願
一様に居並ぶ墓石。その一つを見下ろしている黒い影が揺らめき、満月であったであろうにも関わらず、何重にも重なる暗雲が漏れる明かりさえも覆い隠す天を見上げる。無精髭を蓄え頬が角張っているためやつれた印象が漂い、爽やかな赴きとは程遠く、二十代前半の年齢にしては些か老けた印象である。前髪を後ろに流した頭髪は濡れて艶を帯びていた。
幾度となく、肌を伝う雨水に身を晒したまま、泣くことも許されず、恨むことも許されず、見下ろすばかり。
鬱憤を吐き出す世界はとうに閉ざされた。
濃く、視界を限りなく遮断する闇。ただその空間は、我が最愛の恋人が安らかに眠る墓石の前。
外界を拒絶するかのように、それは深く根を下ろす。
殊更それは、自分も例外ではなかったのだろう。寄せつけるものは亡霊や悪霊といった類が好むそれだった。
未だに悔恨を残す、未練たらしい男。白砂海灯は最愛の恋人が永眠してから常にここへと足を運び続けている。
墓石へ一向に止む気配を見せない雨を遮断するように、傘を寄りかける。ここら一帯を包む陰欝な雰囲気と相対して真っ白い輝きを放つ傘が不格好な様となる。
しかし墓地を見下ろす海灯の表情は、ただ嘆き、陰り、色を写さない瞳を携えるのみであった。幸せを生むはずだった、約束は虚空の彼方に流れ、消え失せてしまっている。
不思議なことに泣き叫ぶことなく、感情の決片も抱くことなく、彼女と共有した記憶を振り返ることが出来るのは不幸中の幸いであった。
彼女の笑顔は皆を巻き込んだ。彼女の怒った顔は愛らしかった。彼女の泣いた顔は僕を戸惑わせ、だけど可愛いと無粋ながら感じていた。
こうやって、一つ一つの断片を繋ぎ合わせるように、頭の奥底で彼女を作り上げていく。無限の表情が織り成してまるで、まだ生きているかのように。
時折彼女には海灯の耳を捩るように引っ張る癖があった。それは彼女の予想の範囲を超えた催しをしでかした場合に実行されるのだが、痛みと共に幸福と談笑を生みだす魔法の癖でもあったのだ。
こうやって焼き付けられたフィルムのような記憶も赤子のように感情を剥き出した獣のごとく泣き叫んでしまえば、感情と伴って内から外へと吐き出されてしまう気がしていた。彼女と共に過ごした時間を後悔の念で埋め尽くされるのではないだろうかと怯えているのだ。
煙草に火を燈そうと、闇に紛れるかのような漆黒のトレンチコートのポケットからライターを取り出す。
海灯は一時でも長く、自分の思考に身を沈ませることで無に陥れたかった。さすれば、少しでも側に寄ることが出来るのではないかと夢想して。
そのためには精神を落ち着かせなければならなかった。彼女を除く全ての事柄について忘却し、外界を拒絶しなければそれは叶わぬ願いである。
彼女が死んでから、貪るように煙草を吸引することを始めた。それは、合法的に自分を蝕むモノであり、平静を得るモノと矛盾を備えている麻薬であり薬物でもある。
ライターにより僅かな灯を垣間見るものの、雨が滴る黒い墓地は煙を拒むかのように火を点すことはなかった。
「......」
口で甘く噛んだ煙草を手の平に収めて、早々に水気を得てしけってしまった一本の煙草を握り潰す。握り潰した煙草の葉は水を吸い、粘りを帯びて手の平にこびりつく。
海灯はいっそ、直にそれを舐めることにより、ニコチンを無理矢理体内に押し込んでしまおうかと考える。
しかし、曲がりなりにも自分の愛した妻の目の前で無作法な真似だけは振る舞えない。宗教に深く入り込んだ覚えは無いが、神様の存在だけは信じたかかった。例えそれが偽りであったとしても目の前に現れれば、海灯は無垢な子供のように自分の願望をさらけ出してしまえるだろう。
「灯歌......」
当初は茶色であったであろう、干からびていた煙草の葉は水を吸収しては周囲の闇を飲み込むように黒みを帯びていく。
自分の手の平を見据えながら、視界が湾曲し始めていることに気がついていた。天から注ぐものではない何かが、人肌ほどの体温を伴って手の平に一つ二つと落ちる。
煙草を吸引することが叶わなかった海灯は、自分の思考が乱れるのを感じていた。時折ノイズが混合し始めるのを皮切りに、心臓が一際跳ねて精神は浸蝕されたのだと意識する。
支配下は取って代わり、もはや喪失感と深い悲しみが心を犯し始め、平静を保つことは容易でなくなってしまった。
無様に、黒々とした泥沼に膝をつき、ただ涙が頬を滑る。ズボンの膝頭が汚れると同時に、自分自身の脆くて空虚な部位もぬかるみに沈澱していく。
涙が雨粒と共に流れ落ち、混ざり合うように黒々とした地に飲み込まれていく。海灯は苦々しく笑みを張り付けて、自分が瞳から零すものを拭う。彼は泣くという行為そのものを行っているのではなく、自然に溢れてしまったそれを抗うことが出来ないだけだ。欠伸と伴って涙が零れてしまうのと同義である。だから淡々と日常的に交わす、いつもの落ち着いた声で言葉を紡ぐことを続ける。決して海灯の精神が悲鳴を上げているわけではないのだ。
両方の手で墓石をかき抱いて、縋り付くように腕力を込めた。
「......頼む。教えてくれるか? 灯歌」
愛する思い人の名前を呟き、闇に問う。
「どうして、お前は僕を助けた?」
言葉は飲まれて、酷く惨めに響く。雨音と重なり、ただそこだけに届くはずの声。
最愛の恋人の眠る地中深くへと、届いてくれたなら、海灯が求めているのはただ一つだった。
「少しだけ......少しだけでいいんだ。僕の話を聞いてくれるだけでいい。それだけだ」
海灯の願いはそれだけであり、それ以上は望まない。死者との会話、それは未来永劫不可能とされてきた。
しかし、幸運なことに永遠に叶わない願いではないのかもしれないのだ。
死者と会話を可能とする奇跡の魔法、いや呪術と呼称するほうが相応しいか。何でも構わない。海灯はそれに全てを托すしかなかった。
いつまでも、ここで留まり続けるわけにはいかない。現時点では、一刻も早く近辺の整理を行うことだけが最善の選択肢である。
安穏に眠る灯歌には申し訳ないが、僅かばかりの苦痛を与えてしまうのは覚悟していなければならない。人道から外れた行為をしてしまうことになるのは、重々承知している。最後までそのカードを引くのを極力避けることで残し続け、他のカードを選び続けた。しかし、海灯にとってそれが当たり目では無いのなら、最後のカードを引くしかない。
「......明日の夜、また会いに来るよ。ほんの少し、僕の我が儘に付き合ってくれ」
トレンチコートを翻し、雨に打たれる墓石を背中にして歩みを再開する。
海灯の顔には雨が滴り落ちるだけで、余計な感情は手向けに墓石へと置いて行ってしまったのか、瞳から溢れるそれは流れ落ち能面のような表情であった。