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完璧無欠の美少女、実は世界を侵食する災厄級最古種でした ~人類最終拠点で正体を隠して最強の守護者になる~

掲載日:2026/04/26

### ■ プロローグ 廃墟の少女


第五次外壁防衛戦の翌朝、空は鉛色に凝固していた。


ざわり、と瓦礫の上を風が渡る。腐土と焦げ金属の混じった異臭。深淵体が通過した後の空気はいつも同じ臭いがする。存在の証拠。通ったという痕跡を、何かが残していく。


第四小隊隊長ガルス・ヴェリアは先頭を歩きながら、慎重に瓦礫を踏んだ。後続のフィン・クロス、ルナ・ホーフ、ケイ・マーズ、ウェッド・ソリス。五名の小隊が声もなく廃墟の中を進む。


「隊長。生体反応、一つ。人間です」


フィンが端末を示した。弱い輝点が一つ。ルナが音もなく銃口を向け、ケイとウェッドが左右に展開する。


少女が、瓦礫の上に座っていた。


ガルスは思わず立ち止まった。


銀の髪が朝の光を受けてきらきらと輝いている。虹彩を帯びた瞳は、宝石を溶かして流し込んだように透き通っていた。白磁の肌、傷一つない、汚れすらない。深淵体が荒らし尽くした廃墟の中心に座りながら、まるで昨日から置かれていたかのように、静かだった。


「……生き残りか」フィンが囁いた。


少女は振り向いた。ゆっくり、なめらかに。あまりにも滑らかな動作で。


「ここ、どこ?」


鈴の音に似た声だった。


「蒼穹アーコロジーの第三居住区廃墟だ。怪我は?」


「ない、みたい」


「名前は? 記憶は?」


「ない、みたい」


ぽつり、と言う。小首を傾ける。猫に似た仕草だった。ガルスは奇妙な違和感を覚えた。普通の孤児なら泣くか、震えるか、少なくとも混乱するはずだ。この子は――落ち着きすぎている。


(まあ、ショックで感覚が麻痺しているのかもしれない)


彼はそう自分に言い聞かせ、外套を少女の肩にかけた。


「一緒に来い。危険な場所だ」


「うん」


素直に立ち上がり、手を差し出してくる。ガルスはわずかに驚いて、それを握った。ひんやりとしていた。生きているものの温度ではなかった。でも彼は気づかなかった。


――――


(思ったより簡単ね)


エリスは内心で、静かに息を吐いた。


人類という種は、見た目の弱さに対して過剰なまでの庇護欲を発揮する。何千年も変わっていない。外見を整え、少し困ったように見せるだけで、彼らは巣を提供し、食事を用意し、笑顔を向けてくる。今もこの無愛想そうな隊長が外套を貸してくれた。


なんと便利な生き物だろう。


アーコロジー市民局の受付では、四十代の事務的な女性イリア・ソベルが書類を広げていた。隣の窓口ではオッド・フレイが「また今週三人目だ」と呟き、その向こうで新任局員のレン・ダウが「記憶喪失の孤児、審査が面倒なんだよな」と小声で愚痴っていた。エリスの耳にはすべて聞こえていたが、表情には出さなかった。


こうして「エリス(姓不明)、記憶喪失、推定十六歳、被災孤児」というプロフィールが決まった。


割り当てられた居住区の窓から、エリスはアーコロジーの全景を眺めた。高さ千二百メートル、直径八百メートルの超巨大建築物。三十二万人が暮らす人類最後の砦。


群れが一箇所に密集している状態。


(居心地がいい)


かつて自分は、この惑星のあらゆる場所で生きてきた。深海の底でも、山の頂でも、炎の中でも。人類が生まれるずっと前から。深淵体が湧き出すずっと前から。でも、これほど効率よく承認欲求を充足できる環境は珍しかった。


(絶滅させるのは惜しいわね)


エリスは小さく微笑んだ。


-----


### ■ 第一章 完璧な不器用


蒼穹第七総合学校は、第十二層に位置する教育施設だ。


深淵体対策の軍事訓練と通常教育を組み合わせた「生存教育」カリキュラム。生徒数四百三十二名、教師二十七名。エリスの担任になったのは、コラ・ハウエルだった。四十代半ば、白髪交じりの厳格な女性で、エリスを見た瞬間「また問題が増えた」という顔をした。副担任のフォン・レイは逆に「可愛いじゃないですか」と気楽に言い、進路担当のタム・クルーズは静かに評価の目を向けていた。


「エリスさん、初日は様子見で――」


「試験、受けます」


エリスはにっこり微笑んだ。コラの眉がひそまった。


「……本当に大丈夫なの? 記憶喪失って聞いてるけど」


「たぶん。感覚で解けると思います」


(たぶん、というのは正確ではないけれど)


人類の知識体系など、会話を三分聞いていれば把握できる。答案用紙に転写するだけだ。


数学、物理、化学、歴史、深淵体生態学、戦術基礎論――全教科、百点。


ぱちぱちと採点機が動き、コラが止まった。長い沈黙の後、「どうして記憶が消えてるのにこんな点数が取れるの?」と言った。


「感覚です」


「感覚で?」


「はい。面白いですよね、数字って」


コラは口元を押さえ、「天才型の記憶障害、というケースもある」と自分に言い聞かせた。隣でタムが「特別枠の推薦、いけるかもしれない」と手帳に何か書き込んでいた。


(そう、これよ)


上の者の視線が集まる感覚。それが心地よかった。


――――


実技訓練には、もう少し配慮が必要だった。


訓練担当教官のライナー・ザッハは元深淵体討伐部隊出身、五十代の大柄な男だ。傷だらけの顔に鋭い眼光。「ゆるい訓練は死を招く」を信条とするが、エリスを見るなり「こんな子どもに何をさせるんだ」と言った。助教のカイム・ベルナーは「まあまあ」と宥め、もう一人の助教ロッテ・クラムは「私が見てあげる」と名乗り出た。


「型から始める。基本の一式だ」


「はい」


エリスは訓練棒を受け取り、素早く計算した。


(この施設で最も優秀な訓練生はセリア・フォン。彼女の実力を基準に、どこまで弱く見せれば「才能はあるが不器用な孤児」として映る?)


逆算完了。


ぎこちなく棒を構え、第三動作で派手によろめき――ぐいっとライナーの足を踏んだ。


「っ――!」


「ご、ごめんなさい。不器用で」


申し訳なさそうに眉を下げる。ライナーは「いや、こちらこそ」と言い、それ以降エリスに妙に気を遣うようになった。カイムは「隊長が謝るの、初めて見た」とこっそり囁き、ロッテは「可哀想だから丁寧に教えてあげよう」と決意したらしかった。


(計算通りね)


クラスメイトの反応も、ほぼ計算通りだった。


茶色の巻き毛のセリア・フォンが「勉強教えてあげる」と言い、声の大きなヴィオ・ランツが「訓練一緒にやろうぜ」と言い、おっとりしたエマ・クラウスが「お昼一緒に食べよう」と言った。整備班担当のソル・タインは「何か困ったら言ってくれ、人脈あるから」と言い、図書委員のニナ・エスコは「珍しい資料があるよ」と小声で教えてくれた。活発なリオ・フェンは「エリスって近づきにくいけど、話したら普通だった」と言い、おとなしいルー・メイは「隣に座ってもいい?」と恥ずかしそうに聞いてきた。班長のヘイン・グルーバーは「うちの班に来てくれ」と勧誘し、保健委員のシア・エルナは「顔色悪いときは遠慮なく言って」と心配した。


押しつけがましくなく、自然に差し出される好意。それが最も甘い。


三日で、クラスのほぼ全員がエリスを「守るべき存在」として認定した。


――――


自習室で、セリアとの二人きりの時間が増えていた。


分数の計算式を広げながら、ぽつりと彼女が言った。


「ねえ、エリスちゃん。あなたって時々すごく遠くを見てるよね」


窓の外には夕焼けが広がり、アーコロジーの外壁がオレンジ色に染まっていた。


「そうかな」


「絶対そう。ここじゃないどこかを見てる。ずっと前から、みんなを知ってるみたいな顔して」


(賢い子ね)


感づきかけている。でも、踏み込む勇気がない。それが人間というものだ。真実の輪郭に触れながら、本能的に足を止める。


「ここにいるよ、今は」


エリスは穏やかに言った。セリアは少し目を丸くして、それから笑った。


「うん。それでいい。ここにいる間は守ってあげるから」


(守ってあげる)


その言葉を聞いた瞬間、エリスの内側で何かがほんのりと温まった。


承認欲求の充足とは、少し違う何かだった。もっと個人的な、もっと細かい粒度の何か。


(面白いわね)


エリスはそれを大切に、心の棚に仕舞った。


-----


### ■ 第二章 夜の狩人


蒼穹アーコロジーの外壁は、毎晩午前二時に最も手薄になる。


交代シフトの谷間。センサーの死角。深淵体の活動パターン。エリスが三日間の観察で把握した事実だ。


「今夜も来るわね」


自室の窓に腰かけ、遠くの闇を見つめる。百三十キロ先、廃墟となった旧都市の方角から、何かがこちらへ向かっている。クラスBの深淵体、複数。センサーが感知するのはあと二時間後だろう。


理由は単純だ。深淵体が都市に到達すれば住民に損害が出る。住民が減れば群れが縮小する。生活環境が劣化する。それは避けたい。善意でも使命感でもない。純粋に効率的な判断だ。


エリスは窓から飛び降りた。三十二層、高さ約百メートル。着地の衝撃はゼロ。足音もなく、外壁の死角へと滑り込んだ。


外は荒廃していた。黒い菌糸のような構造物、溶解した建材、空気中に漂う微細な深淵素の結晶。ざり、ざり、と踏むたびに砕ける。それらはすべて、深淵体が世界を侵食した痕跡だ。


(古い空気ね)


走り始める。人間の十倍以上の速度で。それでも彼女の感覚では、散歩程度だ。


やがて視界に入った。十四体。クラスBの食骸、そして中央に深淵核持ちの個体が一体。核持ちは知性を持ち群れを指揮する能力があり、通常の防衛部隊では相当の損害が出る相手だ。エリスにとっては、おやつ程度だが。


「おいで」


ぽつりと囁いた。


ぶわっ、と最小出力の捕食結界が展開された。肉眼では見えない。センサーにも映らない。ただ、深淵体の感知器官だけが、そこに途方もないものの存在を捉える。


食骸たちが止まった。ぴたり、と。


核持ちの個体がゆっくりと振り向いた。虚空のような目に、初めて恐怖に似た何かが走った。


(分かるのね、同族として)


五分後、十四体はすべて消えていた。地面に残ったのは深淵素の晶石の破片だけ。エリスはその一つを拾い上げ、きらきらと光に透かした。


(綺麗)


土産として持って帰ることにした。


――――


翌朝、防衛司令部の定期哨戒報告書には「昨夜予測されていたクラスB群の接近が確認できなかった」とだけ記されていた。


司令官のアドルフ・グレイスは報告書を眺め、副官のマリア・ヴェスに声をかけた。


「また消えた。今週で三度目だ」


「あり得ません」マリアは即答した。「クラスBの食骸十四体が自然消滅などしない。誰かが殲滅している」


三ヶ月間の統計が頭の中で並ぶ。アーコロジー南方の深淵体被害率、前年比六十パーセント減。作戦参謀のヴァーツ・コルトが「新型兵器の実験なら、なぜ我々に知らせない」と渋い顔をし、後方支援担当のシド・マクリアは「むしろ何でも感謝すればいいじゃないですか」と肩をすくめた。情報解析官のナイン・ハルトは無言でデータを更新し続けていた。


「調査を続けろ」


「了解です」


――――


しかし廊下では別の会話が進んでいた。


情報部第二課長のデン・ライトが、部下のクレア・シュタインに小声で指示を出していた。


「正体不明の戦力は管理しなければならない。近づいて、弱みを確認しろ」


「弱み、ですか」クレアの声が固くなった。


「力だけあって制御できないものは、味方でも脅威になり得る。情報は先に握っておくべきだ。アドルフ司令より先に、だ」


クレアは一礼して去り、三日後、何も書かれていない報告書をデンの机に置いた。


「何だこれは」


「近づきすぎると……分かります」クレアの声は低かった。「自分がとても小さいものだと、骨の髄まで分かります。それ以上、近づけませんでした」


クレアはそれだけ言い、二度と守護者への接触を試みなかった。


デンは報告書を眺め、ざわり、と胸の奥で何かが蠢く感覚を覚えた。


-----


### ■ 第三章 守護者という名前


「守護者」という言葉がアーコロジーに広まり始めたのは、保護から三ヶ月後の秋のことだった。


きっかけは、第七外壁付近の農業区で生き延びた老農夫ヤン・ポーラの証言だった。


「見たんじゃ。銀色の何かが、深淵体を飲み込んでいくのを。嵐みたいだったが、私たちには何も触れなかった」


証言は防衛司令部に届き、市民の噂として増幅した。深淵体を倒す謎の存在。守護者。蒼穹に宿った奇跡。


外壁の入り口付近に、献花台が生まれた。農夫のヤン・ポーラが毎朝花を持ってきた。商店主のホルツ・バウアーは手紙を書いた。鍛冶師のユリウス・プロは「何か恩返しはできないか」と知人に聞いて回った。縫い子のエルテ・フィーナは白い布で小さな人形を作り、「また明日を迎えられますように」と祈った。老婦人のマルタ・キールは「神様が守ってくださっているのよ」と子どもたちに語り、それを聞いた子どもたちが手作りの人形を並べ始めた。


エリスはその献花台を、夜にそっと眺めた。


(これは好き)


畏怖ではない。恐れからの服従でもない。純粋な感謝と崇拝だ。かつて人類の先祖たちが自然の力に向けていたような、清らかな承認。それが自分に向けられている。


「……本格的に気に入ってきたかも」


ひっそりと呟いた。


――――


転機は、市民議会の緊急会議だった。


どん、と議場のドアが開き、議長のハウス・フォルテが演台に立った。


「守護者の存在を正式に認定し、接触を試みる。専用居住区の建設も行う。議題に挙げる」


ざわり、と議場がざわめく。


すぐさま反対の声が上がった。第二区代表のベルト・ノルシュが立ち上がり、白髪まじりの大きな体を揺らした。


「危険です、議長。素性不明の存在を公認すれば、市民の依存が深まる。いざという時に撤退されたら、アーコロジーはどうなる?」


「では見捨てろと言うのですか」と第一区代表のシラ・ムラが静かに反論した。「深淵体被害率が三ヶ月で六十パーセント減少しています。現実を見てください」


「感謝と依存は違う!」


どん、とベルトが演台を叩く。


第五区代表のガロ・ムスが「盲目的な崇拝を制度化するな」と声を上げ、第三区代表のイスタ・ペラが「守護者本人の意思を確認してから判断すべきでは」と中立的な立場を示した。宗教局長のレア・カルドスは「これは神の意志かもしれない」と静かに言い、市民局長のハリス・フォンは現実的に「受け入れ態勢だけ整えておくのが賢明」と提案した。


「民意はどうする」とシラが冷静に言った。「外壁の献花台に今朝どれだけの花が置かれたか、ご存知ですか? 三百束です。市民は自然に動いている」


ざわざわ、と議場が揺れた。


三日間の討議の末、「白銀宮」計画が決議された。第十五層最上部に守護者専用の居住区を設ける。専属世話係五名、護衛部隊一個小隊、最新設備完備。「もし守護者が望まれるなら」という但し書きつきで。


――――


その発表を、エリスは食堂のモニターで見ながらスープを飲んでいた。


「すごい!守護者さんって本当にいるんだ!」とヴィオが身を乗り出した。


「神様みたいな人でしょ」とエマが目を輝かせ、「強すぎてもはや人外では」とソルが真顔で言い、「人外って何のこと」とニナが首を傾げ、「守護者様に失礼だろ」とリオが抗議した。


「神様とは違うと思う」とセリアが言い、全員を見回した。静かな声だった。「でも……ずっと、この都市を守ってくれてる誰かが、本当にいるんだよ」


「うん」とエリスは穏やかに頷いた。


(受け取りどきね)


その夜、防衛司令部の献花台に手紙が置かれた。


「提案、受け入れます。条件は一つ。私の正体は秘密にしてください。それだけが私の要望です」


アドルフはその手紙を三度読んだ。声が微かに震えていた。


「受け入れよう。どんな条件でも」


――――


こうしてエリスは、表向きは「記憶喪失の被災孤児エリス」のまま、裏では「蒼穹の守護者」として白銀宮の住人となった。


専属世話係の筆頭はノア・ライセルだ。二十代前半の実直な青年で、初日に深々と頭を下げた。


「守護者様、何でもご用命ください」


「ノアって呼んでいい?」


「は、はい!もちろんです!」


「私のことはエリスでいい。様はいらない」


ノアは顔をまっかにして「そんなわけには!」と言ったが、エリスの穏やかな視線に根負けし、「……エリス、さん」と言い直した。


もう一人の世話係リタ・コルは「お食事はどのようなものがよろしいですか」と聞き、三人目のエンティ・ダールは「お好みの本はございますか」と棚を指差した。護衛小隊長のエドガー・クラムは直立不動で「全力でお守りします」と言い、補佐役のウィン・ホルトは「何でも資料を揃えます」と言い、小隊副長のルー・ヴァンは「命に代えてもお仕えします」と断言した。


(ふふ。かわいいペットたちね)


白銀宮での最初の夜、窓から見下ろすアーコロジーの夜景はきらびやかだった。


三十二万人が眠っている。その上で、自分が守護者として認定されている。


(これよ、これ)


群れの外からではなく、群れの内側から、最も信頼される存在として承認される感覚。これが自分には最も効いた。


-----


### ■ 第四章 二つの顔


白銀宮での暮らしが始まって二ヶ月。アドルフは初めてエリスと直接面会した。


会議室に入ってきたエリスを見て、彼は一瞬絶句した。報告書で「若い女性」という情報は得ていたが、目の前の存在は報告書が伝え切れていた何かを超えていた。


「あなたが……守護者?」


「はい」エリスは静かに答えた。


「なぜ、私たちを助けてくださるのですか?」副官のマリアが問いかけた。二十年のキャリアを持つ情報将校の目は鋭い。


エリスは少し考えるふりをした。


「ここが気に入っているから」


「……それだけですか?」


「それで十分でしょう?」


沈黙が流れた。マリアはエリスを見つめ続けた。嘘をついているようには見えない。しかしこの答えには、何か根本的に欠けているものがある気がした。


(でも、何が欠けているのかは分からない)


「分かりました」アドルフは重々しく頷いた。「あなたの動機は問いません。ただ、私たちはあなたを必要としています」


「知ってる」


エリスはにっこりと微笑んだ。


三日後、防衛司令部は内部文書として守護者への正式称号を付与した。「蒼穹の白銀」。アーコロジーを守る不可侵の存在としての記号。


(良い名前ね)


エリスは称号を、着心地を確かめるように内心で転がした。満足だった。


――――


一方、学校では変化があった。


ある昼休み、セリアがエリスに静かに言った。ヴィオもエマもいない時間を狙って。


「最近夜に部屋にいないこと、あるよね」


「……散歩が多くて」


「深夜に?」


「深夜の静けさが好きで」


セリアは少し俯いた。「……私、何も聞かないよ。エリスが言いたくないなら。でも」


「セリア」


「無茶しないで欲しい。それだけ。あなたがいなくなったら、私……なんか、嫌だから」


最後の言葉は、少し早口で消えそうだった。


エリスは少し意外に思った。感づいている。でも問い詰めない。ただ、心配している。何か別のもっと細かい感情で。


(この子は……本当に賢いわね)


「無茶はしない。約束する」


エリスは静かに言った。セリアは顔を上げ、少し驚いたような目でエリスを見た。それから、ゆっくりと微笑んだ。


「じゃあ、いい」


その笑顔の温かさが、エリスの内側で何かを揺らした。承認欲求の充足とは少し違う何かだ。もっと個人的な、もっと細かい粒度の何か。


(面白いわね)


エリスはそれを大切に、心の棚に仕舞っておいた。


――――


その頃、廊下の陰でデン・ライトが動いていた。


彼は工学部長のオスカー・デルタに囁いた。


「守護者への依存は危険だと思わないか。あれが一度拒絶したら、アーコロジーは崩壊する」


「そのための白銀宮ではないのか?」


「感謝と管理は違う。私はある残存勢力と接触した。守護者の情報に、かなりの価値をつけている。正体が分かれば、対処の手段も見えてくるかもしれない」


オスカーは答えなかった。ぎり、と廊下の奥で、マリアが壁に背を預けたまま二人の会話を聞いていた。


(デン、お前は……何をしようとしている)


-----


### ■ 第五章 嵐の前夜


「深淵の意志が目覚めました」


情報をもたらしたのは、第二諜報部の潜入工作員クレア・シュタインだ。腕に深い傷を負って帰還した。声は落ち着いていたが、微かに震えていた。


「バラバラだった群れが、一つの目的で動き始めています。目標は蒼穹アーコロジー。そして――あの群れが感知しているものがある。この都市の中の、何か途方もないもの」


会議室に重い沈黙が落ちた。


出席者の顔が並ぶ。アドルフ、マリア、オスカー、ハリス、レア、医療部長のソフィア・ウェスト、諜報部長のデン、市民議会代表のシラ、そして――エリス。


アドルフはそっとエリスの方を見た。


エリスは窓の外を眺めながら、紅茶を一口飲んでいた。


(やっぱり感づいた)


エリスは内心で、静かに溜息をついた。予想通りだ。深淵体も生き物だ。生態系の頂点に立つ捕食者の存在を、本能で感知する。問題は、それが警戒ではなく攻撃として現れていることだ。


(邪魔ね)


「いつ来ますか?」


エリスが静かに聞いた。


「早ければ二週間後です」とクレアが答えた。「戦力規模は――現有防衛部隊の全力を以てしても、突破される可能性が七割を超えます」


どっ、と重い数字が会議室に落ちた。


どん、とオスカーが机を叩く。「迎撃体制を強化する必要がある」


「市民の避難先を用意すべきだ」とハリスが言い、「神の御加護を」とレアが言い、「医療資材の確保を」とソフィアが言い、「情報収集の継続が最優先だ」とデンが言い、「防衛区画の再編が先決です」とシラが言い、声が重なり合い、議論が混乱した。


エリスは紅茶を飲み終え、カップを静かに置いた。


「私が出ます」


全員の目が向いた。


「心配しなくていい。私の生活環境を守るためだから」


「生活環境?」とオスカーが聞き返した。


「ここが気に入っているという話。邪魔されたくない」


沈黙。


やがてアドルフは深く頭を下げた。


「よろしくお願いします、エリス」


「任せて」


(まあ、少し本気を出せばいい話よ)


――――


会議が終わった後、廊下でマリアがデンを呼び止めた。


「守護者の情報を、外に売ろうとしていると聞いた」


デンの顔色が変わった。「なんの話だ」


「一ヶ月かけて調べた。外部の残存勢力との接触、確認している。彼らはアーコロジーの弱点を欲しがっている。守護者がいなくなれば、防衛ラインは崩壊する。それを売るということが何を意味するか、分かっているか」


ぎり、とデンの顎が動いた。


「守護者を管理しようとする者が、どうなるか」とマリアは静かに言った。「本人に会ったことがあるか、デン?」


「……一度だけ」


「では分かるはずだ」


デンは答えなかった。マリアは一礼し、廊下を去った。


その夜、エリスはデンが廊下を歩く気配をそっと感じ取った。


(あら。諦めたのかしら、それとも……)


くすり、と微笑んだ。どちらでもよかった。彼らの政治など、おやつより小さな問題だ。


-----


### ■ 第六章 解放


深淵体の群れが到達したのは、十九日後の夜だった。


予測より一日遅かった。エリスが毎夜少しずつ先行個体を間引いていたからだが、その事実を知る者はいなかった。


「来ます!外壁センサー反応!数が――」


オペレーターのテス・コルトが叫んだ。データが画面を埋め尽くす。


クラスB:推定八百体以上。クラスA:四十体以上。クラスS――


「SS?」マリアが画面を凝視した。「クラスSS、一体……確認を!」


「間違いありません!クラスSS個体が最後尾から接近中!」


ざっ、と会議室に凍りついた空気が走った。クラスSSとは、記録にのみ存在する伝説的な深淵体だ。都市一つを単体で消滅させるほどの戦力を持つとされる。


「守護者は?」


「外壁最上部に、います」とノアが答えた。声が震えていた。「さっきまで、お茶を飲んでいらっしゃいました」


お茶を。


アドルフは何かがおかしいと感じたが、今はそれどころではなかった。


――――


外壁の頂上、エリスは銀髪を夜風に遊ばせながら立っていた。


ひゅう、と冷たい風が吹く。


眼下に広がるのは、数百の深淵体が蠢く闇だ。ざわざわ、と黒い海のように揺れている。その奥、遠くに輝く赤い光が一点。クラスSSの個体だ。


(ああ、これは古いね)


目を細める。あの個体は、人類が現れるずっと前から存在する。深淵体の中でも特に古い系統。自分とは種が異なるが、「古さ」という点では共鳴するものがある。


(でも、私の庭を荒らすなら話は別)


ふう、と小さく息を吐いた。


「……ちょっと本気、出しちゃおうかな」


呟きは夜風に溶けた。


ぞっ、と次の瞬間、エリスを中心に展開したのは捕食結界の完全解放体だった。


光ではなかった。音でもなかった。ただ、存在そのものが変化した、とでも言うべきものだ。直径三キロメートルの半球が、エリスを中心に静かに広がっていく。大気が揺れた。空気が震えた。遠くで深淵体たちが一斉に止まった。


どくん、と何かが脈打った。


結界に触れた深淵体たちが――消えた。「なかったことになった」という方が正確かもしれない。深淵体を構成する物質が、跡形もなく消滅していく。


クラスBが消え、ざっ。クラスAが消え、ざっ。クラスSが消えた。


最後に残ったのは、クラスSSの個体だけだ。


赤い光がゆっくりと近づいてくる。


エリスは動かなかった。


クラスSSの個体は、エリスの前で止まった。高さ十五メートルの巨体が微動だにしない。赤い目が、エリスを見下ろす。


しばらく、沈黙があった。


(分かってる?)


エリスは視線だけで語りかけた。


(ここは私のものよ。退きなさい)


クラスSSの個体は――後退した。一歩、また一歩。やがて、闇の中へと消えていった。追う必要はなかった。あれは二度と戻らない。エリスにはそれが分かった。


外壁の監視カメラが捉えたのは、銀髪の少女がただ立っている映像だけだった。その周囲から、深淵体たちが一匹残らず消えていく、その光景だけを。


-----


### ■ 第七章 余韻


翌朝、アーコロジーは歓喜に包まれた。


市民たちは外壁の前に集まり、守護者への感謝を叫んだ。献花台は一夜にして十倍に膨れ上がった。農夫のヤン・ポーラは「やっぱり守護者様がおられた」と感慨深く頷き、老婦人のマルタ・キールは「また明日を迎えられた」と泣き、商店主のホルツ・バウアーは「これからも守ってほしい」と祈り、鍛冶師のユリウス・プロは「何か恩返しはできないか」と言い、縫い子のエルテ・フィーナは新しい人形を献花台に置いた。行商人のヴィン・カロスは「今日から仕入れ値を下げる、みんなお祝いだ」と叫び、隣家の主婦ガンナ・フォルスは「守護者様に御礼のパンを焼く」と厨房へ駆けた。学生たちは「守護者万歳」と叫んだ。第一区代表のシラ・ムラは演説台に上がって「この都市の誇りだ」と言い、第二区代表のベルト・ノルシュでさえ、この日ばかりは反論を控えて深く頭を下げた。


ざわざわ、とアーコロジー全体が揺れるようだった。


セリアは学校の廊下でエリスを見つけるなり、ぎゅっと抱きついてきた。


「エリス!生きてた!良かった!」


「ただいま」


「心配したんだよ!昨日の夜、部屋に誰もいなくて!散歩?また散歩?!」


「うん、散歩」


「あなたの散歩の定義、おかしい!!」


セリアは半泣きで笑った。エリスも笑った。


「セリアが無事で良かった」


静かな言葉だった。セリアは少し驚いたように目を丸くして、それから「私も」と言った。小さな声だったが、エリスにははっきり聞こえた。


(この子の笑顔、本当に……面白いわね)


――――


午後、防衛司令部からアドルフが白銀宮を訪れた。


彼は厳かに、一枚の証書を差し出した。


「蒼穹アーコロジー最高評議会の全会一致の決議により、あなたに最高名誉市民権と、『終焉姫』の称号を授与します」


終焉姫。


エリスは証書を受け取り、少し考えた。


(終焉、か。まあ、深淵体にとってはそうね)


(でも私はそのつもりじゃない。あくまで生活環境の保護)


「ありがとうございます」


証書を胸に抱き、にっこりと微笑んだ。


アドルフはその笑顔に何か言い知れぬものを感じたが、それが何かは分からなかった。「今後も、よろしくお願いします」と彼は言った。


「うん」


エリスは小首を傾げた。


「これからも、よろしく守ってね。みんな」


その言葉が、その場にいた全員に深く刻み込まれた。アドルフの目が潤んでいた。ノアは小さく嗚咽した。マリアでさえ、唇をわずかに震わせた。リタとエンティは互いに顔を見合わせ、どちらともなく微笑んだ。エドガーは直立のまま、こっそり目を細めた。


(みんな、かわいいね)


エリスは内心でそっと微笑んだ。


――――


その夜、デン・ライトが辞表を提出した。


マリアが一ヶ月かけて掴んだ証拠を、アドルフに提出したからだ。後任には情報部の若手、ライア・フォルトが就いた。引き継ぎの席でライアは「前任者の仕事は引き継ぎません。透明な部署にします」と宣言し、部下のカリン・デールとレオ・ダントは静かに拍手した。


誰もエリスがそれを知っていたとは思っていなかった。


――――


深夜、白銀宮の屋上で星を眺めながら、エリスは今日を振り返った。


最高名誉市民権。「終焉姫」の称号。市民の歓声。アドルフの涙。セリアの抱擁。


承認の量が、過去最高だった。


(人類って、使える群れね)


(守れば守るほど、承認してくれる。なんて効率的なシステム)


(そして何より――)


エリスは夜空を見上げた。無数の星が、かつての地球の光を映している。


(こんなに甘やかされる環境、もったいない。絶滅なんてさせられない)


彼女は長い長い歳月を生きてきた。世界が生まれる前から。人類が現れる前から。深淵体が湧き出す前から。その長い時間の中で、いくつもの群れを見てきた。繁栄し、滅び、また新しい形で蘇る。それが生命の在り方だ。


でも、今この都市で感じる承認の密度は、過去に類を見ないものだった。


三十二万人が同じ恐怖に怯え、同じ希望を持ち、守護者への感謝を共有している。その集合的な承認のエネルギーが、エリスという個体を心地よく満たす。


(もっと続けよう)


この群れを守り続ける。それが最も効率よく自分を承認させる手段だから。善意ではない。使命感でもない。ただ純粋に、効率的な快楽の選択として。


でも――


(結果的に、みんなが生き残るんだから、いいじゃない)


ひっそりと笑う。


ただ、もう一つ。


エリスは星を眺めながら、心の棚を思い出した。セリアの笑顔が収まった棚。「守ってあげるから」という言葉が入った棚。「嫌だから」というわずかな本音が入った棚。


(これは、また別の話ね)


承認欲求とも違う。効率とも違う。何か別の名前がつく何かだ。でも今はまだ、名前をつける必要はないと思った。


(面白い生き物だわ、まったく)


エリスはひっそりと笑った。


下の階から、ノアが紅茶を持ってくる足音が聞こえた。とたとた、と急いでいる。


「エリスさん、お茶が入りました」


「ありがとう、ノア」


エリスは振り返り、穏やかに微笑んだ。ノアは少し顔を赤くして、「いえ、お役に立てて光栄です」と呟いた。


(ほら、やっぱりかわいい)


銀髪が夜風に揺れる。


星空の下、人類最後の守護者は、今日も満ち足りた顔でお茶を一口飲んだ。


それが最も効率よく自分という最上位個体を承認させる手段である以上――


エリスは、これからも人類の守護者であり続けるのだった。


畏怖ではなく、純粋な承認のために。


――そして、心の棚に少しずつ積み重なっていく、まだ名前のつかない何かのために。


**Fin.**

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