その、鮮やかな白
これは僕の、少年時代の話だ。
・・・
僕が住んでいる国の名は、旧い言葉で「白氷の国」を意味するらしい。舌を噛みそうな旧い言葉の、いってしまえば「音」でしかない国名よりも、僕は「白氷の国」と、今の言葉で呼ぶ方が好きだ。意味の解らない「音」よりも、意味のよく解っている、馴染みのある言葉でこそ、この国名がこの国には相応しいのだと深くふかく納得できるからだろう。
この国の古い建物の外壁は、すべて白で覆われている。長い冬の景色を懐かしむような、それに対抗するような──確かにこの国は「白氷の国」なのだ、と、僕は思う。
首都の、白い氷で出来ているような建物の建ち並ぶ、古くからの大通りを抜けていくとそこにはひとつの噴水がある。
巨大な、円形の噴水だ。確か、僕がエレメンタリィ・スクールの四年生だった頃、一学年の百人で手をつないでみても、一周することはできなかったと記憶している。
噴水の白い縁には、たくさんの女神の彫刻が、まるで遊んでいるように配されている。
誰がいつ、どうやってこの噴水を作ったのかは、定かではないそうだ。
活き活きした女神たちの白い彫像は、この国の全土を覆う白氷の色ではなくて、ミルクをゆっくり暖めてよくかき混ぜたクリームで出来ているような、温みのある白をしている。幼い頃はその色を、舐めたらやわらかなミルクの味がするように、触れたらじんわりと温みが伝ってくるように思ったものだ。
そして噴水の中には、これまたどういう原理で湧いているのか解らない水が、常に満ちている。その水は、どうしてか鮮やかなアクアマリンの色をしているのだ。
僕はこの場所が好きで、あの頃、友人であったエウフェミアとの待ち合わせ場所によく使っていた。
僕だって、これでも分別はあるつもりだ。だから観光客の邪魔にはならないように、女神たちが良く見える真正面ではなく、彼女たちの背後にあたるところにひっそり佇むのが常だった。
そして、エウフェミアが来るまでの短い時間、僕はひとりで噴水の中を覗く。
アクアマリンの色に輝く水底には、僕ら「白氷の国」と同じような街が見えた。がっしりした四角い作りも、その外壁が白いのも、まるで同じような街だ。
僕らはその街を、矢張りこの国の旧い言葉で「蒼海の国」という意味を持つ音で呼んでいる。記録にある限り、「蒼海の国」はこの噴水と共に最初から存在しているそうだ。この噴水の、遙か下の方に。
作り物めいた街だが、「蒼海の国」にだって人は住んでいる。
聞いた話によると、「蒼海の国」からこの「白氷の国」は、空にぽっかり浮かんでいる青い水晶球みたいに見えるのだそうだ。アクアマリンのような淡い青の水の満ちた、金魚鉢といったところか。
だからこちらの国の住人も、あちらの国の住人も、互いのことを「人魚」のように思っていた。もちろん、僕らの首には別に鰓なんかないし、彼らの首にもそんなものはない。どうなっているのかは、そのうち学者が解明するだろう。
解っていればいいのは、「人魚」と自分たち「人間」は違うということだった。
僕らはこの噴水に飛び込みさえすれば、あちらは空にぽっかり浮かんでいるように見える巨大な青い水晶球の下に立ちさえすれば、簡単に行き来することが出来る。それを知識として知ってはいても、実行に移す奴なんかいなかった。「人魚」への差別意識はあちらでもこちらでも強すぎるからだ。僕はあの頃、あちらのことはよく知らなかったけれど、少なくともこちらは、良くも悪くも変わったことは許さないお国柄だからね。
実際、僕がそうするように噴水の中をしげしげと覗く者は、とても珍しかった。
他国から来る観光客の中には、この国特有の、よく解らない「国境」を覗く者も、ふざけて飛び込もうとする者もいるが、各国で発行されているガイドブックには「噴水の中に入るどころか、覗き込むことも好まれない」と書かれているし、ガイドも観光客にそう指導していると聞く。普通の観光客はちらちらと目の端で中を窺うのが精々だ。あとは女神の像を褒め称えて記念写真を撮ればいい。
知識の乏しい観光客と違い、この「白氷の国」出身であると外見で解る僕は、噴水を覗くことで非好意的な視線を幾度も受けたし、忠告めいたものを受けたこともあった。中にはもっと直接的に悪意をぶつけられたこともある。
だけれど僕は、噴水のそばに行くたびに、水底に広がる、まるでおもちゃのような国を見下ろさずにはいられなかった。
アクアマリンの色をした美しい水はどこまでも透明に輝き、触れる者すべてを浄化してくれそうなほど目に優しい色をしている。それならばその蒼に包まれる「蒼海の国」はきっと楽園のように美しい場所なのだと思わずにはいられない。
けれど飛び込む勇気まではなく、僕はただ、周囲の視線に精一杯抗って水底を除くのが精一杯だったのだ。
だから驚いたさ。驚いたとも。
「あっちも綺麗よね」
いきなりそんな風に話しかけられたときには。
「白氷の国」でも息の凍えることのない、短い夏の終わり頃の話だ。
「ええ……まあ」
怪しげな宗教なら間に合ってます、なんて無礼な台詞を用意したのは、この背景事情と、話しかけてきた少女の服装からだ。
この国は「白氷の国」だ。長い冬という白の印象と、国中を覆う建物の白が、人々を取り囲む国。だから、世代による流行の差こそあれ、若い世代は濃い色の服を着ることが多い。それがこの国の空気に次第に感染していくように、段々と薄い色を着るようになっていくのだ。
若くても薄い色を着ている人間はいるが、そうした連中は大体、着るものに興味のない、親の言うなりに着ているのがまる判りな連中ばかりだ。遠慮なく言わせて貰うなら、大抵とんでもなくダサいか、年寄りくさい。
少女がそのとき着ていたのは、淡い紅色のワンピースだった。そう、「淡い」色。白氷に滲んでしまった薄い色ではなくて──何と言えば良いのだろう。彼女の着ていた淡い紅色は、その色で存在しなければならないと予め定められていたような、そんな色だったのだ。
干した藁のような髪をきっちりおさげに結っていたし、赤い縁の眼鏡を掛けたそばかすだらけの顔は、あのとき僕が待ち合わせをしていたエウフェミアに比べれば、そんなに綺麗だった訳じゃない。
だけれど、僕は彼女のことをダサいとも年寄り臭いとも思わなかった。その分、僕は随分なことを考えた訳だけど。
口籠もった僕をどう思ったのか、彼女は明るく笑って「私はオリエッタ」と名乗った。その間も、彼女の手は休むことなく動いている。噴水の縁に腰掛けているオリエッタは、どうやらそこに腰を据えて白のレース編みをしている最中だったようだ。ぱっと見ただけでも解る細かな模様が、とても美しかった。
「よくそうやって、人と待ち合わせして噴水の中を見てるでしょ? 私、自分以外に毎回噴水の中を見てる人なんて、初めて見たわ」
けらけら明るく笑って、オリエッタは編み棒を動かし続ける。
「オリエッタ……も、良くここに来ているの?」
「いっつも可愛い女の子を待ってるあなたに気付くくらいにはね。でもあなたはやっぱり、私には気付いてなかった」
くすくす笑われて、多分僕は赤くなったんだと思う。実際、僕は噴水の中を覗くことと、待ち合わせ相手であるエウフェミアのことしか考えていなくって、周りなんか見ちゃいなかったんだから。
クリス、と、僕を呼ぶエウフェミアの声に、あのときは救われたよ。
ぱっと振り返って片手を挙げると、エウフェミアが走ってくるところだった。
長いつやつやした黒髪に、菫色の瞳。小作りで上品な顔立ちを紅潮させて走ってくるエウフェミアの姿に見とれる奴は何人も周りにいた。瞳の色に合わせたような、濃いワイン色のニットが、とてもよく似合っていたっけ。
手を振る僕は、彼女が僕を指して走ってくることだけが嬉しかった。友達でも構わなかった。この時間がある限りは。
「またね、クリス」
折角だから、次からは話し相手になってね、と言ってくれたオリエッタに思わず頷いたことを、僕は幸運だと思っている。
オリエッタが僕のことを良く知っていて当然だと気付くのに、時間は掛からなかった。
何せ、エウフェミアとの待ち合わせのために噴水に行くと、オリエッタはいつも噴水の縁に腰掛けてレースを編みながら、時々噴水の向こう側にある「蒼海の国」を覗き込んでいたのだ。同じ場所にしょっちゅう来て、しかも「蒼海の国」をまじまじ覗き込んでいる僕のことなど、覚えてしまって当然だろう。
「それに、あんなに可愛い子と待ち合わせしてるんだもん。そりゃ覚えるわ」
彼女によく似合う淡い色の服を着たオリエッタは、手も口も休めない。女の子はお喋りな子が多いということは知っていたけれど、あんなに器用にお喋りに夢中になる子のことは、未だにオリエッタ以外に知らない。
「あの子を褒められて、そんなに嬉しい?」
エウフェミアのことを褒められた頃には、僕はもうオリエッタと大分親しくなっていた。
季節は移ろって、短い夏に引き続き秋も終わり、息がほの白く立ち上り始めたころだ。その頃には僕はもう、噴水に来るとオリエッタと話さずにはいられなかった。いつも、エウフェミアが待ち合わせの時間に来るまでの、ほんの短い時間ではあったけれど。
だから多分オリエッタが相手だと気が緩んでしまって、エウフェミアを褒められた嬉しさが思い切り顔に出てしまっていたんだろう。
「……嬉しいよ」
くすくす笑うオリエッタにつられて、僕はいつの間にか僕のことを話していた。
僕は元々、人付き合いが上手くない。原因は自分自身にあると解っていたけれど、たとえば1に1を足したら2になる、というような、絶対の解き方が欲しいと思っていたけれど、僕一人きりではどうしても、原因を断つことも、絶対の解法を見付けることも出来なかった。
いじめられている、というほどの疎外感を感じたことはなかったけれど、なんとなく、普通の人というものは、僕とは薄い膜を何枚も重ねた向こう側にいる人たちだと感じられてならなかったのだ。
一人でいじけて、やがて自分一人の空想の世界に没入するようになっていった僕に手を差し伸べてくれたのが、エウフェミアだった。
「いつも違う本を読んでいるけど、どんな本が好きなの?」
物語に没頭している間だけは全てを忘れていられる、そこにのめりこんでいられたら楽だと思っていた僕のところに、彼女は本当に、ただ、興味を持っただけという穏やかな笑顔で近付いてきてくれたのだ。
「ええと……ファンタジー、とか」
「本当? わたしも好き!」
エウフェミアは、クラスの中心にいる訳じゃなかった。ぐんぐん前に出て行くようではなくて、みんなの傍でひっそり月見草のように微笑んでいる、そんな優しい女の子だ。
だから僕なんかに声を掛けるのは、勇気が要っただろうに。
それなのに怯えたようでもなく、憐れんでいるようでもなく、ただ話し掛けたいから話し掛けたのだというように、僕に向かって。
ぽつんぽつんと、エウフェミアと話をするようになって、気付いたら僕は人の中にいた。
どれだけ感謝したか知れない。
エウフェミアのように人に接したいと憧れて──まあ、それは彼女のような心底優しい人間ではなかったから無理だったけれど、それでもエウフェミアならどうするだろう、と、考えるのは無駄ではなかったと思う。
僕はエウフェミアのお陰で、薄い膜の向こう側を覗いて、少しだけ、向こうに触れることが出来るようになっていたのだ。
「だから、エウフェミアが褒められて嬉しくないはずがないんだ」
僕なんかが褒められるよりも、ずっと。
憑かれたように語る僕の話を、オリエッタは笑顔で聞いていた。あのときも、そういえば彼女らしい、淡い桃色の服を着ていたっけ。
「そっか、いい人に会ったんだね」
「まあね」
笑って見せたけれど、僕はオリエッタに言えなかった。
僕は多分あの日からずっと、エウフェミアが好きなのだと。
言わなくても多分、オリエッタなら解っていたと思うけれど、それでも僕は──彼女になら言えるような気がしたのに、言えなかった。僕なんかがあの優しく綺麗なエウフェミアを好きだなんて言うのは、それはおかしいことだと……あの頃僕は、かたくななまでに思っていたのだ。
作ってしまった沈黙を誤魔化すように、僕は噴水の中を見下ろした。
アクアマリンの青の中には、白い街がゆらゆらと揺れている。遠いあの街に生きる「人魚」たちが僕の話を聞けば、どう思うだろう。この国に住んでいる人たちならきっとそう言うのと同じように、僕をおかしいと、エウフェミアが可哀想だと、そう言うだろうか。
それとも、もしかしたら。
あの澄んだ蒼の中にいるひとたちなら、僕は僕のままでも、当たり前の人のように。
凝っと噴水の中を見詰める僕との距離を、オリエッタが詰める。
それまでは決して休めなかった手を止めて僕のすぐ隣に座ると、オリエッタは僕の耳元でこう囁いたのだ。
「私、この噴水の向こうに、恋人がいるの」
誰にも内緒よ、と、囁かれて、僕は咄嗟に返事が出来なかった。
向こう側に──「蒼海の国」にいくことは、こちら側である「白氷の国」にとっては、禁忌なのだ。それなのに向こう側に恋人がいるなんて、そんなこと、即座に信じられるものじゃない。
声を喪った僕に、オリエッタは「あの子が来たよ」と笑いかけた。
「この話はまた今度ね」
なんて、まるでちょっとした学校の噂話をしていたように言って、オリエッタは僕の背中を押したのだ。
エウフェミアと喫茶店に行って上の空になったのは、あれが最初で最後だよ。
オリエッタに続きを聞いたのは、その翌日のことだ。
いつものようにエウフェミアを待つ為じゃない。オリエッタに話を聞きたくて、僕はあの噴水に足を向けたのだ。
吐いた息が淡く白く立ち上り、この「白氷の国」に一層の白を加えていた。どこもかしこも白く、白く、お前もこの白になれと威圧的に強いてくるかのような、冬の白だ。
オリエッタはその日も、白いレースを編んでいた。
「来ると思ってた」
「なんで」
「私だったら、ちゃんと話聞きたいもん。クリスもそうかな、って、何となく思ったの」
座って、と、勧められるままに僕はオリエッタの隣に腰掛けた。
「私ね、昔から向こう側が気になって仕方なかったの。だって、あっちって凄く綺麗に見えるじゃない?」
温みのある白い女神の彫像に囲まれた、アクアマリンの色をした水が湛えられた噴水。その向こう側に広がる、「蒼海の国」は不思議の国だ。こちらとほとんど変わらない場所だと話には聞いていても、僕には「蒼海の国」がもっと美しく、もっと素晴らしいのではないかと思われてならない。
だからオリエッタの気持ちは、僕にも痛いほど解った。僕だって、何度向こう側に生まれていたらと思ったか知れない。
「だからね、思い切って飛び込んだの。だぁれも見てない、真冬の夜中に」
僕には、オリエッタが「蒼海の国」に旅立つ光景が見えるような気がした。
きっとオリエッタは、彼女が一番好んできていた淡い桃色の服に身を包んで、なんの恐れも戸惑いもなく、わくわくした笑顔でこの水の中に飛び込んだんだ。
ああ──アクアマリンの色をした水は、オリエッタに優しかっただろうか。
「向こう側はね、拍子抜けするぐらいこっちと同じだったよ。言葉も同じだし、住んでる人の顔立ちだって大して変わらない。私が向こうに行っても気付かれないくらいなんだからね。お金だけ全然違ったから、あっちで飲み食いしたりなんだり、ってのは難しかった。だからね、向こうでも編み物をして、教会の前庭で売って小銭を稼いだりして」
見て、と、オリエッタが真っ直ぐ噴水の真ん中のほうに指を指した。
つられて、僕は見慣れた光景を凝っと見る。オリエッタが指し示したのは、見ていて痛いような尖塔のついた、矢張り真っ白い石造りの建物だ。立派な建物だとぼんやり思っていたけれど、それが教会であるということを、僕はそのとき初めて知った。
「そこでね、リベルトに逢ったの」
身体が弱くて入院しがちな小さな妹と二人暮らしをしている、優しいひと──と、オリエッタは笑った。
オリエッタはいつものように干した藁のような髪を三つ編みにしているし、顔にはそばかすが一杯で、顔立ちだって飛び抜けて美しい訳じゃない。
でも、オリエッタはとても、とても可愛かった。
白に閉ざされたこの国の中心にいてさえ、彼女の周りには淡い桃色の空気が花開いているみたいに。
「妹さんの肩掛けが欲しかったんだって。あんまり気に入ってくれたみたいだったから、嬉しくなっちゃってさ。私、妹さんの好きな色やデザインを聞いて、それからリベルトに似合いそうなものもたくさん作って」
オリエッタは一度も目を伏せず「優しくしたくなったの」と言っていた。
「たくさん優しくして、たくさん笑わせて上げたくなった。やり方があってたのかは解らないけど、私に出来る精一杯、ってやつ?」
僕は逢ったこともない、リベルトという男と、その小さな妹さんのことを考えた。
きっと、彼らは嬉しかっただろうと思う。
「そしたらね、私がするより優しくしてくれて、参っちゃった」
負けっ放しって感じ? と、オリエッタは笑っていたけれど、きっと同じことを向こうも思っていたに違いない。
優しくしあうことは、特別でなければ出来ないことなのだから。
「私、リベルトが好きになってた。リベルトもそうだって言ってくれた。私がこっち側の人間だって言っても、そんなのどうでも良いんだよって。それより君はいいのかって。そんなの気にしてたら、私はリベルトに好きだって言わないのにね」
そうか、オリエッタはしあわせなんだ。
思ってから、僕は気付いた。
それなら何故オリエッタは、毎日この湖の縁にいるんだろう。噴水の中に飛び込むことをしないで。
「……こっちからすれば、向こう側って噴水の底にある国のように見えるでしょ? でもね、あっちから見ると、ここは空にぽっかり浮かんでいる青い水晶球みたいに見えるの」
だからね、と、オリエッタはそれまでより一層明るく笑ったのだ。
「だからね、そこから降りてくる人間なんて、深夜だろうがなんだろうが、目立ってしょうがないのよ。で、向こうの一部の人たちには、こちら側の人間は、金魚鉢で飼われる人魚みたいに思われてるの。
……どうなるか、解るでしょう?
リベルトは私に『気にしなくていい』と言ってくれた。でも彼どころか、彼の小さな妹に、嫌がらせをする人もいた」
このとき初めてオリエッタの額に深い皺が刻まれたことを、僕は忘れていない。
僕は迷ってから、彼女の働き者の手にそっと自分の手を重ねた。ちょっと驚いたような顔をして、オリエッタは微笑んでくれる。ありがとう、なんて、僕なんかに言わなくたって良かったのに。
「三人で、こっちに……」
「無理よ。ここから出てくるのだって充分目立つ。それに妹さんは身体が弱いから、主治医もいないこちらで元気にやれるかどうか」
一拍置いて、オリエッタは僕に囁いた。
「ねえ、クリス。私は、リベルトも、それでも一緒にいることを諦められていない。私たちを馬鹿だと思う?」
「頑張れ、オリエッタ」
頑張れ、と、僕は必死に言葉を吐いた。
正解だったのかは解らない。僕は一人では、普通の人に近付けない人間だから。
ただオリエッタは僕の頬に、優しいキスをくれた。
「ありがとう、クリス。あんたも頑張りなよ。好きなんでしょう?」
誰のことを、と、オリエッタは言わないでいてくれた。僕に勇気がないことも全部知っていて、そして黙ってそこにいてくれた、優しいオリエッタ。
最後に彼女は僕に、ひとつ、彼女の希望を打ち明けてくれた。
オリエッタとの別れは、本格的な冬が来た頃だ。
いつものようにエウフェミアとの待ち合わせの為に噴水に行くと、欠かさずそこにいたオリエッタの姿がどこを探してもなかった。
もしや、と、早足で僕らの定位置に行くと、そこには小さな便箋が石で留められていた。
少し丸みのある字で一言「見守っていて」と書かれている。
はっとして、僕はアクアマリンの色で満たされた噴水の中を覗き込んだ。
運良くと言うべきか、それともオリエッタが、僕が来る時間に合わせたのか、定かではない。でも僕の目には、真っ白なドレスとヴェールに身を包み、きらきら輝く長い金褐色の髪を靡かせたオリエッタと、同じく純白の礼装を着た男が手に手を取って走っている姿がはっきりと見えたのだ。あの尖塔のある教会の外階段を、二人で必死に駈け上がっている。後ろから追い掛けてくる数十人の人間に追いすがられまいと。
『ねえクリス。あっちではね、こっちよりももっと教会が力を持っているんですって。その戒律にあるの。結婚したい男女が国の中央にある教会の天辺にある鐘を鳴らしたら、その結婚には何人たりとも異議を唱えられない、って』
オリエッタは、教会に駈け込む機会をずっと待っていたのだ。
自分の手で花嫁衣装を編み上げて、失敗したらきっと酷い目に遭うのに、それでもリベルトと鐘を鳴らして共に歩き続ける道を、選んでいた。
「オリエッタ、オリエッタああああ! 頑張れ、オリエッタ!」
僕は必死に噴水に向かって叫ぶ。
それまでは噴水の向こう側なんて存在しない振りをしていたこの国の大人たちが、何事かと噴水の中を覗き込んでいた。
僕は必死で叫ぶ。
オリエッタ、オリエッタ頑張れ!
喉から血が出ても、もう二度と声が出なくなってもいいと思った。あのオリエッタに声だけでも届けたかったのだ。
オリエッタの、繊細なレースで出来たドレスとヴェールが、風をはらんで大きく膨らむ。
その、鮮やかな白!
「白氷の国」に生まれて、ずっと白に囲まれて生きてきたというのに、僕はあれほど鮮烈な白を初めて見た。
走る二人は建物の中に入る。寸前、オリエッタとは目があったような気がした。
頑張れ、と、叫び続ける僕の耳に、遠くから確かに音が聞こえた。
からん、からんと鳴り響く、六音階の、祝福の鐘──。
「クリス、どうしたの? 何があったの?」
僕の声を聞いてだろう、心配そうにエウフェミアが走り寄って来た。
「女の子が噴水の所で騒いでるって聞いて、わたしびっくりして……本当にどうしたの?」
大丈夫? と、尋ねるエウフェミアに、僕は「大丈夫」と応えた。
僕は自分のことを、男だと、少年だと、幼い頃からずっと思っていた。
だけれど、僕の名はクリスティーナ。僕の身体はどうしようもなく、女なのだ。
だからエウフェミアに、僕がおとことして彼女を好いていることを悟られる訳にはいかなかった。この国は、良くも悪くも変わったことは許さないお国柄だからね。優しい彼女を苦しませることは僕の望むことではないし、逆に、彼女に気味が悪いと言われることだけは、それだけは……。
ちら、と、僕は噴水の中を覗く。
からん、からん、と、鐘を鳴らしても、オリエッタとリベルトの先は安泰ではないだろう。結婚に異議は唱えられなくても、きっと様々な嫌がらせを受けるだろうし、自分たちだけじゃなくて、リベルトの妹さんだって守っていかなければならない。
噴水の向こうに、楽園なんてない。オリエッタはそれを知っていたし、僕ももう、噴水から見える景色を綺麗だと思う気持ちに変わりなどないけれど、あちらに行けば何もかも上手くいくような夢なんて見ていない。
「白氷の国」と変わらない……いや、外国人であることを考えれば、もっと酷いところだろう「蒼海の国」で戦うことを選んだオリエッタに、僕は、頑張れと言って貰えたのだ。
──戦うのは、今だ。
「エウフェミア、場所を変える前に聞いてくれないか」
「なに……?」
「あのね……」
・・・
──結局、僕の恋は実らなかった。
だけれどエウフェミアは僕の想いを真剣に受け止め、心は男なのだという僕の言葉もそのまま飲み込んで、その上で「友達として好きだけれど、恋人にはなれないわ」と、真っ直ぐに僕に気持ちを返してくれたのだ。僕は、だから、彼女のことを好きになって良かったと思っているよ。
そして僕はそれから間もなく、まずは身内と親しい友人に、自分の心についてすべてを明かした。
性質の悪い冗談だと怒る人もいたし、気持ちが悪いと言う人もいたよ。でも、オリエッタのように、エウフェミアのように僕を受け入れてくれる人は確かにいた。
お陰で僕は今、人の中に在って、幸福だよ。
だからあの日が、オリエッタが鐘を鳴らしたあの日が、僕の二番目の誕生日だったのだと今は思う。
あれから長い時が経って、変わったことは許さないお国柄であるこの国も、僕がこうやって堂々と講演をすることを黙認するくらいには、変化してきてくれている。だからこの講演を聴いていてくれるみんなが、僕や僕の昔の話をどう思うのかは、みんなの自由だ。
ただ、最後に付け加えておきたい。
時々「蒼海の国」から、彼女らしい淡い色のスカートでやってくるオリエッタと僕は、今もあの噴水の縁で楽しく話をしている。
彼女は幸せなのだそうだ。今も昔も、変わることなく。