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第八章 真実の鏡

夜の街灯が雨に濡れ、橙色の光がアスファルトに滲んでいた。高城蒼は県立総合病院の玄関前で傘を閉じた。午後九時を回った頃で、外来棟は既に閉鎖されているが、救急入口には人の出入りが続いている。


「お待ちしていました」


白衣をまとった中年の医師が近づいてきた。松島と名札に記されている。


「お忙しいところ申し訳ありません。警察の高城と申します」


「事情は伺っています。早苗さん……お姉さんの件ですね」


松島医師は緊張した面持ちで廊下へ案内した。集中治療室は奥まった場所にあり、窓越しに見える患者たちの姿はベールに包まれている。


「早苗さんは去年の交通事故の後遺症で……」


「意識はありませんが、脳波には反応があります」医師が告げた。「記憶障害もある。特に事故前後については」


蒼は少女の言葉を思い出した。「お姉ちゃんが川で溺れかけた私を助けてくれた」という作り話。事故は実際には街中の交差点で起きた車同士の衝突だった。


「この記憶の混乱について……何か原因になりそうなことは?」


医師は電子カルテをスクロールさせた。

「精神科の阿部先生が気になることを言っていました。『夢遊病的な行動』と。夜中に病室から抜け出したり」


「抜け出す?意識がない状態で?」


「監視カメラの映像を確認してください」


病室の前に着くと、床面に設置された小型カメラが稼働していた。病院側から提供された記録映像をタブレットで確認する。


映像には確かに早苗の姿が映っていた。意識朦朧とした状態でベッドから起き上がり、廊下を徘徊する。不思議なのはその動作—まるで誰かの指示を聞くように一点を見つめていること。


「こちらをご覧ください」


別の映像が切り替わる。同じ日に撮影された病院の中庭。早苗がベンチに座り、スマホを操作している様子だ。


「意識が戻っているのでしょうか?」


「いいえ」医師は否定した。「検査結果では意識レベルは依然として低下しています。にも関わらず、外部からの刺激に応答する現象が頻繁に」


蒼は息を呑んだ。記憶操作どころか意識不在の状態でデジタル操作ができるというのは……


「お待ちください」


廊下の奥から女性の声がした。振り向くと五十代半ばの女性看護師が立っていた。名札には「阿部」の文字。精神科医だ。


「阿部先生とお見受けします。高城巡査です」


「私こそ聞きたいことがあるんですよ」阿部は厳しい口調で言った。「早苗さんのスマホに保存されていたものについて」


病院内のカンファレンスルームに移動した蒼は、阿部のパソコン画面に表示されたファイルを見た。それは一連の音声データだった。


「これが睡眠中の彼女のスマートフォンに転送されていたものです」阿部が説明した。「初期化しても翌日には戻ってくるんです」


再生ボタンを押す。最初は雑音が支配的だったが、次第にクリアな声が聞こえ始めた。


> 「次の指令です。ターゲットF07に接触。対象の潜在意識にある重要な記憶を抽出してください。完了後はコード66を適用して帰還」


蒼は息を止めた。機械合成と思われる中性的な声が続く。


> 「今回の記憶は『救出体験』。架空の過去を作り出し、ターゲットF07を操作対象として確立します」


これは明らかな犯罪指令だ。しかも高度なテクノロジーを用いた心理操作。病院スタッフが慌てるのも当然だった。


「警察には届けていません」阿部は言った。「外部流出が怖くて……」


「おっしゃる通り賢明です」


蒼は警察手帳を取り出した。

「私の方で捜査を進めます。これらの音声ファイルを預からせていただけますか?」


承諾を得てデータをコピーする間、蒼の脳裏に閃いたのは署長代理の言葉だった。


> 「『形のない忘れ物』を利用すれば、形のない罪も作れます」


これはまさにそれに該当する事態だ。



病院を後にした蒼は旧街道へ戻った。雨足は強くなり、風が街灯の傘を叩いている。懐中電灯の光が闇を裂き、小さな交番の輪郭を浮かび上がらせた。


「戻りました」


戸を開けると署長代理がカウンターの奥で蝋燭を灯していた。蒼の全身を見てすぐに状況を察する。


「成果がありましたね」


「はい」蒼はデータUSBメモリを見せた。「これが決定的な証拠です」


代理は慎重に受け取りながら言った。

「その前に……気づいていますか?ここに招待客がいることに」


蒼は周囲を見回した。いつもなら静かな交番に、見慣れない気配がある。棚の影からゆっくりと人影が現れた。


「お久しぶり……と言ってもいいのかしら」


声の主は女性だった。年齢は三十代後半といったところか。黒髪を後ろで束ね、知的な雰囲気を醸し出している。何より特徴的なのは、彼女が身につけている服だ—白衣に似ているが微妙に異なる。


「あなたは……?」


「松葉彩乃。心理学博士。この交番の『忘れ物』を利用させてもらっている研究者の一人よ」


彩乃の出現は意外だったが、どこか納得できる部分もあった。高次脳機能を専門とする研究者が記憶操作に関与する可能性は十分考えられる。


「博士殿がお越しになったということは」代理が穏やかに言った。「この事件、裏にはもっと大きな組織があるというわけですね」


彩乃は深く頷いた。

「国際的な記憶工学プロジェクト『ムネモシュネ計画』。表向きはPTSD治療のための新技術開発だけど、その実態は……」


「軍事利用目的の精神操作か」蒼が言葉を継ぐ。


「正確には情報戦略兵器よ」彩乃はUSBメモリを指した。「あなたが入手したデータには続きがある。ターゲットF07以外にも多数の被験者が指定されているわ」


「でもなぜ病院内で?」蒼の疑問に彩乃は苦笑した。


「簡単に言えば設備の借用よ。CTやMRIなどの医療機器を使って脳波パターンを解析することで『忘れ物』へのアクセスが可能になる。ここ、この交番のような自然発生的な干渉場よりもずっと安定的にね」


代理がテーブルを叩いた。

「つまり彼らは『忘れ物』という概念そのものを実験材料にしてるわけですな」


蒼は歯噛みした。

「許せない……記憶を玩ぶなんて」


「それだけじゃない」彩乃が続けた。「彼らは『忘れ物』の中核にある『共有記憶層』を発見したの。個人の記憶が相互に繋がっている場所よ。これを掌握すれば……」


「社会全体の意識をコントロールできる」代理が低く唸った。


一瞬の沈黙が交番を包む。三人の視線がUSBメモリに集まった。


「手立てはあるの?」蒼が訊ねた。


彩乃は小さな装置を取り出した。円盤型の金属製パーツで構成され、中心には虹色に輝く結晶が埋め込まれている。


「対抗インターフェース。名付けて『メモリア・リバース』。これはムネモシュネシステムの逆作用を行う装置よ。記憶改竄を解除するだけでなく、工作員の居場所を特定することも可能」


「なぜあなたがこれを持つの?」蒼の問いに彩乃はため息をついた。


「元メンバーだからよ。倫理的な限界を感じて脱走したの。でも組織は私を探している」


「だからこの交番に避難してきたと」代理の言葉に彩乃は首肯した。


「ここなら安全だし、何より協力者がいるからね」


「私と高城君ですね」代理は笑った。


計画が見え始める。ムネモシュネシステムをシャットダウンするには直接アクセスする必要がある。しかしそれを制御している中枢施設の場所を特定しなければならない。


「まずは被験者リストを入手したい」彩乃が言った。「その中には私の旧友も含まれているはず」


「早苗さんのデータは既にあります」蒼は自分のスマホを差し出した。先程病院でダウンロードしたファイルの一部だ。


「素晴らしい」彩乃はアプリを立ち上げた。「この形式……間違いなくムネモシュネサーバーから直にダウンロードされたものね」


彼女がファイルを開くと、数十名分のプロフィールが羅列された。それぞれにアルファベットと数字の組み合わせでIDが振られている。


「ターゲットFシリーズ……十四人全てが現時点で生きている。死亡扱いになってるのは早期脱落者なのね」


「そして……ここを見て」彩乃が指した位置に「対象M:操作率92%」「対象F07:操作率84%」といった数値があった。


「操作率って何だ?」蒼が訊ねる。


「その人物の記憶と思考がどれだけ意図的にコントロールされているかの指標」彩乃は画面をスクロールさせた。「そして……見つけた」


彼女が拡大した画面には「対象C1:進行中/主要施設関与」と書かれていた。所在地の項目には「K市中央医療センター地下レベルX」とある。


「あの病院の地下……?」


「そうだわ」彩乃は顔を上げた。「私もそこで実験に参加していた。当時は地下三階までしか公表されていなかったけれど……」


「非公式の四階以降が存在すると」代理が推測した。


「正解よ。ムネモシュネ計画の本部はあそこに」


緊張が場の空気を満たす。ついに核心に辿り着いたのだ。


「行くしかないですね」蒼は立ち上がった。


「急いては事を仕損じるよ」代理は冷静に言った。「まず必要なのは確固たる証拠と味方だ」


「味方はすでにいるわ」彩乃が言った。「病院内の内部告発者が数名。阿部先生もその一人よ」


「我々の側が三名、敵側も油断できない人数でしょう」代理は思案した。「正面突破は難しい」


「だからこそ」蒼は決意を固めた。「交番の『力』を使いましょう」


「確かに」代理は同意した。「ここは形のない記憶の港。流れ込む情報を利用するという手もあります」


「でもリスクが高いわ」彩乃が警告した。「あの装置は常に『忘れ物』の領域をスキャンしている。下手に入り込めば……」


「探知される前に潜入します」蒼は言い切った。「私が現場に向かい、内部からアクセスする。博士は装置で支援を。代理さんは……」


「通信サポートを担当しましょう」代理は微笑んだ。「それに……」彼は棚の奥から青い水晶玉を取り出した。「これを蒼君に託します。緊急時にはこれが防御になります」


水晶玉を受け取った蒼の掌に温もりが広がる。かつて悠斗の記憶と共に取り戻したものと同じ種類の結晶だ。


「準備はいい?」彩乃が最終確認をする。


蒼は深く息を吸い込んだ。

「いつでも」


こうして計画は動き出した。深夜零時ちょうどに蒼は再び病院へ向かう。彩乃は交番から装置を通じて遠隔操作を行い、代理はバックアップとして待機する。


雨は既に止んでいた。夜空には雲の隙間から月が顔を覗かせている。蒼は懐中電灯を腰に装着し、特殊捜査用の装備を整えた。


「気をつけて」署長代理が彼の背中を押した。「私たちの『忘れ物』は君と共にある」


「ありがとうございます」蒼は短く礼を言い、雨上がりの舗道に踏み出した。


彼の目に映る世界は一変していた。これまで見過ごしてきた細かな景色—店先の枯れた植物や信号待ちの人々の表情—それらが意味のある断片として意識に流れ込んでくる。


この夜が終われば何かが変わる。街に隠された暗い記憶の糸が解かれ、本当の忘れ物たちが持ち主の元へ戻っていく。そして自分自身もまた、新しい記憶と共に歩き始めることができるはずだ。


蒼は闇の中を進んだ。その先で待つのは恐らく危険な罠だ。だが彼は怯えない。交番が教えてくれたように、忘れ物と向き合う勇気こそが自分を強くするからだ。

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