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スナックでフライを、願わくば招福を

作者: 諸星中央

 ひとりでいつまでいればいいの、と言った私に父は両手を握って、お父さんがいるから大丈夫、と答えた。その父は三年後に他界して、私は父がいても感じていた孤独を、よりいっそう意識するようになった。

 孤独に生きることを恥じない印象のあるオオカミが羨ましかった。人間はきっと、そんな風には生きられないのだと思う。

 孤独に耐えかね、あるいは後ろ指さされることを恐れ、身近な人との距離に微妙な変化をつけながらも、結局は「友達」を作ることはできなかった。

 父と死別して更に三年、二十三になった私は場末の居酒屋へと足を運んでいた。恐らく近所の人だろうと思われるおじさんがママと話す声の中、うらぶれた人が距離を置いて座り、黙って飲んでいる空間は、同類が確かに存在しているという暗い安心感の他に、仲間と屋根を共にしていると言うような喜びがあった。ほの暗い電球が狭い店を暖色に染める。


 ある時、いつも通り仕事帰りの一杯をやっていると、三十代前半くらいの男性二人組が私の隣に座った。珍しく店が混んで、他に行き場所がないようだった。

 少々居心地悪くなりながら男性の反対側に顔を背けてグラスに口をつけていると、すぐ左にいる方が私の様子を推し量ることもなく、聞いてきた。

「ここ、なにが美味しいんですか?」

 なにが美味しいのだろう。よくよく考えてみて、雰囲気を楽しむ場所でないことは確かなこの場所に人がこれだけいると言うことは、なにかしらのものがあるはずだった。そもそもお酒のことを言っているのか、食べ物なのか分からない。久々に私に向けられた声に怯えながら懸命に考えたあげく、私は手元にあるフライを指さした。声は、出て来なかった。

「はあ、フライですか。頼んでみようかな。すみません、こっちの人が食べてるヤツ、お願い」

 毎日やって来る私にほほえみかけることと、短い返事しかしないママは、隣の男性には返事のあとに世間話を振っている。

「ところでコレ、なんのフライなんです?」

 知らずに注文したのか、と半ば呆れて目を落とすと、蓮根だった。そう言えば、ずっと口に入るものならなんでも、と言うスタンスできた私は、ただ安く済ませることしか考えていなかった。

「あの、蓮根……」

 言葉尻を落としながら、私はなんて気が利かないんだろう、と思っていた。仕事帰りの男性なら、もっと肉気のあるものの方がいいだろう。

「え、蓮根?」

「マジ? 蓮根、揚げんの?」

 そう考えがよぎって間もなく、予想に違わぬ男性の声がした。私は前を向いて残りのお酒を飲み干したあと、お勘定をして足早に立ち去った。

 閉める戸の向こうで、男性の前に蓮根のフライが置かれた。


 次の日、昨日と同じようにカウンターの隅っこに座った私は、寄ってきたママの視線から逃れるように眼を背けて、ごめんなさい、と言った。

「なにが?」

 ママは穏やかに聞いた。

「昨日、なにが美味しいかって聞かれたでしょう? よく知らないまま、あんなもの選んじゃった」

「あなたは美味しいと思ってたんじゃないの?」

「はい……安価に口に出来るものでは一番なので。でも……」

「ならいいじゃない、嘘は言ってないんだから」

 ママは笑った。

「私もあれ、美味しいと思うわよ」

 ママが優しく感じて、距離が近すぎるような気がして、私は困惑してうつむく。

「今日はなにが食べたい? 今日も蓮根フライと発泡酒?」

 小さな声で私は言った。

「ママが、美味しいと思うものを……」

 間もなく透き通った青い飲み物が出て来た。

「カクテル、ノンアルコールね。若くても、休肝日は設けた方がいいわ」

 しばらくその美しさに見とれて、ママの優しい視線に気づいて口をつけた。お酒のようにしびれはしないけれど、なんとなく、それに似た口あたりと、広がる甘さがあった。

「美味しい、です」

 しっかりとしたものを選んで食べていない私の舌は、もう馬鹿になっていると思う。でも、そのカクテルは美味しいような気がした。

「そう、よかった。あと、これね」

 浅漬けの盛り合わせが出て、次におろし大根の添えられた焼き鯖が来た。

「今は時期だからね。焼き物も、美味しいわよ」

 独特の匂いがあったけれど、確かに美味しかった。覚えのある匂いだと思った。ああ、お父さんの体臭のような気がする。

「はい、美味しいです。とても、美味しい」

 灰色の中に消え去ったお父さんとの時間はどうだったっけ。私たちは、こういうものをふたりで食べていたんだろうか。

「そう。ふふ、はじめて笑ったわね」

 私は笑っていた。美味しいものを食べるだけで、笑えるなんて知らなかった。

「私、お父さんとふたりで生活していたんです。お母さんはいなくて。お父さんが死んでから私はますます寂しくなったんですけれど、でも、そんな寂しいお父さんとの生活の中でも、私は笑っていたのでしょうか」

「お父さまがいなくなって悲しい?」

「はい」

 ママは頷いて見せた。

「それなら、きっともっと幸せにして欲しかったけれど、お父さまのことはお父さまでよかったと思っているのよ」

 ママは手元で揚げ鍋からなにかすくい上げて、カウンターの影のお皿に盛った。そして、いつもの蓮根のフライが出て来た。

「笑顔はね、美味しいものと、人との繋がりから出てくるの」

 話を聞いていた私にママはフライを勧めてくる。ソースをかけて頬張った。ほこほこして、適度な歯ごたえがあって、とても美味しかった。

「人との繋がりはいつか切れてしまうこともあるけれど、新しい繋がりも、出てくるものよ」

「……はい、そうですね」

 私は頷きながら、次の蓮根に口をつけた。

「あのお兄さんたちも、それを食べて笑ってたわ」

 戸が開いて人がやってきた。いつもは背ける視線を、今日は、そちらへ向けた。

「あ、昨日の」

「こんばんは」

「いらっしゃい。なににします?」

「今日も蓮根ある? フライ。あ、お姉さん、食べてるじゃん」

 手際よく蓮根が揚げ鍋に放り込まれる。鍋を見ながらママが言う。

「今日スワローズ勝ってますよ。あ、鯖があるんですけど、焼きましょうか」

 二人組の男性は私に聞く。

「美味しい?」

「美味しいですよ、おすすめです」

「じゃ、お願い」

 お兄さんたちとちょっとした話をする中で、冷蔵庫を開けるママを見た。笑顔が美しかった。ほの暗い電球が、ママの横顔を温かに染めていた。


「ねえ、ママ。ママは、なにをしてきたの?」

 彼女との距離を近いとも思わなくなった私は、聞いた。私は優しい彼女の店に通い続けていた。

「そうねえ、暴走族の中に紛れていたこともあったわね」

「え、え」

 意味深に笑ったママに、私は眼を白黒させていた。暴走族って、優しさと真逆に位置しているような気がする。彼女の人生への興味が更に高まる。

「ママは、変わったの?」

「別に変わってないわ。私は、私よ?」

 私はさっぱり分からないという顔をしていたのだろう、ママが付け加えた。

「お話を聞いて、誠実に向き合えば、その人が好きかどうかはともかく、仲良くなれるものなの。もちろん、あなたにもできることよ」

「そうなの」

 ママは目を細めた。

「母親と仲良くできなくて寂しかった私は、ちょっと非社会的なことをして、楽しんでたの。でも、虚しいでしょ、それ。で、一緒に悪いことしてたら、なにをするかより、誰かと仲良くしていることが楽しいと分かったの。みんなやんちゃだったけれど、同時に寂しかったのは分かってた。だから一緒にいたの。やがて落ち着きだした人たちが卒業しだして、私もここでお店を開いたけれど、みんな連続した人生を歩んでいて、違う人になっちゃったなんてことはないのよ。あなたも緩やかに、くねった道を歩いて行けばいいわ。ここはね、急ぐ人には向かないお店なの。人生には限りがあるからって、急ぐことがいいとは私、思ってないんだから」

 なんだか私は小さな子どもになった気分で聞いていた。ママがこちらを向いてほほえんだ。記憶にはないお母さんを見たような気がして、私は子どもになって聞いた。

「その人たちは、寂しくなくなったの?」

「ゆったりとしていた方が、居心地いいでしょう? 人だって、そうよ。急いでいる人は格好いいかも知れないけれど、他人を受け容れるときくらいはゆっくりにならなきゃいけないの。ゆっくり歩いて、心も落ち着いたんだもの。みんな連れ添いがいたり、誰かと今も一緒だったりするわ」

 あやすように語られた言葉を聞いて、ほっとした。ブルーのカクテルを揺らして私は、

「よかった」

 と言った。私もよくなったような気がした。


 それからママの元に通い続けて一年がたった。ささやかなお祝いをしてくれたママに、私は彼女と仲良しになった気がしたのだけれど、仲良しが本当に仲良しになるにはもう少し必要だった。

 梅雨の明け切らぬある日、店は臨時休業だった。心配になったけれど、ママの家も携帯番号も知らない私にはどうしようもなかった。

 次の日、湿った重い店の扉を開くと、いきなり耳に怒鳴り声が飛び込んできた。怯えながら奥を見ると、カウンター越しに向き合う黙ったままのママと恐い顔のおじさん、そして、そこから眼を背けて細々と飲む数人のお客さんがいた。怒鳴っているおじさん以外みんな見た顔で、私は急に変な勇気が湧いてきた。

「ちょっと」

 つかつかと歩いて行って、おじさんの腕を掴む。すごい剣幕で「なんだ、おまえ」と腕を振られたけれど頑張ってしがみついて、

「ママが怒鳴られるなんて分からない、なにをしたって言うの」

 と言った。

「やめて」

 平坦だけれど恐ろしさが伝わってくる声に、おじさんと一緒に動きを止めると、冷静な顔をしていたはずのママがおじさんを睨みつけていた。

「あなたもやめてね」

 優しいはずのママの気迫に呆然としていたら、薄く笑った顔がこちらを向いてそう言った。

「おい、離れろ」

 おじさんの言葉に素直に手を離して聞いた。

「なにがあったの?」

 それからのおじさんの話では、確かにママに責任はなかった。ただ、昔から仲のいい人が、酔っておじさんの舎弟を殴ったらしい。

「それでなんでママを怒るんです」

「おい、おまえ、そんな口きいてると、この辺歩けなくなるぞ」

「元々歩ける足なんてなかったんです。ママが歩けるようにしてくれたんですから、ちゃんと歩いてたママが歩けなくなるのじゃなきゃ、いいです」

 おじさんがあざけるように笑った。

「おまえ、コイツがどんなやつだったか知らないだろ」

「そんなに知っているわけじゃないです。でも……」

 ムキになって言った。

「おじさんよりずっとまともです」

「なんだと」

 おじさんの目が一気につり上がって、私は蛇ににらまれたカエルの気分になった。でも、後には退けないし、死んだような私だったのだから、今死んでも同じと言うような気もして、叫んだ。

「だって、今こうしてちゃんと生きてるじゃない。前に迷惑かけていたかも知れないけれど、今取り戻してる。亡霊だった私をこの世に連れ戻してくれて、私と同じような人をこの世界につなぎ止めて、生きていられるんだ、私たちも幸福でいられるんだ、って思わせてくれたんだもの。おじさんは誰かに幸せを分けてあげたの? 今のママは善意の中に生きている。おじさんは同じなの?」

 私は客席を見た。本当にうらぶれて見えかけたお客さんの顔、ひとりひとりと目を合わせた。

「ねえ、皆さんも、だからここにいるんでしょう? 来ているんでしょう? 働いたあとの時間を、ささやかでも温かく染めてくれるからでしょう? だったら、ちょっとぐらい何とか言ってよ!」

 ちょっと間を置いて、うつむいたひとりのお客さんが、おじさんの方を向いた。

「僕がなんとか言えることじゃないけれど、ママは鉄さんを擁護してるわけでも、あなたが悪いって言ってるわけでもないよ。勘弁して貰えないだろうか」

 鉄さんとは殴った人のことらしい。その後、ひとりが目礼して、ひとりが手を合わせた。おじさんはなんとなくうろたえた様子で、

「じゃあ、どう落とし前つけてくれるんだよ」

 と言った。

「ご馳走します、私が、このお店で。ママがいいって言うなら、私も厨房に立ちます」

「おまえ、まともなもの作るんだろうな」

「お詫びの印です、当然です」

 恐かったおじさんも、実は怯えていたのかも知れない。私の言葉に苦笑して出て行った。去り際、右手を挙げて、「二週間で退院するんだ、土曜の夜に来る」と言った。


 いつもより関係が密になった店内で、私は青いカクテルを揺らしながら、カウンターに突っ伏していた。

「馬鹿ねえ」

 はじめてママが汚い言葉を使った。笑って馬鹿と言うママに、私はなぜか褒められた気になった。

「だってさ、馬鹿だもの。頭よくなんて、なれないよ」

 人間その方がいいのかもね、とママが口角の上がった口元でつぶやいた。

「嫌な気分にさせちゃってごめんなさいね。今日は皆さんに一杯サービスするわ」

 早速空のグラスを持ち上げるお客さんを見ながら、私はそれよりさ、と言った。

「料理教えて」

「なによ、さっきあなた、あれだけ言ったのに、できないの?」

「ちょっとはできるよ、それなりに」

 慌てて取り繕った。

「でもさ、万全を期した方がいいじゃない?」

「それはそうね。得意な料理はなんなの」

 ママはにやついている。

「……目玉焼きと油炒め」

 ……吹き出された。

「じゃあ、煮物でも教えましょう。唐揚げと」

「もっとおしゃれな方がいい」

「あのくらいのおじさんには、ベタな方がウケるの。とりあえず、包丁の使い方から教えてあげる」

 え、今度でいいよ、と言う私を厨房に引き込んだママは楽しそうだった。包丁を握る私を後ろから抱え込むようにして、手を添えたママの体温を、私は懐かしく感じた。でも、ここは確かに、私がひとりになってから獲得した場所だった。

 包丁の音が響く。お客さんが私たちを温かに見守る。

 テレビのニュースでは、キャスターが梅雨明けを伝えていた。


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