いた白色の、肌触りの良い木綿で出来たパジャマの様な服だった。そして胸の辺りには、その木綿の服とはミスマッチとも思える艶めいた黒色で描かれた数字のプリントがなされていた。
「1169…?なんだろな、これ。」
彼はその数字のプリントを指でなぞり、文字の上は少しだけ指に引っかかる様な抵抗を感じた。
そして彼は、また部屋を歩きまわり恐る恐る外に出る事にした。
玄関に置いてある、動物の革で出来た様な足首まであるサンダルを履き、小さな扉を開けた。
眩しい陽の光に目を細める。暫くすると、目が慣れてきて外の景色が見えた。
そこは心地の良い風が吹き、緑の芝生に、きらきらと陽の光を反射させた小川のせせらぎ。遠くには針葉樹の森と背の低い山が見えた。
小川には水車が回っており、その近くに畑や田んぼが広がっていた。
彼は涼しいそよ風を浴びながら、その綺麗な空気を大きく吸い、深呼吸をした。
「何だか、すごくいい所だなぁ。」
彼はここが何処だか見当もつかなかったが、不安や猜疑心は殆どなく、自分のいる場所の素晴らしさに心を開いていた。
ふと辺りを見渡すと、田んぼや畑、そして遠くの小川などにポチポチと人の姿が確認出来た。
「人がいる。だれだろう。」
彼はしばし散歩がてら、その人影の方へ歩いてみようと思った。ただ、ここが何処だか聞きたいのでは無く、純粋にこの素晴らしく長閑な集落で、人とのコミュニケーションを取りたいからであった。
そして彼は、一人の老婆の近くへ来た。
「おはようございます。ここは素晴らしい所ですね。」
老婆はニッコリと笑い、彼に挨拶を返した。
「おはようございます。ここは毎日素晴らしいのですよ。」
確かに、そんな気がしていた。ここには怒りや憎しみ、争いや悲しみ、そして”死”と言った、負の感覚が全くと言っていいほど無いのだ。
彼は、そんな楽園のようなこの場所を好きになっていた。
「ここ、気に入りました。何処だかは分かりませんが、とてもいい所ですね。」
彼はニッコリと笑い、老婆もニッコリと笑った。
「それはそれは、よかったよかった。」
彼は老婆に軽くお辞儀をして、また歩き出した。
「今度はあっちに行ってみるか。」
綺麗な小川沿いに歩いて、田んぼの畦道を歩く。ふと田んぼに目をやると、メダカやオタマジャクシがチョロチョロと泳いでいた。
そして彼は、先の方に見える広場の様な場所に人が多く集まっている場所を見つけた。
「あそこは何だろう?何人か人がいるな。」
彼は畦道を歩いた際に付いてしまったサンダルの泥を軽く落とし、その広場へと向かった。
そこは公園の様になっており、新緑の芝生が生えた広場、切り株をそのまま使ったベンチ、蔦が絡まっている東屋の様な建物があった。
その至る場所で、芝生に寝転んで昼寝をしている人、のんびり読書をする人、編み物をしている人、数人でお茶やお菓子を囲んでお喋りしている人など、皆が自由に寛いでいた。
彼はその公園の様な広場に辿り着き、そこで編み物をしている眼鏡をかけた中年の女性に声をかけた。
「こんにちは。ここはどんな場所なのですか?」
その中年の女性は、ニッコリと笑い答えてくれた。
「ここは見ての通り、普通の公園よ。誰もがいつでも自由に使えるわ。」
「そうなんですか。すみません、ここは初めてでまだまだ何も知らなくて。」
すると中年の女性は、また優しくニッコリと笑い、彼に語りかけた。
「いいのよ、あなたはまだ知らない事ばかりだもの。私も最近来たばかりだから、何も分からなかったけど、今はもう分からなくても気にしないわ。ここは、そんな場所なの。」
彼は納得する様に頷いた。特に、話の終わりの方の言葉に、妙な説得力を感じたのだ。
そして彼は、中年の女性の服にも同じ数字のプリントがなされているのに気付いた。
中年の女性の数字は”1140”だった。
彼は自分の服の数字を中年の女性に見せながら、この数字の意味を訪ねた。
「すみません、これ、この数字はどんな意味があるのですか?」
すると、中年の女性は先ほどとは違う表情をした。笑いながらも眉を寄せ、申し訳ないと言うような、そんな表情だった。
「ごめんなさいね、お兄さん。私たちはそう言う事についてはお話し出来ないのよ。」
彼は少しがっかりした表情をしたが、すぐに受け入れた。
「そうですか。それなら仕方ないですね。こちらこそすみませんでした。」
二人はお互いにお辞儀をした。そして彼は、軽く会釈をしてその中年の女性の元を離れた。
*2*
彼は公園を離れ、針葉樹の森の方へと歩いて行った。だいぶ歩いたのか、太陽は頭上の真上に来ていた。
そして、その森へと続く一本道を見つけた。その道は石畳になっており、同色の灰色の石が規則的に敷き詰められて森の奥へと続いていた。
彼がその入り口へ近づいた時、一匹の白い猫が彼の前を横切った。
「猫もいるんだな。猫…。」
彼はその白猫を見て、ほんの僅かだが心に異変を感じた。だが、彼は特に気にしない様子で森の入り口へと入って行った。
森の中はとてもいい木の匂いがしていた。そして鳥やリス、ウサギや鹿など様々な動物がのびのびと生活している様子も伺えた。
そんな微笑ましい動物の姿を見ながら、彼は森の奥へと歩いて行く。
しばらく石畳の道を歩くと、何やら小さな看板の様なものを見つけた。
それは簡素なベニヤ板の様な素材で、何やら平仮名で文字が書かれてあった。
彼はその看板の文字を見て、声を出して読んだ。
「このちにのこりたいのであれば、さきにすすむべからず。」
彼は不思議そうな顔をしたが、この先も道が続いていたので、とりあえず奥へと進む事にした。
そして道の先を行くと、少し開けた場所に辿り着いた。そこには小さな泉があった。
「泉….か。」
彼はその泉を覗いてみた。その泉の水は非常に透明度が高く、そして濃いブルーの吸い込まれる様な色をしていた。
だが、泉の大きさからは想像もつかない程深かった。どれほど深いのかはわからなかったが、とにかく泉の底が見えないのだ。そして彼は、その泉に触れてみた。
小さく波紋が広がり、すぐに収まった。だがその直後、泉がぼんやりと光り出したのだ。
「なんだ?どうしたんだ?」
彼は珍しく焦った表情をした。この地に来て、殆ど感情を露わにしてこなかったが、何故かこの泉の傍にいると心が締め付けられる様な思いがした。
そして泉は、何かを映し出した。
彼はその泉に映るものを見た。そこには、ある部屋が映っていた。
簡単なダイニングセット、テレビに本棚、そしてベッドがあるごく普通の部屋だった。だが、そこに映るある物を見た瞬間、彼の脳裏に微かな記憶が蘇った。
その泉が映し出した物とは、二匹の猫だった。
彼はその猫を見た瞬間、何とも言えない不安な気持ちが全身を駆け巡り、無意識に呟いた。
「俺の…猫。」
そう呟いた瞬間、彼は突然意識を失いその場に倒れ込んだ。
すると、森の奥から男がやって来て、意識を失い倒れた彼を抱え上げた。
「やれやれ、好奇心の強い奴だな。」
そして男は、彼を抱えたまま森の奥へと消えていった。