第七章 月の祭り
十一月初旬。街では年に一度の月見祭が催されていた。古来よりこの地域では、十五夜の月が最も美しいと言われ、人々は酒や団子を供えて豊穣を祈る。
「高城君、今年も始まりましたよ」
署長代理が嬉しそうに言った。珍しく彼もスーツを着込み、ネクタイを締めている。
「月見祭ですか?」
「ええ。実はこの祭りの夜だけ、私たちの交番が“現実に”姿を見せるんです」
蒼は目を丸くした。
「どういうことです?」
「普段は結界で隠れているのですが、今夜だけは『門』が開きます。つまり——」代理は微笑んだ。「大勢の方々が、記憶を取り戻しにやってくるんです」
祭り当日、蒼は昼間の勤務を終え、私服で旧街道へ向かった。提灯の灯りが木々の間に連なり、笛の調べが夜空に響く。人々が楽しげに団子を分け合い、杯を交わす姿が浮かび上がる。
交番の前に到着すると、既に行列ができていた。皆、不安そうな顔をしながらもどこか期待に満ちた表情をしている。
「いらっしゃいませ。御用の方はこちらへどうぞ」
代理の凛とした声が響く。蒼は臨時の受付係として訪問者たちを迎えることになった。
二十代のOLは「学生時代に捨てた恋心」を取り戻し、涙ながらに新たな出逢いを誓った。
年老いた夫妻は「若き日に交わした約束」を噛み締め、手を取り合って去って行った。
五十代の男性は「挫折した夢の形跡」を胸にしまい、再起を決意した。
「これは……魔法のようですね」蒼は呟いた。
「いいえ、現実の続きなんです」代理は言った。「たとえそれが傷となっても、受け取るべき時はあります」
列が減り始めた深夜一時。最後に一人の少女が現れた。十三歳ほどの彼女は震える声で言った。
「お姉ちゃんとの思い出を……返してください」
蒼は戸惑った。近年、この地域では女子中学生の失踪事件が未解決で続いている。代理人は台帳を調べると、顔色を変えた。
「これは……存在しない記憶ですね」
少女の瞳が激しく揺れる。代理は優しく語り掛けた。
「お嬢さん、あなたのお姉さんはまだ生きていますよ」
「でも私……あの日、川で溺れそうになったのを……お姉ちゃんが助けてくれて……それで……」
少女の言葉が詰まる。記憶が歪んでいる。おそらく彼女は過去の出来事を誤って植え付けられたのだ。
代理は奥の小部屋から古い写真を取り出した。川辺で笑顔を浮かべる姉妹の姿。そこに写っている少女は間違いなく彼女自身だ。
「これはあなたのお父さんが撮った写真です。お姉さんは今、県外の病院でリハビリ中でしょう?」
少女は呆然としたあと、堰を切ったように泣き出した。
「違う……違うんだ……お姉ちゃんは……私を助けてくれた後……」
蒼はハッとした。過去一年で、この少女と同じ症状を示したケースが複数報告されていた。精神科医たちはPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断していたが——。
「これはただのトラウマではない。何者かが故意に記憶を改竄しています」
代理の言葉に蒼の背筋が凍る。形のない忘れ物の領域を超えている。犯罪行為だ。
「協力してくれるかい、高城君」
代理は初めて真剣な表情で蒼を見据えた。
「警察官として、そして……忘れ物の回収者として」
蒼は迷いなく頷いた。忘れ物は時に、人を癒やすだけでなく、大きな闇を暴き出すこともある。少年時代の自分を救ってくれたこの場所で、今度は他者の記憶を守る番だ。
「分かりました。行きましょう」
月明かりが二人を照らす。遠くで祭囃子が鳴り響く中、蒼は拳を握り締めた。夜明けまでに、この街を覆う謎の正体を掴まねばならない。
——形のない忘れ物は、時に最悪の凶器となる。それを使役する者が現れたならば、それは交番の使命を超えた事件だ。
蒼は深呼吸し、警察手帳を開いた。最初の任務として、自分宛てにこう記す。
「覚悟を決める時だ。過去に怯えず、未来に備えよ」
そして彼は署長代理と並び、夜の街へと足を踏み出した。二人の影が重なり合い、闇の中に消えてゆく。星空の下、新たな「忘れ物」を求める者たちの物語が動き出したばかりだった。




