061
そこはクロユリとスズランが普段執務室としている、ナゾノハ百貨店の最上階の一室である。
サンゴが部屋に這入ると、それまで凄まじい速度で書類を書き上げていたクロユリはその手を止め、それらを纏めて耳を揃える。そしてそれまで座っていた椅子から立ち上がると、サンゴにソファに座るよう促し、クロユリはその反対側に腰を下ろした。
「すみませんね。色々と手配させてしまって」
ソファに座るなり、サンゴは開口一番にそう言った。
「別にいいわ。主様も関わっていることだったんだし、別に大したことじゃなかったから。けど……随分手厚く気に掛けるのね?」
クロユリはサンゴを見て、揶揄うように小さく笑う。サンゴは不服だったのか、表情を崩さず、首を傾げた。
「おかしいですか?」
「おかしいというより……そういう感情を持ち合わせていると思ってなかったのよ。自分の計画を実行する為なら、誰がどう巻き込まれようと興味なんか示さないとばかり思っていたから」
サンゴは溜息を吐いた。
「私をなんだと思っているのです? ある程度の犠牲を許容してるだけで、何も人の心まで捨て去ったわけではありませんよ。そもそも、あの女生徒は本来巻き込むはずじゃなかったんです。それを私の怠慢で巻き込んでしまったのですから、その分の埋め合わせくらいは考えますよ」
「その結果が慰安旅行ね……まぁ、私が次に展開するビジネスとも被っていたし、ちょうどいいと言えばそうなんでしょうけど」
「はい」
「で、本音は?」
クロユリが口角を上げ、尋ねた。
「……正直、彼女は知り過ぎた部分があります。あの駒共と私の関係が露呈しないとも限りませんし、例の存在についても……ただ先の通り、排除するわけにもいきませんから、こういう手を取らせてもらったというだけです」
「遠ざけるにはこれが一番だったと。穏当な手段でどうにかしようと思えば……ま、そうなるか……」
「えぇ、しばらくはゆったりしていてもらうことにします──それにしても、何か、いいことでもあったのですか? 表情が度々緩みかけていますが」
「……。まぁ、そうかもね」言って、クロユリは手で口角を抑えた。「主様が来られたのだけど、その時に一つ、約束を取り付けたのよ」
「約束……ですか?」
「デートの約束を。まぁ、スズランも一緒だから、そう呼んでいいのかは分からないけど」
「なるほど。ですが……それは」
「サクラ様は既に知ってるわ。経緯も含めて」
「そうですか。ならよいのですが」サンゴは心底安堵したような表情を見せた。「……あぁ、それで、例の存在についてはどうなってますか?」
問われて、クロユリは困ったような表情を浮かべた。
「どう……と言われると、難航している……としか言いようがないわね。ヒスイが解析を試みているようだけど」
「そうですか」
「でも私はあまり詳しいことは知らないから、その辺が知りたければ一度屋敷に戻るのがいいんじゃない?」
言外に「そろそろ戻っておけ」と言う意図が含まれていることを察すると、サンゴは来て早々、ソファから腰を上げた。
「……そうするとしますか。すみませんね、時間を取らせてしまって。この礼はまたいつかさせて頂きますので。……ではまた」
部屋を出る前、後ろから「サクラ様によろしくね」という声が聞こえた。
△▼△▼△▼△
「久しぶりにこっちに戻ってきたわね?」
屋敷に帰還し、廊下を歩いていたサンゴが初めに出くわしたのはサクラだった。彼女は長い髪を後ろで纏め、色々なものが乱雑に詰め込まれた木箱を抱えていた。どこかにそれを運ぶ最中だったのだろう。
「お久しぶりです。お持ちしましょうか?」
「大丈夫よ。大した重さもないし」
サクラはそう言うと、その木箱を片手だけで持って見せた。しかしサンゴはその箱の中身を軽く見て、それが決して軽々持てるような物ではないことを推し量る──常人離れし、近頃は超人離れすらし始めたサクラからすれば、どんな荷物も大した重さではないのだろうが。とは言え、サンゴも特に食い下がるようなことではないと判断すると、素直に引き下がり、サクラの横に付いて歩き始めた。
「そうですか。……何をしているので?」
「ヒスイの手伝いよ。アレの分析を進めさせてるんだけど、上手くいかないみたいで」
「なるほど。クロユリから聞いた通りでしたか」
例の存在──つまりは先日リュカが学園の地下で撃破した、少女の姿を模した謎の存在である。それはシャクヤクに回収された後、この屋敷に運び込まれた。屋敷に運び込まれた後はサクラ含めた何人かがそれを観察したものの、最終的にはヒスイの下でその存在の分析が行われることになったのだった。しかし聞いていた通り難航していると分かり、サンゴ自身、少しだけ意外に気分にさせられた。ヒスイがこの手の行為で手古摺るというのが想像出来なかったのである。そしてそう感じた瞬間、先程クロユリに意外そうな反応をされた時のクロユリの感情を、少し理解出来たような気がした。
「まぁね。今は特に動き出す様子も見せないから、その隙に分解しようとしているみたいなんだけど……意識を失ってなお再生能力は健在みたい。ただ、身体の中心に核となる何かが存在しているらしいところまでは分かったと言ってたわ」
サクラは苦々しい顔をした。
「身体の中心に……そうですか。それで結局、アレは何なのです? それすら分からないような状態ですか?」
「……それが、ヒスイ曰く──」
尋ねると、サクラは立ち止まり。
「──これは以前見た『疑似災害』に極めて近い組成をしている……って」
「それは……」
「オリジナルである可能性が高い……ということよ。リュカが気にしていたというのにも納得ね」
サクラは再び歩き出し、少しだけ得意げな顔をした。
「そんな……そんなものが学園の地下に……? 理解出来ません。気でも狂っているとしか……」
「……私は逆だと思っているわ。学園の地下にアレがいたのではなく、アレがいた場所の上に学園が建てられた……と」
「同じことでは……ありませんね。しかしだとすると、『教会』側はそのことを知っていた……? あの場所を──いや、だとすると色々とおかしい……」
サンゴは俯き、ブツブツと呟きながら考えこむ。
「えぇ。あの男はあくまであの地下通路を転移の魔道具を使用するための場所として利用していただけでしょうね──万が一教頭室に誰かが這入ってきてもいいように。その転移先にあった施設については私達が壊滅させているから間違いないわ。ま、裏の仕事で身に着けた極度の慎重さがそうさせたのでしょうけど」
「なら奴らは、あの場所に『教会』がこれまで求めていた『災害』が存在していたのにも関わらず、それに気が付かないまま『疑似災害』の研究を続けていたと? そんな間抜けな話がありますか?」
「厳密にはイカンテ派が、ね。でも確かに、どういう経緯であの場所が存在していたのかは知らないけど、そういうことになるわね」
「……何なのでしょうか、この感情は」
サンゴは気の抜けた声で尋ねた。彼にしては割合珍しいテンションだと、サクラは苦笑した。
「自分が敵だと認識している存在には、強く賢くあって欲しいという願望じゃない?」
「……なるほど。その通りかもしれません」
そうして歩いているうちに、ヒスイが分析を続ける部屋の前にまでやってきていた。サクラはノックをすることもなくドアを開け放つと、中に這入っていく。一応他人の部屋に這入る時はノックをするようリュカから言い付けられているはずではあるのだが、ノックなどしたところで無視されるだけなのだから、ヒスイに対してはこれが正解なのだろう。ヒスイがサクラに対して同じことをすれば殺されても文句は言えないのだろうが。
「持ってきたわよ……って、あれ?」
サンゴもサクラの後に続いて部屋に這入る。すると部屋の中で、一人不機嫌そうに座り込むヒスイがいた。そこに他の者の姿はない。
そう──例の存在の姿さえ。
「……はぁぁぁぁぁ」
ヒスイは盛大に溜息を吐くと、しばらく間を開けてから言った。
「……逃げられた」
「「……は?」」
△▼△▼△▼△
例の存在──改め、『暫定災害』に逃げられたとのことではあったが、しかし捜索自体は三分もかからずに終了した。
経緯としては、ヒスイが分解を進める中、それは突如謎の音と光と共に目を覚まし、驚いたヒスイを他所に部屋の中に散らかっていた試作中の品々を手当たり次第に拾い上げては振り回し始めたため、慌てたヒスイがそれらを取り上げ、そして部屋から『暫定災害』を叩き出し、部屋から閉め出されたそれがサクラ達と入れ違になる形で屋敷内を闊歩し、最終的にアジサイの私室に辿り着いた──とのことらしかった。
なので現在、ヒスイ含めた三名はアジサイの、書斎としか形容しようのない部屋へとやってきている。
「あのすみません、ヒスイ。あなたのその説明だと、あなたが自らの意思でアレを部屋の外に追い出したというフェーズが存在することになるのですが」
事情聴取を終え、サンゴは何かの間違いではないのかと、ヒスイに尋ねた。
「……あぁ」
「あぁ、じゃありませんよ。何が「逃げられた」ですか。あなたが逃がしたの間違いでしょう」
「……まぁ、否定は……出来ない」
「何ちょっと不貞腐れてるんですか。あのですね、アレがどういう存在なのか分かった上での判断ですか?」
「……だが、目覚めたアレに、話に聞いていたような脅威は感じられなかった」
ヒスイは不服そうに、『暫定災害』に視線を向ける。
「それは……」サンゴも同じく、一瞬だけそちらに目を遣った。「……まぁ、そうかもしれませんがね」
「……それに、目覚めた時点で暴れ出すような存在なら……真っ先に死んでいたのはアジサイじゃない。そしてその場合……結果は同じことだ。……アジサイの死は許容しないのに、そちらは許容すると?」
「…………いや、論点をずらさないでください。確かに目が覚めた時点でアレが何処に行こうがあなたに責任はないのかもしれません。それはいいでしょう。ですがあなたが自主的に逃がしておいて、その上で「逃げられた」などと虚偽の報告をしたことは事実ですよね?」
「…………」
ヒスイは溜息を吐き、それから小さく舌打ちをした。
そうして言い争う二人の間に、サクラが割り込む。
「ヒスイ。研究費を減らされたい? それとも痛めつけられたい? 好きな方選んでいいわよ」
「……………………悪かった」
「最初からそう言いなさい」サクラは呆れたように首を振ると、二人の言い争いには微塵も興味を示さなかったアジサイに声を掛ける。「それで、アジサイ。今がどういう状態なのか、教えてもらってもいいかしら?」
「どういう……というと、見ての通り、本を読ませているところです」
と、床に広げた本を読む『暫定災害』に目を向け、サクラに向き直る。『暫定災害』はかなりのスピードで本を読み進めて言っているようで、話しているうちに二冊目に突入していた。
「それは分かるのだけれど……それ、あなたが書いた本よね?」
「はい」
「……それを、読ませているの?」
「はい」
「何で?」
「興味を示したようなので。それにこの子、知性自体は持ち合わせているものの、大した知識を持ち合わせていないようにも思えましたし、まずはその辺の教育から施していくべきかなと」
「……ねぇ、その言い方……あなたそれに対して親しみを覚えてたりしない?」
「……否定は出来ません」
先程のヒスイの口調を真似て、アジサイは言った。
「…………」サクラは絶句し、顔を引き攣らせた。それから頭を抱えると、サンゴに目配せして、それからアジサイを説得する方向に向かった。「あのねアジサイ。確かに見た目は人間の女の子に見えないことも──」
しかし、そこまで言って言葉に詰まった。
「──というか、ヒスイ。私の記憶違いならいいんだけど、アレ、見た目変わってない?」
「……あぁ。そういえば、変わってたな。目が覚めた時に……何か……光って」
それも言えよという目線が二つほどヒスイに突き刺さったが、目が覚めたこと自体に比べれば大した情報でもないのだし、そう責めることも出来ないと判断すると、サクラは「まぁいいわ」と言って、『暫定災害』に視線を戻した。それは濃い紫の髪に七色の虹彩を持つ、童顔の少女。元々が灰色の髪に灰色の瞳だったので、そこからはかなりの変化を遂げていると言える。
「…………。でも……さっきとも違うような……」
ヒスイが呟くのを無視し、サクラは『暫定災害』に近付いていくと、一心不乱に本を読み続けるそれを観察する。そして一つの可能性に思い至ると、アジサイに声を掛け、質問をした。
「ねぇ、さっきの一冊目でも、この二冊目でもいいんだけど、こんな感じの髪色だとか目の色をしている人物は出て来る?」
「……はい?」
と、その意図を掴みかねたアジサイだったが、取り敢えず本の内容を思い返していくと、「あぁ!」と言って手を打った。
「確かに、髪と目、それぞれ別々のキャラクターですが、同じ特徴を持つキャラクターは存在します」サクラにそう言って、アジサイは『暫定災害』の顔を覗き込む。「……まさか?」
「ただでさえわけの分からない存在だから、まぁ、あり得るのよね」
「シャクヤクが化粧で姿を変えてるのと同じ感じでしょうか」
「流石にそれと同一視するのはどうかと思うけど……魔力で肉体を再生するのと同じ要領で、肉体を変化させていると言ったところかしら?」
サクラが推測を語り、サンゴとヒスイの方を見る。サンゴは記憶を辿り、リュカから聞いていた話を思い出していく。ヒスイは現状断定的に出せる情報もなかったため、黙ったままサンゴの反応を待った。
「……そういえば。これは主との戦闘中、その両手を様々な武器に変化させていたそうです。だとすれば、それくらいは可能なのかもしれません」
サンゴが言うと、サクラは改めてヒスイに目を向ける。
「……可能だろうな。調べないと分からないが……」
ヒスイがそう言いながら『暫定災害』に近付きつつ、何処からか刃物やら鋸やらを取り出すと、そんな彼の前にアジサイが立ちはだかった。身長差は圧倒的で、とても同い年には思えない。
「……まぁ、そうだろうな」
「ダメです! この子は私が育てるんですから。そんな危ないものを近付けないでください!」
「……その辺に落ちてる本よりは……安全だろう」
ヒスイは手に持ったそれらを仕舞うと、床に散乱するいくつかの本に目を向けながら言った。それらはほぼ全て出版済みのアジサイの著作もしくは、これから出版する予定の物である。
「ど、どういう意味ですか! 健全なものしか読ませませんよ!」
「…………」
「…………」
「…………そういうわけだ。どのみち、これ以上調べても大したことは分かりそうにないから……元の仕事に戻らせてもらう……」
サクラにそう言い残すと、ヒスイはアジサイの部屋を後にし、自室へと帰っていった。サンゴはどうしたものかと悩み、こっそりと部屋を出ようとして、サクラに捕まった。
「この二人の相手を私にしろと? まさかそんなこと言わないわよね?」
「申し訳ありませんが私はこういったことには詳しくありませんし、それに王都での計画の失敗の総括と改善点の洗い出しという大事な作業がありますから」
「詳しいも何もないでしょこの状況。それに仕事があるのは私も同じだし。だからといってアジサイと二人にするわけにもいかないし……」
と、サクラが考えこみ始めたその時。
「──────言語を適応。発話機能の調整──完了」
「──っ!」
サクラが息を飲み、サンゴが警戒態勢を取る。
「喋った……!」
「アジサイ! それから離れなさい!」
吞気に『暫定災害』を観察するアジサイに、サクラが怒鳴った。
すると。
「──それじゃありません! アイリスはアイリスです!」
と、『暫定災害』は己をアイリスと名乗りながら、腕を振り上げ立ち上がった。
その虹彩は輝きを放ち、まさに天真爛漫な少女然としている。口調も先までの淡々とした無機質なものから、感情の乗ったそれへと変化していた。
さながら人間のように。
「ア……アイリス……?」
サクラが戸惑いを隠せず口にすると、「はい。アイリスはアイリスです。あなたは誰ですか? あなたもアイリスですか?」と、『暫定災害』改め自称アイリスは首をグリンと回しながら尋ね返した。
「違う……けど……。んん、私はサクラ」
「サクラ……」アイリスはゆっくりと目を閉じる。「該当──無し。登録──完了。アイリスはサクラを記憶しました!」一瞬無機質な声が聞こえたが、それにサクラ達が反応を見せるより前に、アイリスが口を開く。「……記録には残らずとも、誰かの記憶には残る──それがいい女の条件よ」
「……は?」
「あ、サクラ様。それは多分一冊目に出てくるヒロインのセリフです。少し違った様な気がしますが」
「あぁ、そう……ならもしかして、アイリスという名前も?」
「え? あぁ、はい。そうです。主様は花の名前だと仰ってました」
「…………」
サクラは短く唸ると、後ろで考え事をしていたサンゴに近寄り、小声で話し始める。視界の端では、アイリスがアジサイからの自己紹介を受けているところだった。
「どう思う?」
「……どう、ですか。……これは私の推論……と言いますか、まぁ、経緯から考えられる可能性の話でしかありませんが……彼女、アイリスでしたか、主様との戦闘の影響で、これまでの記憶……と言っていいのかわかりませんが、それらを失った──人間でいう所の記憶喪失に近い状態にあるのではないか、と」
「……ふむ」
「主様曰く、アレは突然姿を現し、突然襲って来たのだそうです。だとすればそれがヒスイの部屋で目を覚まし、そのまま大人しくしている時点で確かに異常……何かしら問題が発生したとしか考えられません。まぁ、問題自体は現在進行形で起こり続けているとも言えるわけですが」
「まぁ……そうね」
「そして目を覚ました彼女は屋敷内を散策し、ここへ到着、アジサイの書いた本を読み、その知識を吸収……結果としてこうなった──と考えると、正直受け入れ難くはありますが、まぁ納得出来ないこともない……かと」
「受け入れ難いというよりは、それで納得してしまっていいのかという想いの方が強いのだけれど」
サクラが言うと、サンゴは小さく数回頷いた。そして、アジサイに紙とペンを押し付けられているアイリスの方に視線を向けて、口を開いた。
「しかし、問題はどちらかと言うとそこではないかと」
現状サンゴが問題だと認識しているのは、まず第一にアイリスを名乗るあの存在をどう扱うのかという点。そして次に、そのアイリスに親しみか愛着のような物を抱いてしまっているアジサイをどうするのかという点。
とは言え、前者はどうしようもない部分がある。リュカが破壊ではなく意識の簒奪という手を選んでいる時点で、サンゴ達にはこの存在を亡き者にすることが出来ないのだ──リュカが取ったのと同じ手法で意識を奪うことさえ、可能かどうかはやや怪しい。なので今のところ、彼らはこの存在が暴れ出さないことを祈るしかない。ただ、この屋敷に置いておくのか、どこか絶海の孤島にでも連れだして放置するのかというような手は取れないでもないため、そのあたりの処遇の判断はサクラに任せられている状態である──尤も、『災害』なのではないかという疑惑が存在する者を監視の届かない場所に捨てに行くなどと言う正気を捨て去ったような判断を、サクラが下すとは考えられないが。
しかし、どんな判断を下すにせよ、それを話し合おうと思えば、次の問題に直面する──問題とは言っても、アジサイからの抵抗を受けることになるだろうという程度の事でしかないのだが、それも問題と言えば問題ではある。右に左に首を動かし、あらゆるものに興味を示すアイリスは、その外見も手伝って、傍から見れば、事情を何も知らなければ、ただの子供にしか見えないのだ。そんな彼女に物を教えるアジサイから無理にアイリスを奪おうものなら、それが例え皆の事を考えた現実的な判断だったとしても、多かれ少なかれ倫理的な問題が生じるのである。こんな状況下で倫理観など気にしても仕方がないとはサンゴ自身思うのだが、しかしそれが両者の対立の原因にでもなろうものなら目も当てられない。この忙しいタイミングで新たな問題を生み出して楽しむ趣味を、サンゴは持ち合わせていなかった。
「暴れたりする気配もない現状で、アレをアジサイから引き剝がすのも危険なのよね……」
「ん……おや。それはまた、どうしてですか?」
危険という判断を下すとは思っていなかったサンゴは、少し驚きを見せた。
「あなたとリュカの話を纏めるに、アレは学園の地下に侵入した……『赫き烈火の集い』だっけ? その連中のことを突然わけもなく攻撃し始めたのよね」
「そう聞いています」
「で、そこに割り込んだリュカがアレを攻撃した途端……正当防衛だと言ってリュカを標的にし始めた……のよね?」
「はい」
「つまり、アレは何かしらの条件の下で相手を攻撃するんじゃないか……って、そう思うのよ」
「条件……ですか」
「そう。もしアレがあの学園の地下にある空間……言うなれば自身の領域を守っていたのだとしたら、そこに侵入するという行為そのものが攻撃の対象になる条件だったと考えることが出来る。そしてその、本人としては正当な行為であるはずの報復行動に割り込まれて攻撃を受けたという状況もまた、その条件になり得る。……だとすれば今こうしている最中にも、その要件を満たす行いが存在している可能性がある」
「……あれらの本や、あるいはアジサイから引き剝がすという行為がトリガーになりかねない……と?」
「そういうこと。だから現状、私達は様子見をする以外に出来ることが無い。無いというか、迂闊に動くことを嫌えば、そうならざるを得ない」
「……だとすればヒスイの行動は相当危うかったということになるのでは?」
「かもしれないわね。口ぶりからしてさっさと追い出したみたいだったから、それが功を奏しただけかもしれないけど」
彼女──アイリスには敵対する条件という物が存在していて、それを満たしてしまうとあの時のように暴れ出すというのが、断定こそ出来ないにしろ、取り敢えずの見解と相成った。しかしもしそうなのだとすれば、その条件さえ満たさなければ当面は危険もないということになる──などと楽観視したりもしないが、つまりそういうことではあるのだった。
「……それで、本当に何してるの? アジサイは」
話が一通り済まされると、サクラはアイリスにペンを持たせていたアジサイに声を掛けた。
そのアジサイの隣で、アイリスは凄まじい速度でペンを動かしている。ペンを滑らせているのが原稿用紙の上なので、書かれているのは文字──それも、恐らくは小説ということになるのだろう。
この短時間で何があったのか。
「見ての通りです! この子凄いんですよ! 途轍もない速度で私の作品を吸収していくんです!」
「私は何をしているのか──いえ、何をさせているのかを訊いたのだけれど」
「だから見ての通りですよ。小説を──いえ、世界を創造させているんです」
アジサイは得意げな表情でそう言うと、ふんすと鼻を鳴らした。
すると、それまでペンを走らせ続けていたアイリスがその手を止め、サクラ達の方に顔を向けた。そしてアジサイ同様得意げな表情をすると、こくりと頷いてから言った。
「はい。アイリスは世界を創り、そして壊します」
そういうことです──と言いかけたアジサイだったが、アイリスの発言を脳内で処理すると、「…………え、こ、壊すんですか?」と、顔を横に向けて問いかけた。
「はい。そこで物語は終わるのに、世界だけが残り続けるだなんておかしいです」
「おかしい……ですか」
「アジサイはそう思わないのですか? 世界を残すのなら、物語も続けられるべきです。そうでないなら、物語が終わった後の世界はどうなってしまうのですか?」
「え、えぇ……? ま、まぁ、そこは……ほら、読者のご想像にお任せ……みたいな感じですよ。それに、確かにそういう終わりがあってもいいとは思いますけど、毎回そうやって終わらすわけにもいきませんし……」
「……? よく分かりません。よく分からないのでアイリスは世界を滅ぼします」
そう言って再び原稿用紙に向き合い始めたアイリスを目の前に、サンゴは顔を引き攣らせたまま、サクラに声を掛ける。
「あの、サクラ様。大分物騒な事口走っているようですが……これは本当に大丈夫なんでしょうかね」
「あくまで創作の話みたいだし、大丈夫だとは思いたいけど……様子見を決め込んで早々不安にさせて来るものね」
サンゴは苦笑いを浮かべた。
そして取り敢えず問題もなさそうだと判断すると、しばらくの間、アイリスの事はアジサイに一任することとし、サクラとサンゴはそれぞれの仕事に戻ることにした──何かあればすぐ駆け付けられるよう、サクラはそのいつまでになるかも分からないしばらくの間をこの屋敷で過ごさなければならなくなってしまったが。
アジサイの狭苦しい書斎を出ると、二人はどっと疲れたように肩を落とした。
「そう言えば……サザンカとアザミはどうしたのですか? 姿が見えませんが」
「あぁ、あの二人? 今は待機中ね」
「今は、というと……」
「少し先に、貴族達の集まるパーティーがあるのよ。そこに潜入させるつもり。集まる貴族自体はまぁ大したこともないんだけど……きな臭い話もあるみたいなのよ。もしかしたら『教会』が関わっているかもしれないから、その調査が目的ね」
「そうでしたか」
「心配?」
「かもしれませんね。とは言え、昔とは違うので、あまり心配し過ぎるとサザンカには鬱陶しがられますが」
サクラは小さく笑った。
病弱だった状態から恢復したばかりのサザンカを、ただの兄としてひたすら構っては世話し続けていたサンゴの姿も、今では鳴りを潜めている──すっかり懐かしい昔話になってしまっていた。とは言え、サンゴがサザンカの兄を辞めたわけでもなければ、彼女のことを心配するのをやめたというわけでもない。なのでサンゴはこうして、時折その頃の名残とも言うべき一面を覗かせるのであった。
「ですが、今こうしてサザンカを心配出来るのも、偏に主のお陰。必ずや……」
世界を滅ぼし、そして再構築する──そんな使命を、再確認したのだった。




