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第九章 月下の回廊

午前零時ちょうど。高城蒼は県立総合病院の裏手に佇んでいた。雨上がりの夜気に鉄の匂いが混ざっている。懐中電灯を握る手が汗ばむ。


「システムに接続完了。ナビゲーションを開始します」


彩乃の声がイヤピースから流れた。彼女の声は静かだが震えを帯びている。今、交番では代理が装置のコントロールを手伝っているはずだ。


「目標は地下4階のセキュリティセンター」

「了解」蒼は低い塀を乗り越え、職員用通用口へ向かった。


夜勤の看護師が数名、エントランスを行き交っている。蒼は物陰に身を潜め、タイミングを計った。巡回ルートを分析するのは刑事課時代の癖だ。


「施設図によれば……右側の非常階段が直通ルート」

「しかしカメラがある」

「カモフラージュコードを送ります。15秒以内に通過を」


彩乃の指示通りに動く。懐中電灯の光を最小限に絞り、壁沿いに滑るように移動する。監視カメラのレンズが微かに光る地点を通り過ぎた時、視界の隅に映像が乱れる様子が見えた。彩乃がリアルタイムで欺瞞を仕掛けているのだ。


「クリア。非常階段を降りてください」

「了解」


階段は照明が落とされ、非常灯のみが薄暗く足元を照らしている。一段踏みしめるごとに金属の冷たい反響が耳に残った。


「地下2階到達。セキュリティレベル1」

「警戒を。ここからは人工知能による自律監視が入る」


3階へ下りる踊り場で、蒼は足を止めた。壁に埋め込まれたセンサーが緑色の光を放っている。接近者を検知すると自動的に扉が閉鎖される仕組みだ。


「回避策は?」

「温度センサーを攪乱します。カウントダウン……3…2……1…今!」


彩乃の合図と共に蒼は疾走した。ドアが閉じかける寸前で滑り込む。背後で鋼鉄の扉が轟音と共に閉じる。


「よくやった。しかし時間がない。ここから先は光学迷彩ネットワークが張られている」


携帯端末に彩乃が送信した特殊パターン画像を表示する。それを振りながら進むと、赤外線網が一定時間だけ認識を誤認する。


地下4階フロアへの通路は厳重だった。二重の防護扉があり、その間の空間はガラス張りの更衣室になっている。


「生体認証をバイパスできます。10秒以内に扉を通過を」

「了解」


ガラスの向こう側に男が立っていた。白衣の袖から見える腕章に「安全管理責任者」の文字。蒼は息を潜め、タイミングを見計らった。


「9……8…7……」彩乃の声が震える。

「6……5…」


男が扉の操作パネルを触った瞬間—


「今だ!」


蒼は全力で突進した。扉が開く刹那、彼の身体が隙間に滑り込む。背後で男の驚愕の声が聞こえたが、彩乃が即座にシグナルを遮断する。


「セキュリティレベル3突破。中央管制室は左折して直進50mです」


蒼の心拍数が跳ね上がる。ここまで来てもなお緊張は収まらない。警察学校時代の訓練を思い出した。あの時は教官の罵声の中で必死に撃ち続けていた。今とは比べ物にならない平和な日々だった。


「管制室入口を視認」

「IDカードリーダーがありますね?」


蒼は頷く。「偽造は?」


「生成済み。端末にダウンロードします」


彩乃の指示で自分のスマホを認証機にかざす。緑色のランプが点滅し、扉がゆっくりと開いた。


室内には巨大な液晶パネルが壁一面に並び、様々な都市の立体モデルが投影されていた。病院内部だけではない。K市の全エリアが詳細にモニターされている。


「これがムネモシュネシステムの中枢……」


蒼が呟いた瞬間、背後で低い機械音が響いた。振り返ると白衣の男たちが銃器を構えている。先ほど追い抜いた安全管理責任者を先頭に。


「IDカードに反応がなかったのは君か」男の声は冷たい。「侵入者は予想していたよ。だがここまで素早く対処できたとはな」


男の後方でドローンのような偵察機が飛翔する。その胴体に貼られた社章—ムネモシュネ・コーポレーションのシンボルマーク。


「質問だ」男は言った。「彩乃博士はどこにいる?彼女のコードキーがなければ中枢にアクセスできない」


蒼は深く息を吐いた。これが勝負どころだ。


「彼女はあなたの後ろにいる」


男が眉をひそめる。その刹那—


「アクセス権限確認。メインフレーム開放プロトコルを起動」


彩乃の声がスピーカーから流れた。同時に天井の巨大ディスプレイに虹色の紋章が浮かび上がる。ムネモシュネシステムの旗印だ。


「どういうことだ!?」男は狼狽えた。


「忘れたの?私も元メンバーだもの」彩乃が答える。「そして交番の『力』を借りているの」


室内の空気が歪み始めた。液晶パネルから放たれる光が異常な波形を描く。蒼のポケットで水晶玉が温もりを増した。


「危険!メモリア・リバースが起動している!」男が叫ぶ。「対抗フィルターをかけろ!」


白衣の集団が端末を操作し始めるが、ディスプレイ上の波形は加速していく。


「間に合わないわね」彩乃が呟く。「私が設計したフィルタリングは突破済みよ」


その時、管制室全体が青白い閃光に包まれた。蒼は目を瞑り、反射的に顔を庇った。光の中で誰かの声が響く。


> 「止めなさい!私たちの研究を壊すつもり!?」

>

> 「研究?犠牲者の魂を弄ぶことをそんな言葉で飾らないで」

>

> 「忘却は救いだ。過去の苦しみを削除し、幸福な人生を与えられる」

>

> 「それが本当に幸せかどうかは本人が決めることだ」


音声は頭の中に直接流れ込んでくる。彩乃とムネモシュネ指導者の会話か?


「蒼さん!水晶を掲げて!」彩乃の叫び。

「了解!」


蒼は水晶玉を取り出し、高く掲げた。青い光が膨らみ、管制室内を満たす。するとディスプレイに奇妙な情景が映し出された。


暗い洞窟。水の滴り落ちる音。そこには白衣の男女が立っており、中央に巨大な水晶塊が鎮座している。装置には無数のケーブルが繋がれ、その先端には人々の記憶にアクセスするヘッドセットがある。


> 「これが真実」彩乃の声。「最初は善意の研究だった。PTSD患者の悪夢を軽減する技術。でも力を持てば人は狂う」


画面が切り替わり、研究所内部の映像が映し出された。実験台に固定された若い男性。彼の頭部には装置が取り付けられ、脳波を測定しながら何かを注入している。


> 「これは……」蒼は息を飲んだ。

>

> 「記憶改竄の第一号ケース。彼は戦場で見た惨劇を忘れることができず自殺未遂を繰り返していた。それで彼らは強制的に『英雄譚』の記憶を刷り込んだ。結果はどうなったと思う?」

>

> 「まさか」

>

> 「そう。彼は別人のように変わった。勇敢な兵士として再び戦地へ。そして……」

>

> 「……そして?」

>

> 「今回は生きて帰ってきたわ。ただし戦争ヒーローとしての新しいアイデンティティを持ってね。でも心の中では毎晩自分を責め続けている」


映像が歪み、今度は彩乃自身の姿が映った。白衣を着て装置の前で作業する彼女の横顔は使命感に燃えている。しかし画面が一瞬白く飛ぶと、数年後の彼女が映る。同じ場所で同じ作業をしているはずなのに、表情は虚ろだ。


> 「私も少しずつ変わっていった」彩乃が嘆く。「記憶を操作するうちに……自分の記憶さえ曖昧になったの」


最後に映し出されたのは交番の風景。代理がカウンターで水晶を磨いている様子だ。そしてその水晶の奥に人影が浮かび上がる。


> 「この方が私の作ったシステムを破壊した最初の人。署長代理……いや」彩乃は言い淀んだ。「本来は『守護者』と呼ばれるべき方」


光が収束するにつれ映像が消えた。管制室内に戻った蒼の目の前で、男たちの装置から火花が散っている。彩乃のプログラムがムネモシュネの主要サーバーを攻撃しているのだ。


「データ保全装置が動作しました!」オペレーターの一人が叫ぶ。

「バックアップドライブを確保せよ!」


白衣の一人が部屋の隅にある金庫へ飛びつく。しかし開錠しようとした瞬間、金庫が轟音と共に吹き飛んだ。天井から降り注ぐ埃と煙の中、蒼は床に落ちた黒い箱を拾い上げる。


「データドライブ確保!」


蒼の宣言と同時に管制室の電源が落ちた。非常灯だけが弱々しく点滅する。


「今だ!脱出するぞ!」


彩乃の声がインカムから響く。蒼は迷わず出口へ向かって走り出した。背後で追跡者たちの足音が迫る。廊下の曲がり角を駆け抜けた時、


「止まれ!」


鋭い声と共に閃光弾が炸裂する。蒼は咄嗟に床に伏せた。煙の中で金属音が鳴り響く。


「クソッ!」

「どこへ逃げた!?」


混乱に乗じて蒼は非常階段へと滑り込んだ。上昇するエレベーターシャフトを避け、梯子を掴んで最上階を目指す。


「彩乃さん!このまま地上に出られる?!」

「地上は危険。ヘリポートを経由して裏山へ」


建物の外壁に取り付けられたハシゴを攀じ登る。夜風が肌を刺す。屋上に到達するとヘリポートに一台の小型ヘリが停泊していた。


「あれが逃走ルート!搭乗して!」

「了解!」


操縦席に飛び乗ると同時に戦闘用ドローンが襲いかかる。蒼はシートベルトを締めながらスロットルを全開にした。プロペラが激しく回転し、機体が宙に浮く。


「離陸成功!現在追尾中!」

「高度を上げろ!それから南西方向へ!」


ヘリは夜空へ舞い上がり、病院の明かりが小さくなる。眼下には雨上がりの街並みが銀河のように輝いている。


「彩乃さん。データドライブは?」


ポケットの水晶玉が微かに震えた。中で青い粒子が渦巻いている。どうやら装置が交番を通じて反応しているらしい。


「交番に転送するよ」


水晶玉が一瞬輝き、データドライブが煙のように消えた。代わりに蒼の手には一枚の写真が残された。それは病院の屋上でヘリを背景に微笑む彩乃の姿だ。


「ありがとう……蒼さん」

「まだ終わったわけじゃない。これからが本番だ」

「わかってる。でも一つだけ」

「なんだ?」

「代理さんが言ってた『忘れ物』のこと。その真意がやっと理解できたわ。私たちの記憶は単なる個人所有の物品じゃない。過去から未来への贈り物。だからこそ—」


無線がノイズに飲み込まれた。前方に複数のヘリが出現する。武装した相手に囲まれている。


「迎撃準備」蒼はシートベルトを外した。「交番に戻るまでが任務だ」


蒼は拳を握りしめた。手の甲に汗が滲む。この闘いがどんな結末を迎えるにせよ、彼の意志は揺るがない。記憶を奪われる人々のためにも、そして自分自身の過去と向き合うためにも—必ず真相を明らかにする。


夜空の向こうに交番の灯りが遠く小さく瞬いていた。その灯りを目印にヘリは漆黒の空を突き進んだ。

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