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第十二章 交番の灯台

意識が浮上する感覚。蒼は柔らかな日差しに目を細めた。鼻孔をくすぐるコーヒーの香り。聞き慣れた革靴の音。


「おかえりなさい」


代理の穏やかな声が鼓膜を優しく揺らす。蒼はゆっくりと目を開けた。目の前には交番のカウンター。署長代理が紅茶を淹れている。


「夢じゃ……ない?」

「現実ですよ」彩乃が隣で微笑む。「ここは『記憶の交叉点』。時間も空間も超越した特異点です」


蒼は立ち上がり、窓の外を見た。朝靄に包まれた街並みが広がっている。だが建物の輪郭が微妙に揺らいでいる。現実と幻想の境界線が曖昧だった。


「啓介君は?」

「こちらです」彩乃が指差す先に、啓介が椅子に座っている。彼の表情は以前より穏やかで、洗脳の影響は薄れているように見えた。


「高城さん」啓介が立ち上がる。「感謝します。僕を取り戻してくれて」

「君の勇気あってこそだ」蒼は右手を差し出した。「これからどうする?」

「ムネモシュネを止めます」啓介の瞳に決意の色が宿る。「記憶を奪われた人々を助けたい」


彩乃が紅茶のカップを配りながら説明する。

「交番に届いたデータドライブにはムネモシュネの全容が記録されている。ただし……」

「ただし?」

「中枢はまだ稼働中」代理が補足する。「彼らは私たちが持ち出したデータを追跡しているでしょう」


蒼は水晶玉に触れると、中で青い粒子が激しく渦巻いているのを感じた。

「代理さん。これを使えばムネモシュネシステムを逆侵攻できる?」

「可能ですが」代理は考え込むように指を組んだ。「リスクが伴います。交番の特異性が暴かれてしまう」


啓介が前に出て、両手をカウンターに置いた。

「僕も協力します。記憶を操作された者としての知識で役に立てます」

「ありがとうございます」代理は頷いた。「では作戦を練りましょう」


紅茶の湯気が立ち昇る中、四人は交番のテーブルを囲んだ。蒼は手帳を取り出し、要点を書き留めていく。


「ムネモシュネの最終目的は?」

「全国民の記憶統制」彩乃が答える。「心理的安全ネットワークという名目で社会的ストレスを排除する計画よ」

「つまり国民全員の記憶を管理下に置くということか」

「そうです」啓介が補足する。「最初はPTSD患者の治療という形で始まりましたが……」


「そして次第に政治家や財界人が標的になり」代理が言葉を継ぐ。「最後には一般市民全体への拡大を目指しています」


蒼はペンを握りしめた。

「これを止めるには?」

「二つの方法があります」彩乃が説明する。「一つはデータを公開し世論を動かすこと。もう一つは……」

「システムそのものを破壊することだな」啓介が頷く。


代理が立ち上がり、窓際へ歩み寄る。朝日が彼のシルエットを淡く照らす。

「前者は時間がかかりすぎます。後者なら短期間で効果が出ますが……交番の存在が露呈するリスクがあります」


蒼は深く息を吸い込んだ。

「どちらも選択肢として有効だと考える。だが……」

「だが?」

「交番の秘密を守る必要はないと思います」蒼は決然と言い切った。「人々が自分たちの記憶と向き合う勇気を持てば、交番は不要になるかもしれません」


彩乃と啓介が驚いた表情で顔を見合わせる。代理だけは穏やかな笑みを浮かべたままだった。


「意外と大胆ですね」代理は言った。「ですが、それが高城君の本質かも知れません」


蒼は立ち上がり、カウンターの水晶玉に触れた。

「交番は『忘れ物』の保管所ではありません。思い出との対話を促す場所です。だったら……」

「記憶を操作する連中に一矢報いるためにも、我々の存在を示すべきだ」彩乃が言葉を継いだ。


啓介が水晶玉を覗き込む。その瞳に映る青い光が希望の輝きを宿している。

「では作戦は決まりましたね」

「ああ」蒼は頷いた。「三日後、県庁で行われる『社会福祉政策発表会』に介入する。そこでムネモシュネの真実を暴露するんだ」


彩乃が手帳を開き、計画を書き留めていく。

「まず啓介君が内部からアクセスコードを提供。私は公開用データベースを作成します」

「交番は通信サポートを担当します」代理が紅茶を一口啜る。「万が一の事態には緊急避難ルートを確保します」

「俺は護衛と情報操作担当だな」蒼は拳を握った。「交番の力を借りずにできることは全てやる」


水晶玉から小さな青い光が分離し、それぞれの手元に集まった。蒼の掌で温もりを帯びる光を見つめながら、彼は確信した。

この戦いが終われば、きっと自分自身の記憶とも正しく向き合えるはずだ。


---


県庁ホールの控室。蒼は緊張した面持ちでマイクチェックを行っていた。


「本日の講演『社会の心理的安全性向上に関する提言』ですが」司会者が確認する。「急遽、特別ゲストをお呼びしております」


蒼は深呼吸をし、扉に向かって歩き出す。啓介と彩乃が舞台上に控えている。


「では……始めましょうか」


マイクのスイッチを入れた瞬間、会場のざわめきが収まった。蒼はゆっくりと壇上に立ち、聴衆を見渡す。


「本日は皆様に真実をお伝えするために参りました」

「何だって?」「変更予定なんて聞いていないぞ」

「ムネモシュネ・コーポレーションによる記憶操作計画の全貌を……」

「止めろ!」「何をするつもりだ!」

警備員が舞台に駆け寄るが、水晶玉の光が彼らの動きを鈍らせる。蒼は水晶玉を高く掲げた。


「皆さんにお願いがあります。自分の記憶と向き合う勇気を持ってください」


会場が静まり返る中、巨大スクリーンに啓介の証言が映し出された。洗脳状態から目覚めた彼の告白に、聴衆は息を呑む。


「これがムネモシュネの真実です」蒼は言い切った。「私たちは交番の名のもとに……皆さんの記憶の自由を守るために立ち上がります」


照明が激しく明滅し、警報が鳴り響く。舞台袖から数人の黒服の男たちが姿を現した。


「そこまでだ!」リーダー格の男が怒鳴る。「データを渡せ!」


蒼は微笑んだ。

「もう遅いですよ」

「何!?」

「既にインターネットに公開しました」彩乃が答える。「世界中の人々が記憶操作の被害を受けていることを知っています」


男たちの顔色が変わる。スクリーンにはアクセスカウンターが凄まじい速度で増加している様子が映し出されていた。


「こんなことが許されると思っているのか!?」

「許されますよ」蒼は毅然と言い放った。「なぜなら……」


水晶玉が再び強烈な閃光を放つ。会場全体が眩い光に包まれ、人々の記憶が一瞬だけ鮮明に甦る。


「記憶とは誰のものでもありません。自分自身のものです」


光が収まると同時に、警備員たちが次々と膝をついていった。洗脳状態から解放され、彼らの顔には安堵と驚きの入り混じった表情が浮かぶ。


「我々の勝利です」

「いいえ」蒼は首を振った。「まだ始まったばかりです」


---


雨上がりの夕暮れ。交番の前に立つ蒼は空を見上げた。雲間から射す光が町並みを金色に染めている。


「どうするんですか?」背後から啓介の声がする。

「どうするって?」

「ムネモシュネとの戦いが終わったら」啓介は少し躊躇いながら尋ねた。「また警察官に戻るんですか?」


蒼は暫く黙って答えを考えた。確かに警察組織への思いはある。だが今の自分に必要なのは……


「分からない。ただ、一つだけ確かなことがある」

「それは?」

「警察官であろうとなかろうと、『記憶の自由』を守り続けるということだ」


交番の扉が開き、代理が顔を出す。

「高城君。新たな依頼が来ていますよ」

「分かりました。すぐに行きます」


啓介が肩をポンと叩いた。

「僕も手伝います」

「ありがとう」


三人は交番へと歩き出した。夕日に照らされた石畳の道は、まるで彼らの新たな旅路を示すように延びていた。

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