外れ者たちの出会い 3
海竜の建物の中から出た莉緒は、辺りを見回して首をかしげた。
「海って言ってなかった、ですか」
「この壁の向こうはな。……それと妙な敬語はやめろ。今更だろ」
「……わかった」
イーズがバイクを出してくるのを待つ間、莉緒は不思議そうに周囲を眺めていた。
静かなエンジン音がして、見慣れてきたバイクが目の前に止まる。
「乗れ」
渡されたヘルメットを被り、イーズの後ろに乗った。
今度は捕まれと言われる前に目の前の背中にしがみつくと、密着している体から笑っている気配が伝わってくる。
「何笑って」
問いただそうとした瞬間、急激に発進したバイクの加速に上半身が僅かにのけぞった。
暗闇の中を、漆黒のバイクは駆け抜ける。いつの間にか海竜からは遠ざかり、視界の端に流れるのは相変わらず莉緒には見覚えのない景色だった。
海竜を出発してからかなりの時間走り続け、東の空が僅かに白み始めた頃、バイクはようやく莉緒の家に到着した。
「起きてるか? 着いたぞ」
「あ、ありがとう」
ヘルメットはまだ取るなよ、と言われたりしながらも莉緒は昨夜ぶりに自分の部屋に戻り、小さく安堵の息を漏らす。
「……あの」
電気のついていない暗がりから小さな声が聞こえて、思わず身構えた莉緒を制してイーズは「シャッテン」と声をかけた。
「シャッテン?」
「お前のふりをして監視の目をごまかしたやつだ。うちの諜報担当」
「お、お邪魔して、ます。ドッペル・シャッテンて言われて、ます」
玄関の小さな明かりをつけると、ぺこりと頭を下げる少女が立っていた。
「……お手数かけまして、でいいのかな。その、ありがとう」
莉緒が困ったように礼を言うと、眼鏡をかけた少女――シャッテンはすごい勢いで首を横に振った。
「そ、そんなことない、です! 私はただイーズに言われて、来ただけです、し」
「いや、でも」
「こんなこと、なんでもない、です! あ、えと、部屋の中のものには、触ってません、けど……一応、後で確認しておいて、ください、ね」
続けて「あと、一応、カメラとか盗聴器とかないか、確認しておきまし、た」と言うシャッテンに、莉緒は真剣な顔で頭を下げた。
「わかった。重ね重ねありがとう……と、そうだ」
暗がりの中を慣れた足取りでどこかへ消えた莉緒が戻ってきた時には、両手にお茶の缶が握られていた。
「これ、お礼。もらい物で悪いんだけど」
「え、そんな、悪い、です」
「いらん」
すげなく拒否されてもめげずに、莉緒は手に持っていた缶を二人の手に押し付けた。
「実はそのお茶苦手だから持ってってくれると助かるんだよね?」
にこりと笑って返してこようとする二人の動きを封じる。
イーズは小さくため息をついて缶をポケットにしまい、シャッテンはといえば暫くおろおろしていたが、諦めたらしく、ぺこりと頭を下げて缶を握り締めた。
「じゃあ俺たちはとりあえずこれで帰るけど、暫くは注意しろよ」
「気をつけて、ください、ね」
「ああ、うん。できるだけ気をつけます。……と、そうだ。先輩と連絡を取りたい時はどうすればいいのかな」
その言葉に少しイーズが考え込んで、自分の携帯を取り出した。
「そのうち海竜から携帯が支給されるとは思うが……とりあえずは俺経由で。あいつの携帯ができたら伝える」
「わかった」
二人は自分の携帯を操作して、アドレスを交換する。莉緒はイーズに、自分の名前は本名の方登録しとけよ、と言われて首をかしげた。
「……悪いんだけど、もう一度……」
「何度もお前の前で名乗ってると思うんだけどな……結城海理。字はこう。電話をかけるのもメールも本名で。もし見られてもシラを切りとおせよ」
「わかってるって」
もういいからと手を振る莉緒に、本当かこいつと言いたげな目を向けて、イーズは扉を開けて出て行った。
「じゃ」
「え、えと、おやすみ、なさい」
お邪魔しました、と頭を下げて、イーズの後を小走りに追いかけていくシャッテンを見送った莉緒は「はぁ」と声に出して扉を閉めた。
「ちょっと仮眠した方がいいな……」
リビングに行き、ソファに寝転がって携帯のアラームを設定した莉緒は、途端に襲ってきた眠気に身を任せて目を閉じた。
アラームがスヌーズ機能で鳴り響き、莉緒は何とか目を覚まして身支度を整えはじめた。
「ってか服着替えないで寝てたじゃんか! うわぁ寝癖」
ソファで寝ていたせいか、強張る体を伸びでほぐして、こめかみ辺りではねている髪を撫で付ける。
「寝癖がすぐ直るのありがたいなー」
一つあくびをした莉緒が取り出したのは、昨日の夕飯になる予定だった残り物。それを一度にご飯の上に乗せてレンジでチン。
「昨日のお弁当の残りだけど……まぁ大丈夫だろ。いただきます」
五分もかからずに朝食を終え、ガスや電気などあちこち確認した莉緒は、最後にぐるりと部屋を見渡してよし、と頷いた。
「行くか」
駐輪場に停めてあった自転車を引き出して、ふと昨日、自転車を確認するのを忘れていたなと思い出した。少し苦笑してから、自転車に乗って走り出した。
職場について早々、上司がさりげなく嫌な視線を向けてきていることに気づき、背中に冷や汗が伝う。
「あ、逢坂さんおはよー」
「おはよう」
頭によぎるのは堂上の「暫くは大人しくしてろよ」という言葉。
(――よりにもよって異捜の上司がこっちの部署でも上司とかこういう時は)
迂闊なことを喋れないこの状況はきつい、と莉緒は思わず舌打ちしそうになる。小さな独り言すら今は聞かれているかもしれない。莉緒にとってはストレスのたまる状況になってしまった。
朝礼をすませる間も、ちらちらと嫌な視線が投げつけられて、ほぼ徹夜の莉緒の苛立ちは酷い。
それを見かねた笠原が「どした?」と聞いてくるが、返ってくる答えはそっけないものだった。
「別に」
「別にって顔してないぞ。なんかこう「ちょっと一発殴りに行ってくるわ」とか言い出しそうな」
「どんなだ。っていうか私はそんなキャラか?」
いつもと同じような光景に、周りの者たちは「あーまた笠原と逢坂がやってるわー」と言いたげな生暖かい目を向け、ある意味これも誤魔化す、という目的の役に立っていた。
「そういや今日は飯どうすんの? 弁当?」
「あ。忘れてた」
ほぼ徹夜で、朝も昨日の残りで簡単に済ませてしまったせいで、すっかり忘れていた。鞄を開けてみてもあるわけがなく、莉緒は「今日は食堂かな」と呟いた。
「じゃあちょうどよかった。これやるよ」
笠原が差し出してきたのは食堂のクーポン券。
「クーポンなんて自分で使えばいいのに」
「や、今日までなのに二枚あるんだって。今日夜はもういないし、そしたら使わないじゃん? だから使ってくれると助かるの。俺が」
「……あ、そう。まぁ、ありがたく貰っとくね」
クーポン券をひらひらとさせながら礼を言うと、笠原はにっと笑って去っていった。
「お弁当忘れるなんて珍しいですねー?」
「え、ああ。ちょっと昨日夜にご飯セットするの忘れちゃってさ。しかも朝寝坊しかけるし。バタバタしてたら買ってくるのも忘れてたねぇ」
声をかけてきたのは堂上直属の部下だった小織はな。この部署でも、異能捜査課でも、莉緒の数少ない友人の一人だ。莉緒とは先輩後輩の立場ではあるが、仲がいいため自然と友人のような感覚で付き合うようになった。その結果、周りからはほぼセット扱いされている。
「でもよかったですね、クーポン貰えて」
「なんで?」
「ああ、莉緒先輩あんまり食堂使わないから知らないですっけ。今日はスペシャルメニューがあるんですよー」
「スペシャルメニュー?」
そんなものがあったのか、と不思議そうに尋ねる莉緒に、はなはにこりと笑って告げる。
「です。確か『懐かしの定番メニュー メインは見てのお楽しみ』って書いてありました!」
「何、そのメインは見てのお楽しみって。懐かしの定番メニューって。っていうかうちの食堂そんなんだっけ……?」
「あはは、スペシャルメニューの日だけ、献立書く人が違うみたいで。見てみると結構面白いですよ?」
無邪気な笑顔に脱力した莉緒は「そ、そうなんだ……」と返して、机に突っ伏した。
突っ伏す莉緒の腕の下を滑らせて、小さなメモが滑り込ませられた。自然と腕の間で隠すように見ることになり、莉緒は内心首をかしげながらも書かれた文字を追う。
『せんぱいの都合がいい日に、やくそくどおり遊びに行かせてくださいねー。あの時言ってた、先輩の話聞きたいです』
微妙にひらがなが入り混じる文章を読み終えると、莉緒はため息をつきながら起き上がり、さりげなくメモを握りつぶしながらペンを手に取った。
「あー……だれててもしょうがないね。仕事仕事」
「ですねー」
そういえば今日寝坊しちゃって朝ごはん食べてないんですよーとぼやきながらパソコンに何かを打ち込んでいるはなに、常備している非常食を分けてやりつつ書類を片付け、午前は事務仕事だけで潰れた。莉緒にとっては堂上のことがあったばかりで出動なんて勘弁してほしい、と思っていたのでちょうどよかった。
昼食は笠原から貰ったクーポンで懐かしの定番メニューとやらを頼み、なんとなく「あーこれかー確かに懐かしいかもしれないけどなんかなー」と思いつつ咀嚼する。
何が楽しいのか無邪気に話しかけてくるはなをあしらいながら食べ終え、短い休憩を挟んで午後の仕事に取り掛かった。
その日は特に出動に駆り出されることもなく、上司と不意に接触することもなく、平和に仕事を終えることができた。莉緒は外の空気を吸って、よし、と一つ頷いて歩き出した。道路に出るとすぐに自転車にまたがり、日が落ちて暗くなりはじめた世界を走り抜ける。
家について、夕飯どうしようと思いながらリビングのソファに座り込む。
「なんか今日は、精神的に疲れた気がする……」
目を閉じたままテーブルに手を伸ばし、探り当てたリモコンのボタンを押す。
ピ、と小さな音を立ててテレビの電源が入り、途端静かだった部屋の中に笑い声が響いた。いつもやっているバラエティを半目で見ながらもう一度、ああ疲れた、と莉緒は呟いた。
その時、玄関の方からインターホンを鳴らす音がして、莉緒は首をかしげながら立ち上がった。
「……誰だろう」
宅配便なんて頼んでないしなーと思いつつ外を確認すると、そこには思わぬ人物が立っていて思わず扉に頭をぶつけた。
「痛っ」
その痛みで我に返り、慌てて扉を開けるとそこには、泣きそうにも見えるポロと、微妙な顔で佇むイーズの姿があった。
「うわぁぁん莉緒さん助けてっていうかお願い夕飯食わせてくださいッス……!」
「はぁ!?」
なんだかよくわからないまま拝み倒されて、とりあえず中に入ったら、と声をかける。
「ありがとう莉緒さん!」
「い、いや……」
ちらりとイーズを見やると、変わらず微妙な表情のままで、いったい何があったのかと莉緒は内心首をかしげた。
リビングに通して事情を聞いてみると、突然ポロが愚痴りだして莉緒の顔が引きつる。
「ちょっと事情があってこっちに来ないといけない用事があって来たんスけど、海竜との合流がちょっとできなくて、しかも腹減ったのにこの辺り住宅街で飯食えるとこないじゃないッスかー、コンビニもないし。建設中があっても意味ないんスよー!」
確かにスーパーは遠いし、コンビニもない。嘆くポロに困り果ててイーズに視線をやると、イーズは小さくため息をついて、おもむろにポロの頭を殴り飛ばした。
「あだっ!?」
「悪い。飯なんか合流してからでいいだろって言ったんだけど聞かなくてな」
微妙にすまなそうなイーズに意外だ、と思いつつも、莉緒は苦笑して了承した。
「まぁ夕飯作るのこれからだったし、手伝ってくれるならいいよ。たいしたもんは食材的に出せないけど」
「わかった」
頭を抑えて呻いているポロを引きずり起こしたイーズと一緒に台所へ移動し、残りの食材を片端から下ごしらえして手分けして仕上げていく。この頃には復活していたポロも、皮むきくらいにしか役に立たんなと酷評されながらも手伝っていた。
「余ってた野菜と冷凍シーフードのパスタに適当なスープの出来上がりー」
「莉緒さんの紹介? の方が適当ッスよー。なーんか適当だらけ!」
「ポ、じゃない爽太だっけ、黙ろうか。夕飯抜きにするけどいいの?」
「うあ、ごめんなさいオレ言ってないッス! つか酷い!」
笑っていたポロが、ひやりとした莉緒の視線に怯えて即座に謝った。
「ん?」
しかしそこについていた余計な一言のせいで、怖い笑みを向けてくる莉緒から逃げようとして、結局失敗している。
「コントか」
イーズに鼻で笑われながらも、料理を盛り付けた器をテーブルに並べる。フォークを握り締めてきらきらとした目で見つめてくるポロを無視して、莉緒がいただきます、と手を合わせる。
「いっただっきまーす! 腹減った!」
イーズのいただきますを途中で遮ったポロの大声に、イーズが煩そうに眉を寄せる。
それに笑いながら久々に賑やかな食卓に、莉緒はふと懐かしさを覚えた。随分昔から、家でこうして賑やかに食事をする、ということがなかったせいか。
一瞬手の止まった莉緒に、イーズがちらりと視線をやる。目線があって首をかしげる莉緒と、無言でスープを飲むイーズ。ポロはそんな二人の様子を不思議そうに見ていた。
「っはーうまかったー! 今日はすいませんっした! 今度お礼するんでー」
「や、いいよ。今食費払ってくれれば」
「わぁい莉緒さん優しいけどちゃっかりしてるー。んじゃあ、これで」
「はいよ」
玄関先でそんな会話をする二人を見下ろしながら、イーズは小さく笑った。
「なんスか?」
「いや。ちゃっかりしてるってお前、金払うつもりなかったのか?」
「あ、いや、そういうわけじゃ」
「わー食い逃げ犯だー逮捕するぞー」
冗談めかしたイーズの口調に、悪乗りした莉緒がからかうようなセリフを吐き、ポロは頬を膨らませた。
「酷いッスよ二人とも! あと莉緒さんそれ洒落にならない!」
「はは。食い逃げ犯じゃないなら逮捕する理由は今のとこないんだけどなぁ?」
イーズにはまたも鼻で笑われ、莉緒にも笑われてポロはますます膨れっ面になってしまった。
「膨れてないで戻るぞ。そろそろ海竜が最寄の海についてるはずだ」
「わかってるッスよー」
扉を開けて、じゃ、と去っていく二人を少しだけ見送って、莉緒は静かに扉を閉めた。
「なんか賑やかだったなぁ」
食事中も止まらなかったポロの口と、それを煩いと一刀両断するイーズを思い出して少し笑う。
まさか過激派って言われてるような連中と一緒に夕飯、なんてことになるとはね、と思いながら風呂の追い炊き設定のボタンを押す。
「明日は風呂掃除したほうがいいかね」
風呂が沸くまでの間に明日の弁当の下ごしらえをし、炊飯器までセットして、ようやく風呂に莉緒は体を沈めた。
「あー……明日も仕事かー。めんどくさいなぁ」
嫌だなーと思いながらパジャマに着替えて布団にもぐりこんだ莉緒は、これから自分が色々と厄介ごとに巻き込まれていくことを、当然ながら知らない。
次の日の夜、その厄介ごとのうちの一つが目の前に存在するのを見て、帰る直前に出動が終わって疲れていた莉緒はため息をついた。
ある意味これはただの始まりにすぎず、これから暫く莉緒は頭を抱えることになる。
あちこちはみ出たやつらの出会い、の終わり。




