第十章 記憶の岸辺で
蒼の操縦する小型ヘリは夜明け前の空を切り裂くように飛んだ。背後には武装ヘリが三機。追跡を振り払おうとする度に、前方からレーザーポインタの赤い点が皮膚に刺さるような錯覚に襲われる。
「高度300まで上げて!」
「了解!」
彩乃の指示で機体を傾ける。プロペラ音が轟き、蒼は操縦桿を強く握った。右翼の外板が剥がれ落ちる音がしたが、構っていられない。
「彩乃さん。追尾を撒く方法は?」
「西北西へ向かって。山岳地帯に入った瞬間を狙うの」
機体は街の灯りを離れ、荒涼とした丘陵地帯へと進入した。眼下に広がる森は濃紺の海のように脈打っている。
「今よ!」彩乃の叫びと共に—蒼は急降下させた。
ヘリは木々の梢を擦りながら下降する。枝が窓を打ち砕き、風圧が蒼の肺を押し潰す。しかし衝突の寸前でエンジンを停止させ、落下エネルギーを利用して谷底へ滑り込んだ。木々が緩衝材となり、奇跡的に機体は転覆せず着地した。
「無事!?」
「なんとか……」蒼は操縦席から這い出た。「でも長くは持たないだろう」
谷間の静寂にエンジン音が遠ざかっていくのが聞こえる。追手は見失ったようだ。
「ここで待機。交番からの救援隊を呼ぶわ」
蒼は息を整えながら周囲を見回した。霧が立ち込める森の中、小さな小屋のような建造物がある。月明かりに照らされたそれは古びた観測所だった。
「あそこに隠れよう」蒼が提案する。
「賢明ね。でも注意して。ムネモシュネは衛星監視も使っている」
彩乃の言葉を胸に秘めつつ観測所のドアを開く。埃っぽい空気が鼻腔を刺激する。幸い人の気配はない。
「水晶玉を確認するわ」
「了解」
二人は室内の中央に水晶を置いた。青い粒子が渦巻きながら拡大していく。
「データドライブは?」
「交番に届いているはずです」
「よかった……」
突然水晶の表面が歪み、画面が割れたように亀裂が走った。
> 《アクセス拒否》
> 《安全プロトコル発動》
> 《保護措置実行中》
文字が浮かび上がる。彩乃は眉を寄せた。
「代理さんが介入しているわ」
「どういうこと?」
「私たちの安全確保のためよ。彼は独自の判断でシステムを一時ロックしたみたい」
その瞬間—轟音と共に窓ガラスが粉々に砕けた。自動小銃の銃声が森を震わせる。
「伏せて!」
彩乃が蒼を床に引き倒す。弾丸が石壁を穿ち、木片が飛び散る。
「彼ら……ムネモシュネの精鋭部隊だ」
「逃げ道を探す!」
「待って!」彩乃は壁際に立ち上がった。「この場所……知っているわ。かつて記憶研究所があった場所よ」
観測所の地下室へ降りていく狭い螺旋階段を駆け下りる。彩乃は懐中電灯の光を頼りに壁面のスイッチを操作した。
「ここに古いシェルターがある。記憶干渉実験の初期段階で使用された安全地帯よ」
扉が開くと同時に、足音が階段を叩く。追手の靴音が徐々に近づいてくる。
「あと五秒!」彩乃はレバー式の遮断機を引く。「閉じ込められるけど、ムネモシュネの攻撃から逃れるには……」
ドアが閉まり切る瞬間、蒼の背後で銃声が轟いた。弾丸が外壁を削る音が耳を劈く。
「ぎりぎり……間に合ったか」
埃が舞う狭い空間。蛍光灯の青白い光だけが光源だ。蒼は深呼吸を繰り返した。
「彩乃さん。本当にここは安全なのか?」
「理論上はね」彼女は額の汗を拭った。「記憶干渉領域から完全に独立した……」
突然シェルターの隔壁が軋んだ。彩乃の説明を遮るように赤外線スキャナーの光が壁を舐める。
「やっぱり……」彩乃は唇を噛んだ。「外部から強制アクセスできる仕組みが組み込まれていた」
隔壁の一部が溶解し、黒い装甲服を纏った男が侵入してくる。額に埋め込まれた光学ユニットが異様な輝きを放っている。
「彩乃博士。抵抗は無意味だ」
「リチャード……あなたまで来たの?」
「旧知の仲とはいえ情けはかけない」
リチャードと呼ばれた男は拳銃を蒼に向けて構えた。
「貴様が高城蒼だな。交番の力を借りて我々の計画を妨害した愚か者め」
蒼は後退りながらも毅然と言葉を返す。
「あなたの言う計画とは他人の記憶を奪うことか?」
「違う。解放だ」リチャードは嘲笑した。「記憶という牢獄から人類を救うのが我らの使命」
銃口が蒼の眉間を捉える。指先がトリガーにかかる音が耳に焼きつく。その時—
水晶玉が眩い閃光を放った。
「何!?」
リチャードの身体が硬直する。装甲服の内側で警告音が鳴り響く。
「これが交番の……?」
「ただの交番じゃない」彩乃が言い放つ。「ここは『記憶の交叉点』よ。世界中の忘れ物が集まる聖域—」
水晶玉から伸びた青い光の筋がリチャードを取り囲む。男の装甲服から蒸気が噴出し、ヘルメットが剥がれ落ちた。その下の顔は—蒼と同年代の青年だった。
「君は……!」蒼は息を呑んだ。「悠斗に似ている!」
リチャードの瞳が濁った。まるで記憶の奔流に耐えかねるような表情で呻き声を上げる。
「私は……違う……私は記憶の執行者で……でも……母の顔を覚えている……父の声も……」
青年の膝が崩れ落ちる。拳銃が床に転がった。
「どうしてこんなことに?」
「ムネモシュネの洗脳技術よ」彩乃は囁いた。「記憶を操作し、人格を書き換える……」
青年の顔に涙が伝う。蒼は彼に近づき、肩に手を置いた。
「君の名前は?」
「……川崎……啓介」
「啓介君。俺たちと一緒に来てほしい」
水晶玉の輝きが一層強まる。床一面に古代文字のような記号が浮かび上がり、シェルター全体が振動し始めた。
「記憶修復が始まったわ」彩乃は蒼の腕を引っ張る。「ここはもう保たない。脱出するよ」
瓦礫を掻い潜りながらシェルターの出口を目指す。背後で爆発音が轟き、床が大きく陥没した。
「リチャード……いや啓介君!逃げるんだ!」
「いけない!僕は……」
青年が腕を掴まれ立ち上がる。三人は崩落する通路を必死に駆け抜けた。




