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きみの空へとべたら  作者: Okitomo
1/1

夏の風

 夏の風が稲を揺らしていた。

 青々とした田んぼの間を、少女が駆け抜ける。

 草履が土を蹴るたび、乾いた音が響いた。


「アキラー!」


 息を切らしながら叫ぶ。

 前方を歩いていた青年が振り返った。


「また走ってきたの?」


 困ったように笑う。

 今宮アキラは十九歳になったばかりだった。

 背が高くて、いつも穏やかで。

 近所の誰からも好かれている。

 そして――トキが物心ついた頃からずっと隣にいた人だった。


「だって見つけたんだもん!」


 トキは胸を張った。

 握りしめた手を開く。

 小さな貝殻が一つ。


「海で拾ったの」


「へえ」


「綺麗でしょ!」


「綺麗だね」


 アキラは素直に頷いた。

 その言葉だけで嬉しくなる。

 トキは単純だった。

 アキラに褒められると嬉しい。

 笑ってもらえるともっと嬉しい。

 だからつい何でも見せたくなる。

 綺麗な石も。

 咲いた花も。

 学校であったことも。

 全部。


「トキちゃん」


「なに?」


「転んだ?」


「えっ」


 膝を見られる。

 擦り傷があった。

 さっき走っている途中で派手に転んだのだ。


「うっ……」


「また?」


「またです……」


 アキラが笑う。

 声を立てて笑うことは珍しい。

 だからトキは少しだけ見惚れた。


「おいで。手当てしなきゃ」


 夏の日差しが眩しい。

 蝉が鳴いている。

 田んぼの向こうに山が見える。

 こんな日がずっと続く気がしていた。

 ずっと。

 本当にずっと。

 何も変わらないまま。

 ――あの戦争が終わるまで、あと数年。

 この時のトキは、そんなこと知らなかった。




入り江へ続く獣道を、二人で歩く。

 潮の香りが近づくにつれて、トキの足取りは軽くなった。


「急がなくても海は逃げないよ」


「でも早く見たいじゃん!」


「さっきまで見てたでしょう」


「今はアキラと見たいの!」


 言ってから、トキは「あ」と口を押さえた。

 変な意味じゃない。

 変な意味じゃないのだけれど。

 なんとなく恥ずかしい。

 アキラは少し目を丸くしたあと、ふっと笑った。


「そっか」


 それだけだった。

 それだけなのに、なぜか顔が熱くなる。

 トキは先に走った。


「もう知らない!」


「転ぶよ」


「転ばないもん!」


 三歩後。

 盛大に石につまずいた。


「わっ!」


 身体が傾く。

 その瞬間、腕を掴まれた。

 ぐい、と引き戻される。

 気づけばアキラの胸にぶつかっていた。


「だから言ったのに」


「……」


「トキちゃん?」


「……」


「大丈夫?」


 大丈夫、なんかじゃない。

 心臓がうるさい。


「だ、大丈夫!」


 慌てて離れる。

 アキラは不思議そうな顔をしていた。

 ずるい。

 自分だけ平気そうな顔をして。

 トキは頬を膨らませながら海へ向かった。


 入り江には誰もいなかった。

 白い波が静かに寄せては返す。

 空はどこまでも青い。


「やっぱりここ好きだなあ」


 トキは岩場に腰掛けた。

 アキラも隣に座る。

 少しだけ肩が触れそうな距離。


「ねえ、アキラ」


「うん?」


「将来どうするの?」


 突然の質問だった。

 アキラは海を見る。


「働くよ」


「それは知ってる」


「じゃあ結婚する」


「誰と?」


「さあ」


 トキはむっとした。


「なんでそこで考えるの」


「まだ決まってないから」


「ふーん」


 面白くない。

 自分でも理由はわからないけれど。

 面白くない。


「トキちゃんは?」


 逆に聞かれた。

 トキは少し考えてから答える。


「お母さんになりたい」


「お母さん?」


「うん」


 自分でも不思議なくらい、それは昔から変わらなかった。


「子どもがいて」


「うん」


「優しいお父さんがいて」


「うん」


「みんなでご飯食べるの」


 夕暮れの縁側。

 笑い声。

 温かい食卓。

 そんな光景を想像する。


「それが夢」


 アキラは少し黙った。

 それから小さく笑う。


「トキちゃんらしいね」


「そう?」


「うん」


 どこか優しい声だった。

 その横顔を見ていると、胸が苦しくなる。

 この気持ちが何なのか。

 トキはまだ知らなかった。

 知らないふりをしていた。


 その時だった。

 遠くから低い音が聞こえた。

 ゴォォォ――と空を震わせる音。

 二人は同時に見上げる。

 銀色の飛行機が編隊を組んで飛んでいた。

 陽光を反射して輝いている。


「かっこいいなあ」


 近所の男の子たちはよくそう言っていた。

 空を飛ぶ飛行機。

 国を守る兵隊。

 英雄。

 未来。

 そんな言葉が飛び交う時代だった。

 けれど。

 アキラは飛行機を見つめながら、なぜか少し寂しそうな顔をしていた。

 トキはそれに気づく。


「アキラ?」


「ん?」


「なんでもない」


 その表情の意味を。

 数年後、トキは知ることになる。

 空はあまりにも青かった。



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