美しい人
死に関する記述があります。アウトな人はスルーしてください。
彼女はとても美しい人だった。普通の人間なら美しいと聞いて思い浮かべるのは花だろうか。しかし、彼女はそんな柔らかで優しい印象を与えなかった。例えるならば、一流の鍛冶屋に鍛えられた一本の日本刀。まさしく研ぎ澄まされた刃の美しさを持つ人だった。
顔立ちが整っているわけではない。だが内から放たれる存在感が見る者を圧倒させ、目が離せない。同時に危うさを漂わせて不安定。その矛盾ゆえの美しさだったのかもしれない。
彼女を美しいと評しない男は皆無だったが自分の物に死体と、隣に立ちたいと願う男もまたいなかった。私は彼女の従兄弟であったこともあってそばにいることが多かったが、男女のそれになることはなかった。私は彼女を女として見ることはなかったし、彼女もまたそうだった。
「私はいつか、あちらに行くのでしょうね」
代々の一族の人間が暮らす屋敷。その裏手にある立ち入りを禁じられた通称「禁域の森」。他人事のようにそう口にした彼女は禁域の森を見ていた。
「まだ、その時ではないのだろうけど」
まだ制服に着られているような年の少女が口にすることではない。だが、一族を始め彼女にも、私でさえわかっていたのだ。彼女がいつか「あちら」に行ってしまうことを。
私たち一族は神隠しの一族と呼ばれていた。
なぜなら一族の中から行方不明者が出てくるからだ。だいたい数十年から百年に一度だがそれを延々と続けば無理はない。
行方不明となった人間はある日突然姿を消したと思ったら数年後に姿を現す。彼らはその数年で一体何があったのか語ることなく一生を終える。一族では彼らは禁域の森の先にあるという「あちら」に渡ったのだと言い伝えられている。あちらがどういった場所なのか実際に赴いた人間しか知らない。
彼女は物心ついた時からあちらに行くのだろうと周囲に目されていた少女だった。それゆえに彼女は剣術をはじめ様々な鍛錬を受けた。時に、凄惨な光景を醸し出すこともあったが誰も止めなかった。あちらに行くのならば必要な技能であると考えられていたからだ。
一度だけ、つらくはないのかと聞いたことがある。当の彼女は首を横に振って朗らかに笑った。そんなことは全くないと。
「本当に?」
その時私は彼女の腕に包帯を巻いていた。剣術の師匠である大叔父に木刀で殴られ、あざで真っ黒になっていた。
「本当よ。そんなに疑うこと?」
「疑っているんじゃない。心配しているんだ」
あちらに行くのは必然。そう教えられてきていた。だが彼女の鍛錬は苛烈さが強くなり、あちらに行く前に死んでしまうのではないかと思ってしまう。
「私は死んだりしないよ。それに」
「それに?」
「鍛錬の時だけなの。私が生きていると感じられるのは」
その時の彼女がどんな顔をしていたのか覚えていない。
ただ、背筋に寒気が走り恐怖にとりつかれたことだけは覚えている。
あちらに去っていく人は、皆どこか欠けているのだという。それはこちらで埋まる事は決してない。こちらでは永遠に満たされることはないのだ。彼らはやがてあちらへと足を運び、欠けてしまった何かを探しに行く。掛けたままこちらで生きることは不幸でしかないのだと。
彼女もまた、欠けていたのだろうか。それは私たちが考えるよりも大きなものだったのか。
「あちらに行くことにした」
彼女がそう言ったのは中学校を卒業した日。早咲きの桜が満開になった時だった。
「…………え?」
「相変わらずとろいわね。そこがあなたの面白いところだけど」
いたずらを成功させた子供のようにくすくす笑う彼女を私は茫然と見ていた。
彼女はまだ十五歳。今までのことから考えてもあまりにも早すぎる旅立ちだった。
「もう?」
「そんなことはないよ。とはいっても、決めたのはついさっきだけど」
桜の木の下に立った時、思い立ったという。
「だからさよならを言おうと思って」
「さよならじゃないだろ!」
行くな、と本当は言いたかった。だが、それを口にすることはできず、かといって何も言わずにいられるほど大人であるわけでもなく。
「向こうに行ったままにするつもりか!!」
「そうなる可能性は高いでしょう」
どのような場所なのか、私にはまったく想像できなかった。彼女もある程度走っているかもしれないがそれでも遠く離れていることは間違いない。
「帰ってこい。待っているから」
ほかに何が言えただろう。私は儚く消えてしまいそうな彼女に約束を残すことしかできなかった。
「……………………………………うん」
長い沈黙の後、彼女は小さく、しかし確かにうなずいた。
そうして、彼女は旅立っていった。
再会を果たしたとき、あの桜での別れから十三年もの歳月が流れていた。
私はそのころ、医者となって働いていた。この職業を選んだのは彼女の手当てを行っていたことが影響していたのだろう。たとえいなくなっても彼女はどこまでも私の人生に深い影響を与えてきた。
渡った人々は長くても五年やそこらで帰ってくることが多かったが、まさか十三年という長い時間あちらで過ごすとは思わなかった。
「ただいま」
再会の場に選ばれたのはあの桜ではなく、十三年間、そのままになっていた彼女の部屋だった。彼女は畳敷きの部屋で正座していて、ゆったりとしたワンピースを着ていた。
目の前にいるのは幼さの名残が拭い取られ、すっかり大人の女性と変貌を遂げた彼女だった。その存在感は今でも変わらないが、かつての危うさが消え、むしろ穏やかな雰囲気を漂わせていた。
すでに梅雨を迎えた外ではしとしとと雨が降っている。
「おかえり」
私は彼女の向かい合わせにあぐらをかいた。
「お医者様になったんですって?」
笑っているのはかつて自分の治療をしていた私を思い出したからだろうか。
「君のおかげでね」
「結婚もしたとも聞いたわ」
私が結婚したのは彼女が返ってくる二年前のことだ。妻はぽっちゃりとした、笑顔が可愛い人だ。まだ子供に恵まれてはいない。
「今度会わせてね。後を頼みたいから」
最後の言葉に含まれた意味がわからないほど私は鈍くなかった。
「本気なのか?」
「ええ。お父様とお母様に説得しろと言われたのでしょう?そのためにここに来たことはわかっている」
その通りだった。私は彼女が返ってきてからも仕事が忙しくなかなか会いに行けなかった。ある日彼女の両親が私を訪ねてきて頭を下げるまでは。
「お二人は君を心配しているんだよ」
「知ってる。十三年も行方不明になった親不孝者だからね」
でも、これだけは譲るつもりはない。
おなかに手を置きながら微笑む彼女はもう少女でも女でもない。
一人の母親だった。
「その体で産むつもりなのか?」
私は彼女の右腕をつかんだ。かつて私が包帯を巻いた場所だ。その腕は私の手が一回りしても余裕がある上に骨の感触でゴツゴツしていた。改めて彼女の顔を見る。記憶にあるより大人びた顔のほほは細い。今の仕事で何度も見た、命の多くを削り落とした顔だった。
「今のままでは産み月までもつかわからないんだぞ?」
「この子がいなくても私は五年ともたなかった筈よ。だって歴代で最もあちらにいた時間が長かったから」
あちらに行った物たちの共通点。生まれつき何かが欠けていることと、行っても必ずこちらに帰っていること。そして、帰ってきたものたちは残りわずかな時間を過ごすということ。まるで桜の花のように。華々しく咲き誇り、すぐに散っていく。
彼女の体は残りの寿命の証明だった。この状態で出産できるはずがなかった。だからこそ、彼女の両親は私を訪ねてきたのだ。ようやく帰ってきた愛娘を少しでも長く生かしたくて。紛う方なき親心ゆえに。
「両親には悪いと思っているわ。でも、譲れない。私にとってこの子は彼からもらった唯一形あるものだから」
彼女がおなかの父親について話すのはこれが初めてだったと私はのちほど知った。誰ひとり彼女の相手を知るすべがなかったのだ。
「あちらの子でもか?」
「もちろん」
彼女の妊娠が発覚したのは戻ってきてから半月もたっていないころ。すでに腹は膨らみ始めていたというからこちらでの妊娠はあり得ない。あちらの誰かが父親なのは明らかだった。
この事は一族にも多大な衝撃を与えた。一族にとってどこか遠く得体のしれないあちら。そんな存在の象徴が目の前に現れたら動揺するのも無理はなかった。産ませるべきかどうかは一族全体の問題にまで発展している。
「無事生まれたとしても、この子は苦しむかもしれない」
行方不明だった娘が産み落とした私生児。好奇の目にさらされるのは明らかだった。苦しむのは周囲ではなく子供自身だ。
「大丈夫よ。私の子だもの」
その自信はどこから来るのか。聞いても母親の勘だなどと口にしそうなので別の追及をすることにした。
「後を頼む、というのは?」
ただ、自分が死ぬことを示唆する意味で使われた言葉ではない筈だ。それくらいには彼女のことを理解しているつもりだった。
「そのままの意味。この子が産まれて私が死んだら、この子の親になってほしいの」
「おじさんとおばさんではなく?」
「あなたがいいの。そして、貴方が選んだ奥さんが」
遺された孫を育てられないのは苦痛以外の何物でもないのではないだろうか。
「かもね。だから時々でもいいから会わせてあげて。私は、何よりもあなたを信用しているから。ちゃんとこの子を育ててくれると思ってる」
だからお願いね、と微笑む彼女に私はもう止めることはできないのだと悟らざるを得なかった。そして私は彼女の願いを受け入れた。
桜の花が開く前、最後の寒波がやってきた夜、彼女は永久の眠りについた。
元気な男の子を出産してひと月もたたぬ時のことだった。
「―――さま!おじいさま!」
呼びかけにはっと目を覚ました。どうやら縁側に座ってうとうとしていたらしい。自分の顔を覗き込んでいるのは今年五歳になった孫。くせのある黒髪に右目が紫、左目が茶色の色違いの瞳をもつ少年だ。
「おや、どうした?」
「どうしたじゃないです。ぽっくりいってしまったのかとおもいました」
「相変わらず言葉が辛辣だね。またお父さんに教わったのかい?」
「はい!」
間違っても五歳児がいうような言葉ではないが、この子はかっこいい言葉だと思っているらしい。可愛らしい子供がそれを口にするので周囲の大人は何を言われるのかと戦々恐々している。
「君のお父さんには困ったものだね」
そういいながら私は顔を上げて庭からこちらに歩いてくる青年を見た。三十をいくつか超えたばかりの彼は、孫と同じの紫色の瞳をこちらに向けて微笑んだ。その笑顔は少しだけ産みの母親に似ている。彼女は見た目がごく普通の、しかし紫の瞳を持つ子を産み落とした。子供は彼女の遺言どおり私と妻が養育し、彼は現在三児の父となっている。
父親は何者なのか。私が知っているのは彼女の口から語られたわずかな人物像でしか知らない。だが、彼女の言葉の端端に彼に対する愛情がにじんでいた。彼女は確かに彼を心から愛し、彼から受け取った宝物をこの世に遺すことに何の悔いもないのだろう。
「お父さん。もう時間ですよ」
「そうか。では行こうか」
いつか、孫やひ孫の誰かがあちらに行く日が来るのかもしれない。その時、私はこの世にいないかもしれないが、それでも彼らの幸福を祈るだろう。決して不幸になるためにあちらに行くわけではないのだから。
彼女は美しい人だった。研ぎ澄まされた刃のような、だが咲き誇こり潔く散る桜のような人だった。