第四章 蒼の決意
土曜日の朝、高城蒼は鏡の前に立った。制服を着替え、普段の巡回に出るのとは違う服装に袖を通す。濃紺のシャツにグレーのジャケット、そして右手に新品の百合の花束。天気は快晴だが、胸の内は暗い灰色のままだった。
「墓参りに行くんですね」
署長代理が背後から声を掛ける。夜勤明けだというのに、代理の姿は疲労の影もなく完璧に整っている。
「ええ。一度逃げた約束を果たしに行ってきます」
「良い選択です。ただし覚悟が必要ですよ」
代理は戸棚から小さな水晶玉を取り出した。蒼が少年時代に持っていたものと同じ透き通った青色だ。
「これを持っていきなさい。思い出があなたを飲み込まないように」
交番を出て旧街道を歩く途中、蒼の足取りは重かった。十年分の後悔が踵に絡みつくようで、何度も立ち止まりそうになった。それでも前へ進む。あの日、逃げた自分の弱さと向き合うために。
寺の本堂横の墓苑に悠斗の名前を見つけた時、胸の鼓動が速くなった。墓石はきれいに掃除され、まだ新しい花が供えられている。おそらくご両親が最近来たのだろう。
「遅くなってごめん」
手を合わせて呟いた声が震える。風が木々を揺らす音に消えそうなくらい小さな声だった。
突然、水晶玉が淡く輝きだした。驚いて手を離すと、光の粒が空中に漂い始める。その中心から古い映像が現れた。十歳の悠斗が笑顔で駆け寄ってくるシーンだ。
——「蒼!一緒に泳ごうぜ!」
——「ダメだよ!先生が言ってただろ?こっち側は危ないって」
——「大丈夫だって!ほら行こう」
無邪気な声が耳元で蘇る。次の瞬間、映像は一転して悲劇へと変わり始めた。岩場が崩れ落ち、悠斗の身体が谷底へ消えていく。
「待って!俺が行くから!」
少年時代の蒼の声が叫ぶ。しかし次のカットでは、怯えた瞳でただ立ち竦む自分の姿が映っていた。
「ごめん……ごめんよ」
今の蒼はその場に崩れ落ちていた。視界が歪み、熱い涙が頬を伝う。泣く資格などないと長年封じてきた感情が、堰を切ったように溢れ出した。
光の映像はさらに続いた。病院の廊下で震える手を握りしめる幼い自分。棺の前で俯く大人たち。そして何より辛いのは——自分だけが泣けない姿だった。
「君は悪くない」
背後から署長代理の声がした。いつの間にか代理が近くに立っていた。
「でも逃げた。その事実からは逃げられない」
「逃げたからこそ分かることがあります。罪悪感と向き合うということは、その重さを他人に押しつけないことだ」
代理の言葉に蒼は顔を上げた。視線の先で水晶玉が静かに脈打っている。それは怒りも恨みもない純粋な光だった。
「悠斗は……許してくれているのか」
「許すのは君自身です」代理は穏やかに言った。「君が自分を責め続ける限り、彼も解放されません」
蒼は再び墓石に向かい合った。花を添え直し、深く頭を下げる。
「約束するよ。もう逃げない。君のことを忘れず生きていく」
言葉にした途端、肩から重荷が抜けるような感覚があった。十年分の罪悪感が消えたわけではない。だがそれが自分を縛るものではなく、自分を生かすものになる——そんな気がした。
帰り道、署長代理と並んで歩く蒼の表情は以前と違っていた。瞳には強い光が宿り、背筋も伸びている。
「代理さん。僕はようやく分かりました。『忘れ物』を引き受けるっていうのは……」
「ええ」
「自分を見つめ直すチャンスを与えることなんですね」
「その通りです。でも同時に、とても残酷な選択を迫ることでもあります」
代理の表情がわずかに曇る。
「あなたのように正面から向き合える人ばかりではありません。中には受け取るのがあまりに辛すぎて、一生そのままの方がよかったと思う方もいます」
夕陽に照らされた旧街道が黄金色に輝く。蒼は静かに答えた。
「それでも……選択肢があることが大切だと思います」
署長代理は微笑み、「そうですね」と呟いた。その顔に一瞬だけ安堵の色が浮かんだのを蒼は見逃さなかった。
交番に着くと、蒼はこれまで書きためた業務日誌を開いた。その最終ページにこう記す。
> 「今日、私は過去の過ちと向き合った。それは罪深い痛みだったが、同時に生きる理由を見つけた日でもあった。明日から私は変わらずこの交番で働く。ただし、今度は“自分自身の忘れ物”を持った者として」
夜九時。例のごとく巡回に出る前に交番の裏手にある井戸へ向かった。代理が教えてくれた、「記憶を清める水」が湧いているという小さな井戸だ。
桶いっぱいに汲んだ冷水で顔を洗う。ひんやりとした感触が心地よい。鏡に映る自分の顔には、もうあの頑なな表情はなかった。
「準備はできましたか?」
いつの間にか背後に立っていた代理が訊ねた。蒼は頷き、ジャケットを羽織り直す。
「はい。これから巡回です」
「良い報告を楽しみにしていますよ。そして……今夜は面白いお客さんが来るかもしれません」
代理は意味ありげに微笑むと、再び交番の中へ姿を消した。その言葉を胸に留めつつ、蒼は街灯の少ない夜道へと歩み出した。
懐中電灯の光が照らす先には、まだ見ぬ忘れ物と、それを受け取る勇気を持つ者たちがいるはずだ。蒼はその覚悟を持って巡回に臨んだ——自分の過去と正面から向き合えた今だからこそ見える景色があるはずだと信じて。




