昼食でのランデブー
くるるという腹の虫の声が脳裏にまとわりつくまどろみを抜けて耳に届くと同時に、校舎の屋上に横たわった僕の体が震えたのがわかった。体を横たえていたい脳と、滋養を求めて打ち震える体が、僕の意思の主導権を乗っ取ろうと戦っている。そして腹の虫に率いられた体がいつものごとく勝利を収め、僕は体を起こすことにした。
手で軽く土埃を払い、ストレッチをして身体の凝りをほぐす。その間に負けた側の脳みそは周囲の状況を読み取って、いつも通りの日常が続いていることを理性に教えていた。時計が見えない場所で眠っていても僕の腹時計は常に正確な時間を刻み、僕に食事の時間を教えてくれる。今は正午五分前、そろそろ学食の開店準備が終わる時間。ピッタリの時間に目が覚めたのはもちろん偶然ではなく、今までの経験が体に強制する必然だった。
昼食の時間帯は常に混みあう学食では、席をいかに確保するかがその勝敗を分けると言っても過言ではない。普通ならそれに授業の先生の話の長さという条件が加わるのだけれど、あいにく僕は普通の範疇にはなかった。好きな授業にしか出ない僕は、嫌いな授業が集中する昼前の授業では必ず屋上で惰眠をむさぼっている。確実に間に合う時間に起きさえすれば必ず間に合うという点では特権階級といっても差し支えはないだろう。
こういってしまうと不良のように聞こえてしまうかもしれないけれど、僕は純粋に取捨選択を学校を相手にしているだけだった。好きな授業には出て、嫌いな授業には出ない。ほどほどの成績を提供しているのだから学校側に文句を言われる筋合いはないし友人にも迷惑はかけていない。その行為でやる気が削がれるならそれまでの話だし、休みたければ休めばいいのだ。合理的な判断ができない人間に判断しろと無理を言う気はないけれど、判断できないのならせめて邪魔だけはしないでほしい。
校舎内につながるドアに手をかける。1日の初めに入るときにはちょっとした裏技を使わなければいけない屋上だけど、開けてしまえば出入りにそう大した手間はいらない。ドアを開け、受け金に詰め物をしてから普通に閉めるだけでいい。閉めるだけで施錠されてしまうタイプのドアでも、鍵がしっかりと最後まで受け金に送り込まれないとかからない古いタイプだから問題はなかった。
学食まで余裕を見ても2分。校舎を縦に貫いている階段をまっすぐ1階まで降りればもっと早く着くけれど、職員室を掠めるのは教師に見つかって結果的に時間がかかるリスクが大きい。どうせそこまで急いでいないのだから散歩がてら回り道をするのも悪くない。急がばまわれともいうし、という言い訳めいた声は心のなかだけに留めておくことにした。
学食が収まる生活学習棟はさっきまで僕がいた一般学習棟の隣にある2階建ての校舎だ。コンクリート製の豆腐というのが一番しっくり来る白い一般学習棟より2階分低い生活学習棟は、この学校が創立した当初からある伝統深い校舎なのだそうだ。確かに総レンガ造りの現役校舎というのはそんなに聞く話ではないし、なによりその古ぼけた外観が一番説得力をもって長い歴史を訴えかけてきている。ただ使う側の生徒としては使えれば伝統があろうがハイテクだろうが問題はないわけで、これまでも今も何の感慨を抱くことなく敷居をまたいだ僕はたぶん今後もこれといった思いを抱くことはないのだろうなと感じた。
古い校舎といっても実際に使われている以上改築は受けている。学食スペースなどはその最たる例で、外観からは想像できないモダンな造りになっている。フローリングの床、罅のない壁や天井。この学校で自慢する場所といえばと聞かれたら、この学校にさして愛着のない僕はたぶんここを選ぶだろう。他の学校では学食自体がないところもあるというし、なかなか学食にまで修繕の細かい手が回るとも思えない。外観に気を使う以上中身にも気を使わなければならない関係で、月イチで業者の整備が入るというここはむしろ異常な方だと思う。
「ここ、いいかしら」
うどんの器をのせた昼食のトレイをもって、今まさにテーブルに置こうとしたタイミングで声をかけられた。若い女性の声。聞き覚えがない声だ。声のした後ろをみる。いつからいたのだろうか、今どき珍しい真っ黒なパンツスーツを着た女性がトレイをもってそこに立っていた。
「後ろからごめんなさいね。びっくりさせるつもりはなかったんだけど」
「大丈夫ですよ。どうぞ」
如才ない返事ができたことにむしろびっくりした。そんな本音が口に出せるはずもなく、唇を引き結ぶしかない自分がどこか歯がゆかった。
そんな内情は露ほども知らないだろう女性が、わざわざ自分の向かい側にまわって座る。野菜炒め定食、400円。転じてこちらはきつねうどん350円。何を比べるわけでもなく思い浮かべた僕の隙を突くかのように、彼女は人懐っこく話しかけてきた。
「君はおさぼりくん? それとも遅刻?」
無邪気という表情があるならこういう表情なのだろう。女性の言葉にも声色にも、もちろん表情にも表裏は感じられない。興味本位で聞いてるにすぎないのだろうことはすぐにわかった。「おさぼりです、英語は嫌いなので」と答えると、彼女はクスクスと笑った。
「正直だね、君は」
なんと答えたら良いのだろう。僕にはわからなかった。
「高校か、なつかしい。私も勉強嫌いだったよ。やらなくてもできるんだもん、できることやったって意味ないのに。そういうところ学校って合理的じゃないよねぇ」
全く同意だったが、ならなぜ懐かしいという言葉が出てくる余地があるのだろう。僕は不思議だった。
「周りだって幼稚。話し合いなんてする余地ないし。あわせるのがバカらしい、こっちがバカになっちゃいそう。教師に至ってはもっとだよね」
心のなかを読み当てられてでもいるかのように、次々と日々募る不安が彼女の口を通して出てくる。なんだ、この女。最終的にはその言葉に集約される様々な思いが言葉になる前に、彼女は両手で口を覆った。
「ごめんなさい、自己紹介もまだなのにおはなしばっかり」
そういうなり懐にたおやかな手を差し込む彼女に、僕は何も言えなくなる。1拍後に引き出された手には、予想していたものとは違うものが握られていた。
「伝統的建築物を内包する教育現場の実態……なんて流行らないテーマの取材でも、大手新聞社の名前さえ出せば受け入れてくれるのが私立学校のいいところよね。実際はマスコミ関係ですらないんだけど」
革製の二つ折りになったカードケースはドラマでよく見るそれそのものに見えた。中にはバッジと身分証カードが入っていて、彼女の着ているジャケットとは紐でしっかりつながっているにちがいない。日本最大の公的機関、国営ヤクザや桜組の別名を持つ組織。一気に口の中がカラカラになる感覚を味わいながら、僕は混乱の中に叩き落とされていた。
「お役所仕事だよ。この学校は何ら『問題』ありませんって確認。秘密にしなきゃいけないから、内緒ね」
結局カードケースを開くことなく懐にしまい直すと、内緒という言葉とともに人差し指を唇の前に立てる。コケティッシュな笑みは、秘密を守れという暗黙かつ強烈なメッセージを僕に突きつけているかのようだった。
それっきり、僕と彼女との間に会話はなかった。彼女は女性らしい小さな口で野菜炒めを頬張るのに夢中で、僕はといえば美人を前にした緊張とは別格の恐怖で箸が進まなかった。
それでも目の前のうどんをようやく啜り終わると、彼女は待っていたかのように立ち上がった。
「ここのごはん、おいしかったよ」
僕は結局彼女の言葉を聞くだけに終わった。また来るかも、という言葉に口が縫い止められたかのようだった。だからこれは厳密には会話ではない。
美人に声をかけられても相手にするな、手ひどいしっぺ返しがある。彼女にそう教えられた気がした。
そしてもうふたつ、僕を恐怖に陥れた出来事がある。
僕以外に学食を使った人間は生徒教師職員を含め誰もいなかったこと。彼女がいつの間にか僕の背後にいた時も、相席中も、彼女が退席したあとも、誰一人として。学食スペースを出るときに覗き見た厨房にすら人がいなかった。僕がうどんを頼んだときは確かに厨房には人がいたのに。
校内各所に学食臨時休業の張り紙があったこと。どうやら昼前にお知らせとして貼られていたらしい。授業をサボっていた僕が知る由もないことだったが、ならなぜ学食は開店していたのか。
予想はできたが、それは決して口外してはならないことだということも予想できた。
レンガ造りの気取った校舎を背にして立っているのは東京地区を管理する警視庁公安部担当者だった。ダークスーツを着込んだ、一見すると私の上司のようにも見える年かさの男だが、実際は私のほうがはるかに高位にいる。20代後半で局長クラスに立つ例外中の例外を前にして、緊張で息もできないという内面を押し隠しているつもりなのだろうか。
さっきのおさぼりくんの方がよっぽど本音を隠すのがうまかった。そう思い至り、私は思わず苦笑する。同族を見つけた気になって、ちょっとびっくりさせてみようと思ったらこの始末だ。仲良くなれるとでも思ったのだろうか、この私が。
ここには高校時代の友人の頼みで調査に出向いていた。なんのための調査かは教えられなかったが、少なくとも私用ではないことは分かった。だからわざわざ忙しい時間の合間を縫って調査に来たのだ。伊達でも酔狂でもなく、純粋に仕事のため。だから、あんなことをすべきではなかったのだ。
だが、過ぎた後悔はしても仕方がない。まずは、私の苦笑に怯えた風情を見せる目の前の木偶をどうにかしなければ。「すみません」と声を発する。
「思い出に浸ってたのがおかしくなって。行きましょうか?」
ほっと安心する様子がばればれの公安警察官にかすかな不安を抱く。しかしその感情も、次に控える会議の案件に押しつぶされてすぐに消えてしまったようだった。