003 おままごと
さて、魔法の本だ。
隠した場所が場所だったので、これまた回収し直すのにしばらく時間がかかったのだが、またしてもエレインが虚空を見つめ始めたタイミングで、それを改めて回収することに成功した。
ただ個人的に、エレインのこの癖のようなものはどうにかするべきなのではないかと思えて仕方がない。子供の頃には突然虚空を見つめ始めるタイミングがあったりするのだが、しかしそれは生後数か月ごろの子供の話であって、少なくとも四歳を迎えている姉に起こる現象ではないはずなのだ。
勿論それ以外にも同じようなことになることはあり、何かを考え始めて集中するとそうなってしまう人というのは存在するのだが、もしそうでない場合の事を考えるのなら、早めにどうにかするべきだろう。これがただのフェレルゲン・シュターデン現象のようなものであるなら放置でいいのだが、放置するしかないのだが、白内障や緑内障、網膜剝離の可能性だって考えられるとくれば、そうも言っていられないはずなのだ。
だが、もし仮にそうだったとして、この地の医療技術のレベルというのは一体どの程度なのだろうか──というようなことを考えた時、凡そ絶望的な答えに辿り着いてしまった。いや、もしかしたら魔法で同じようなことが出来たりするのではないかと、何とか都合よく思考を転換させてみたりもしたのだが、あまり効果はなかった。
考えても仕方がない。そういう世界なのだ。
と、少し話が逸れたが、今集中すべきは魔法についてだ。もし病気を治す魔法が存在するのなら、それを自分が頑張って習得するでもいいだろう。存在しないとしても、病気とその治療に関する知識は多少あるのだから、現存する魔法を使うことで似たようなことが出来るようになるかもしれないではないか。
そうと決まれば、と、本を開く──この手では本の表紙を開くことさえ満足にできないというのか。
本のタイトルがあり、もう一ページ捲る。目次を指でなぞり、結局一ページ目から順に読んでいこうと、更に捲った。紙の質はそれなりに良いらしい。
まず、この本を読む者へと送られた著者からの言葉があった。半分くらいは読んでいたのだが、途中からこちらとしては心底どうでもいい自分の経歴を長々語り始めるだけの文章になってしまっていたので、そんなことに貴重な日中の時間を使ってはいられないと、読み終えてからその気になったら読むことにして飛ばした。
著者は読者に言葉を送り、読者はその言葉を先へ送るというわけだ。受け取り手はいないかもしれない。
ただ、本文の方はきちんとしていて、これは最初の自己顕示欲に満ち溢れた文章を見て勝手に不安がっていただけなのだが、魔法の指南書としては魔法を知らないものにでも理解できるように記されていたので、確かに子供が読むには難しいものでもあるのかもしれないが、普通に読んでいく分には苦もなかった。
初めの方に書かれていたのは、魔法そのものではなく、それを使う者の心得だった。これを前書きとして読者に送るべきなのではと首を傾げたが、しかし読んでいて、非常に納得のいくものではあった。『争いの為ではなく、暮らしを豊かにする為にこれを役立てるべきである』という文言は、特に。
そして、心得もほどほどに読んでいく。時折文字が分からなくなってしまうことがあるのだが、その辺は前後の文脈でなんとなく読み進めていった。
まず、魔法には数種類あるらしい──とは言っても、これは火の魔法だとか水の魔法だとか、そういう種類の話ではなく、力の源という意味での種類の話である。一つが、『一般魔法』と呼ばれるもので、それとは別に『精霊魔法』と『術式魔法』というものがあった。
『一般魔法』と言うのは、一般の文字が示す通り、魔法を習得し使用するほとんどの者がこの魔法を使うからそう名付けられているというだけらしく、原理としては要するに、体内にある魔力を用いて発現させるもの総てを指すらしい。
魔力を操作し、何かしらの現象を起こしたり効果を齎したりすれば、それがどんなものであれ、一般魔法に区分されるのだとか。
『精霊魔法』と言うのは、これが人間に発現する者は非常に少ないらしいのだが、精霊を介して発動させる魔法の事を指すのだとか。精霊とは何ぞやと思ったが、通常の人間には視覚や知覚することの出来ない高次の存在だそうで、曰く光の玉だとか、曰く小さな少女だとか、曰く女神のような何かだとか、姿形に関しては定かでないという。
そんな『精霊魔法』の使い手は、この精霊に助力を得ることで魔法を扱うことができるようになるらしい──が、協力してくれるかどうかは本人の素質によるところが大きいらしいので、そもそも発現する者が少ないということも手伝って、これを扱いこなせる人間はほぼいない様なものらしい。
そして、『術式魔法』というのは、魔法を使うことの出来ない者にも使うことのできる魔法なのだそうだ。無論、そうでなければ術式などという言葉が付くこともないのだろうが。
どんな者も多かれ少なかれ魔力を保持しているらしいが、当然その中にはこれを扱うことの出来ない者が一定数いるらしく、今の自分なんかがその状態でもあるのだろうが、そうでなくとも、そもそも魔法を習得しようとしてこなかった人間も当然いるわけで、そんな者にでも魔法を使えるようにしようということで生み出されたのがこの『術式魔法』らしい。
これは主に魔法陣と呼ばれる紋様や魔道具と呼ばれる代物を介した魔法で、しかし厳密には魔法の再現であって魔法ではないそうで、更に言えば一般魔法のように強力な魔法を使用したりすることは出来ないそうなのだが、魔法を使えない者だけでなく、魔法を使える者もまた、これらを日々生活に役立てているのだとか。
魔道具、か。家電製品の前身と言ったところだろうか。洗濯機やドライヤーはないのだろうか。
そして、この本で取り扱うのは主に一般魔法についてとなる。
そこまで読んで、改めて考える。
恐らく今体内にある何かは、やはりこれが魔力と呼ばれるものなのだろう。だからこれを扱いこなせるようになれば、この『一般魔法』を扱うことが出来るようになるはずだ。少なくとも、魔力を知覚出来ている時点で『一般魔法』の素養はあるらしい。『精霊魔法』は、まず精霊というものが見えていないため、多分素養はないのだろう。『術式魔法』に関しては、今のところはどうでもいい。
だが、そこまで分かればやる気も出るというもので、意気揚々とページを捲っていく。
すると、魔力の制御方法──求めていたものが出て来た。
全く、コレが分からない所為でとんでもない時間のロスをさせられたものだ。
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そうして開始された魔法の勉強は、基本的に一人の時にのみ行われていったのだが、これが魔法の勉強になると同時に文字や言葉の勉強にもなるということで、随分と捗った。これまでやり方の分からなかった魔力の制御も、本には結構事細かにその方法やコツが記されていて、これは恐らくだが、ここで躓いて習得を諦めてしまう人が多かったりするのかもしれないと、そんな事を思った──というか、書かれ方的にそうなのだなと分かった。
所々著者の素が出ているというか、多分悪い人ではないのだろうな。「頑張って!」とか、「ここまで来られたらあと少し!」とか、「皆ここで躓くけどあなたは違う!」とか、そんなような励ましの言葉が散見されたのだ。うっとおしいったらないが、しかし詰まる度に参考になる改善法が貰えたという点で、感謝はしている。
そんなわけで、魔力の制御は大分マスターすることが出来た。
本を読み始めてからここまでで実に数カ月ほどが経過しているが、本の中に『これを疎かにすると思わぬ事故に繋がるので、しっかりと魔力制御は極めること』とあったので、それについては自分の学習スピードの問題ではないということは、明らかにしておくべきだろう。
念には念を、万全を期してから次に進みたいと思ったためである。命にかかわるとなれば、流石に憶病にもなる──なんて、生前死ぬことに抗うことさえしなかった人間の考えだとは思えないのだが。
だが、それしかやってこなかったここ数カ月の間にも、結構な変化が起きている。魔力の制御を行うと、つまりは魔力を身体中に巡らせると、それだけで強くなったような気がすると言うか、事実、一歳児とは思えないような力が出せるようになっているのだ。
勿論そうして魔力を巡らせていると、その内魔力が無くなって力尽きてしまうのだが、そうやって消耗と回復を日々繰り返してきたお陰か、持続時間自体は初めの頃よりも長くなっている。なので恐らく魔力というものも、体力や筋力などと根本的なところは同じなのだろう。使えば減り、回復する際に増えていく。
ということで、魔力の制御にも十分慣れ、魔力量も増えた今──これならいよいよ次のステップに行ってもいい頃だろうと、そう判断し、本の続きを読んでいくことにしたというわけだった。
これまでは魔力の制御を完璧にする前に余計な知識を付け、その所為でうっかり事故など起こそうものなら目も当てられないと、ページを捲る事さえしていなかったのである。
正直、無尽蔵に沸き上がり続ける、『ページを捲りたい』という欲求を抑えることの方が、魔力を制御するよりもずっと大変だったかもしれない。
いつだって、人の心は御せないものなのだ。
しかし、心など元より御せるものではなく、御せたところで大した意味はない。そんなものを制御しようと躍起になるくらいなら、人は魔力に集中すべきなのだろう。
そうして魔法の勉強は本格的になり、感覚的にもこれでようやく魔法の勉強をしているのだという感じがしてきたのだが、ページをめくり、読み進めていき、想像していた魔法とその実態との間に、無視できない問題があることが分かったのだ。
それは、魔法にはこれと言って定まったものが無い──ということである。
というのも、魔法陣によって再現される術式魔法などと違い、魔力を自力でこねくり回して発動させる関係上、言葉での説明はまず不可能なのだ。
魔法陣であれば、それは魔法理論に基づいて構成されたものなので説明をするのは容易だ──どういう風に魔法陣を描けばいいのかを理解出来ればいいのだから。
だが一般魔法は違う。勿論何一つとして説明することができない訳でもないが、そこから先は己の感覚次第となってしまうので、本書でも発動方法に関しては割と丸投げ気味なのだ。しかしそれでは書物としての体裁を保てないということで、代わりに、どのような魔法がこれまで開発されてきたのか、そしてそれはどのようにして発動させられるのかといったコツなどがあれこれ記されていた。
これでは魔法の指南書と言うより、魔法大全と言った方が適切なような気がするのだが、しかし魔力制御さえできてしまえばあとはどうとでもなるというようなことも書いてあったのだし、コツさえつかんでしまえば実際は想像よりも簡単なのかもしれない。
ただ。
問題点も理解したが、同時に、少し気にかかることもあった。
それは、定まったものが無いという部分──この解釈についてである。
これは教えるにあたって定まった形のものが無いと読み取ることができるし、実際この本の著者もそのつもりでそう書いているというのは分かる。しかしこれは、定まっていないからこそ魔法は自由に扱うことができる──と、そう読み取る事もまた可能なのだ。事実、『一般魔法』の定義において、『体内の魔力を用い発現させたものはこれを『一般魔法』と呼称する』と記されてもいたのだし、その言葉がただただその通りであるとするならば、この予想は決して的外れというわけでもないはずだ。
そうなると、試してみたいことは多くある。勿論活動範囲が自室でしかない現状では出来ることもそう多くないのだが、まずは簡単で、そして危険の少ないものから順に使えるようにしていって、そしていつかは、『あんなこといいな、出来たらいいな』を実現して見せるとしよう。
段々と目標が逸れて行っているような気がしないでもないが、やりたいと思ってやっていることなのだから、それもまた構わないだろう。初めに立てた計画など、それがその通りに実行される方が稀なのだから。
何にせよ、まずは水の確保か。
例えやってみたいことが実現できなかったとしても、これだけは確実に習得しなくては。
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そうして魔法の本格的な勉強を始めたわけだが、当然ながら普段の生活もある──普段の生活などと言っても、所詮は同じことの繰り返しでしかないのだが、何なら最近はほとんど文字と言葉の勉強しかしていない訳なのだが、そんな生活が自分にはある。
まず、起きるのは大体九時頃だ──時計はないので正確な時間は陽の高さからの推測でしかないのだが、少し前までは昼まで寝ていたのだから、割と早起きするようになったと思う。
ただ、昔はそれこそ陽も見えぬうちから起床し、万が一のためにとセットしたアラームを止めるところから朝が始まっていたのだから、それを思うとかなり怠惰で自堕落な生活を送っているように思えてならないのだが──子供の生活など所詮はこんなものだろうと己を肯定し、目を開く。
そして己の肉体が空腹を訴えていることを知ると、大声を出し、誰でもいいのだが、とにかく起きたことを伝えるのだ。
そして食事を摂ると、色々を済ませ、しばらく暇になる。
エレインはエレインでもう四歳なので、日によっては勉強をしていたりもする。そういう事情もあり、遊びに来るのはそれが終わってからか、あるいはそれが無い日のみだ。なのでそんな時は寝るふりをして部屋へと戻り、そこで魔法の本を読んだり文字の勉強をしたりして、眠くなったらまた寝る。
因みに、ここ半年で揺り籠は卒業した。何かに掴まっていることが条件だが、立てるようになったのだ。今はそれもなくなり、多少不安定ながら歩くことは普通にできるようになってきている。
ただ、初めは魔力を体に巡らせれば存外すぐに歩けるようになるのではと思っていたのだが、そこまで上手くもいかず、結果としてそれなりに時間がかかってしまった。
想像以上に頭が重いのだ。その上、魔力で身体を強化してもそれを支えることができなかった──違うな、多分頭にも魔力を通してしまっていたのだ。魔力制御に慣れていない内はそれに気が付くこともできず、気が付いても直し方が分からず。結局普通の子供が捕まり立ちをするのと同じころにそれが解消されたのだから、一体何をしていたというのか。
それはそれとして。
また起きると食事をし、湯浴みをし、寝て──一日が終わり、また朝になり、起床するのである。
これまで夜泣きをしたことはない。真夜中にふと目が覚めることはあったのだが、「よし泣こう」とはならず、良い意味でも悪い意味でも手のかからない子供として成長している。
しかし、時間ばかりが有り余っているのが幼子の生活だとばかり考えていたのだが、幼子は幼子で寝たりするのに忙しいのだなと、改めて体験して気が付かされた。随分と貴重な体験である。
と、以上のような生活を基本的には繰り返しているのだが、言った通り、不定期に差し込まれるイベントとして、エレインの育児体験がある。
育児体験と言うのは勝手に自分がそう呼んでいるだけで、本人が果たしてどんなつもりでいるのかはよく分からないのだが、それは基本的にエレインの生活や、その中で見たもの、あるいは経験したものがそのまま反映されることが多い。
昔は母親の真似をして授乳のようなことをしていたりしたし、離乳食を食べさせ始めたのを見てはそれに移行したりしていて、実生活と連動している。そして子供特有の無限ループで、気に入ったことを毎日延々と続けてくるのだ。
これは自分にも何となく覚えがあり、昔は気に入った遊びをひたすらに繰り返していた記憶があるので、それを否定したりはしないのだが、付き合わされる側としてはやはりたまらない。何が楽しく、どのあたりに面白味があるのかがさっぱり分からない状況で開始されるため、場合によっては苦痛と化すのだ。
そして、そんなエレインが最近何をしているのかと言えば。
勉強である。
自分もこと勉強には励んでいるのだが、何なら学力で負けるつもりはないのだが、そんな勉強──否、授業というものが、彼女の中で何かしらの光を見せたらしい。ここ最近のおままごとは専らそれなのだ。
エレインが先生をし、自分が生徒の役をする。
普段は母親が色々なことを教え、エレインがそれを学ぶというスタイルでやっているのだが、エレインも先生という役をやってみたいのだろう。その気持ちはなんとなく分かる。理解できる。
しかし、エレインの授業は基本的に何を言っているのか、何をしたいのかが理解できない。
うろ覚えの授業内容をそのまま自分に披露するため、全体的に何の話なのかが掴めず、しかしエレイン的にはそれで完璧な授業をこなせているという自認があるために、どうしようもないほどすれ違うのだ。
そして極めつけに、その不完全どころか不完全にすらなれていないような授業を踏まえた上で、自分がそれをきちんと理解しているのかのテストをしてくるのである。
理解出来るわけないだろう。
というか、自分が自分じゃなかったとしても、エレインの授業が完璧だったとしても、一歳児に四歳児向けの授業が理解出来るはずないだろう。
だが、それでこそ子供かと、これが子供という生き物の純粋さ故の恐ろしさかと、得も言えぬ恐怖に襲われたのだった。
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リビングでのこと。
「今日はね……これ!」
子供用の小さな椅子に着く自分に対し、エレインがそう言って差し出してきたのは、一枚の紙だった。どうやらすでに色々と書き込まれているようで、見てみればそれは、いくつかの計算問題の様であった。字が読み取れたことからも、これがエレインの作ったものでないことは容易に理解できる。恐らくは母親が授業内で使用したものをもう一枚貰い受けるなりなんなりして、それをこうしておままごとで使うことを考えたのだろう。
ここまで来るといよいよ一歳児に何を求めているのかと小一時間問い詰めてやりたいという思いが無いわけではないのだが、しかしこうしてまともな教材があるだけ、普段よりはマシと言えるだろう。普段はエレインが何を言いたいのかを読み取るところから始めなくてはならないのだから、それを思えばずっと楽ができる。
ただ、これだけ渡してどうするのだろうと、首を傾げる。
「これを解くのよ!」
「…………」
全力で表情を動かし、「何を言っているのか」と、顔で伝えた。
「……解けないの?」
解けるわけないだろう──いや、解けるけども。
見る限り簡単な足し算の問題しかないようで、前世での記憶のある人間が躓くような問題は一問もないのだが、少なくとも今の自分が──否、一歳と半年ほどの子供が解けるような問題ではない。それも何の説明も受けていない状態でなど、あり得るはずもない。それは流石にエレインにだって分かるはずだろう。
解けないことを伝えるため、コクコクと、コクコクコクコクと、小刻みに頷いた。
「仕方ないわね……」
エレインはやれやれと、肩を竦めて見せた。
何が仕方ないのだろう。
確かに仕方なくはあるのだけれども、それはこちらの意図するところの「仕方ない」とは違っているようであった。
「なら教えてあげる!」
エレインは一転、嬉しそうに、自信満々に、胸を張ってそう言ったのだった。
「…………」
言ってから──言ってはいないのだが、そこで思い出した。授業自体はエレインがするのだということを。
まともな教材があることでなんとなくこれを基準に考えていたのだが、授業を開始すれば当然、そこから始まるのは理解困難なエレインのうろ覚えの記憶を辿る作業なのだ。そしてそれは向こうが満足するまで延々と続く。例え内容を理解できたとしても、向こうが自分の脳内にあるやりたいことリストを消化できていなければ、それは終わることが無い。だから授業の度、エレインが何を伝えたいのかということ、それからその中でエレインが本当にしたいことは何か、それを正しく読み取ることが求められるのだ。
ただのお遊びだというのに、似つかわしくない冷や汗が背中を通り抜けて行く。
そうして、おままごとは幕を開ける。
講義は開始される。
「えっと……これ分かる?」
エレインが指を一本立て、そう問う。
目をぱちぱちと開閉させ、どう答えるべきかと考える。
手や指と答えるべきか、それとも一と答えるべきか。
答えに困り、結局エレインが出してきたその手を、指を、握り返すだけにしておいた。
「えへへ……、じゃ、じゃなくて……! これは一っていうの!」
時に、子供が数の概念を理解し始めるのは何歳頃からだと思うか、知っているだろうか。どうにも大人になってしまうと、自分がいつからそのあたりを理解していたのかを忘れてしまうものだが、子供がそれを理解し始めるのは三歳ごろからで、六歳ごろまでにはきちんと理解できていないといけないのだが、自分は今一歳だ。厳密にはもう少しで二歳になるのだが、どちらにせよ、それを理解し始める年齢には届いていない。
しかし、そんなことを知る由もないエレインは、こちらがそれを理解できていることを前提として話を進める。
「それで、えっと……これも一だから……」
こちらに説明することを忘れ、独り言のようになり始めた。母親から教えられたことを何とか思い出そうとしているのだろう。
「足して……、……?」
そんな風に、こんな風に、エレインは取り留めのない解説と、自分が受けた授業の内容を思い出す作業を繰り返し、授業を進めていく。
そしてそんなことの繰り返しは、二時間ほど続けられた。
「これで終わりだから……。うん! これで出来るわよね!」
と、改めて、始めに渡した紙を指差す。そして、疲労困憊の自分の手に、先の丸まったペンが渡される。
やっとだ。本当ならこれで解けるようになるはずもないのだが、エレインからすればこれで出来るようになるという認識なのだから、出来てしまったところで問題はない。ペンを握り直し、一問目から解いていく。手が小さいので、普通に握るよりもグーにした方がずっと書きやすい。なのでどうしても字の形が綺麗になってくれないのだが、あまり綺麗な字が書けてもおかしな話なのだからと、少し意図的に崩しながら、書き進めていった。
「出来た?」
その問いに、頷いて返す。そして紙を差し出し、エレインがそれを受け取る。
「……うん、うん……?」
「……?」
「えっと……、これは今度返すわね!」
あぁ、なるほど。やらせたところまではよかったが、その場で採点することができなかったのか。母親が採点をその場ですぐにやっていたのを見ていたのか、ここで自分が採点に時間をかけるのはカッコ悪いとでも考えたのかもしれない。子は親の姿を見て育つとは言うが、本当にそうなのだな。
そしてエレインはそれを回収すると、パチンと手を叩いた。
「今日はここまでにするわ。行ってもいいわよ」
エレインはそう言うと、自分を一人部屋に残し、どこかへと歩き去っていったのだった。
自分が出て行ってどうするんだ。
△▼△▼△▼△
部屋を後にしたエレインは、母、オリヴィアから貰っていたプリントを片手に、彼女のいるであろう部屋を目指して歩いていく。そしてその部屋の前まで来ると、ドアを三度叩き──返事よりも先にドアを開けた。
「這入って……って、エレイン。返事があるまで這入ってはダメと言ったでしょう?」
遅れて返事をしようとしたオリヴィアは振り返り、既にドアが開かれていることを見て、ため息交じりにそう言った。
「あ……ごめんなさい」
「気を付けなさい。……それで? どうしたの?」
と、注意すべきことを注意し終えたオリヴィアは、優しく問いかける。
「えっと、これ! お母さん丸付けて!」
「丸?」
オリヴィアはそれまでの作業の手を止め、エレインに近付くと、差し出されていた紙を受け取った。それには見覚えがあり、「あぁ」と、声を漏らす。それはエレインが授業後、珍しく今日の問題が欲しいと言うので渡したものであった。
そして、その問題が全て埋められているのを見て感心しかけて──覚えた違和を口にする。
「ねぇ、これ、本当にエレインがやったの?」
明らかに字が違うのだ。エレインが書く字は何度も見ているので、それを間違えることはない。
「んーん!」
すると、エレインは首を横に振り、オリヴィアはそこで少し混乱した。
てっきり、家政婦やその他使用人の誰かにやらせたものを自分の手柄として持ってきたのではと、いつもと違う字を見て判断したのだが、それをあっさり否定されたことで、ならこれは何なのかという疑問だけが残ったのだ。
「リュカがやったの!」
「え……リュカが?」
「そう! 私が教えてあげて、それでやったの!」
「だから問題が欲しいなんて言い出したのね……。珍しく復習でもしてるのかと思ったのに……」
そう言われて、呆れつつ、改めて紙を見直す。
だがそれは驚くことに──目を通す限り、全問正解であったのだ。
もし、エレインの今の発言に何一つとして噓や誇張がないのであれば。
「…………」
「お母さん?」
「え? あぁ、そうね。採点しなきゃダメよね……、いや、エレイン?」
するまでもないのだろうが、採点をしようとペン立てに手を伸ばそうとして、オリヴィアはエレインに振り返る。
「何?」
「これ、エレインがしてあげればよかったんじゃないのかしら?」
「えっと……」
「もしかして、出来ないのかしら?」
既に教えているエレインなら採点だって不可能ではないのだし、もしそれが出来ないのであれば、エレインは果たしてどのようにリュカに対して計算を教えていたのかという話になる。
「で、出来るわよ! でも、丸を付けるのはお母さんしかダメだから……」
「はぁ……。それはエレインがズルをしようとしたから言っただけでしょう?」
「うぅ……」
「まぁいいわ。出来るのよね?」
「う、うん!」
怪しい。怪しいが、しかし時間さえかけさせれば出来ないこともないのだろうから、別に構わないだろうと、オリヴィアはペンを取り、満点をつけた。
「……はい、全問正解よ」
「え? 本当!?」
「そうよ、凄いじゃない。エレインがちゃんと教えてあげたからね」
そう言って、そう噓を吐いて、オリヴィアはエレインの頭を撫でた。
エレインがどんな授業をしたのかを、オリヴィアは知らない。だからエレインに対して何を言うこともしない。
だが、たとえどんなに懇切丁寧に教えたところで、これをリュカが全問正解するなど不可能だろう。特に後半の問題に至っては、エレインでさえミスなく解き切るのは難しいと断言できる。しかしリュカは、それを迷いなく回答している。無論、書き直したような跡はない。
考えられる可能性としては。
「あの子……さては天才だったりするのかしら」
エレインが喜ばし気に部屋を後にするのを見ながら、オリヴィアは呟いた。




