002 本が欲しい
目が覚めてから実に一年が経過した。
この家での生活には概ね慣れてきたと言える。個人的には、半年を過ぎてから離乳食になったのが大きい。アレはアレでドロドロとしていてあまり美味しいとも思えないのだが、授乳よりはいい。ずっといい。
言語の方はかなり順調で、家で飛び交う言葉は大体聞き取れるようにまで成長を遂げることができた。そして、喃語を卒業し、ある程度発話をすることも可能になってきた。まだ呂律がうまく回らないところはあるが、それでも意思疎通は十分できるようになったのだ。
これは言うまでもなく──いや、敢えて言う。言えるようになったので言う。
大きな進歩だと。
言葉が発せるようになったことで何かを要求することがより簡単になったし、それによって手を伸ばせる範囲が広がったというのも大きい。
なので最近は文字の勉強を行っていて、これがリスニングの勉強よりも順調なのだが、それについては文字自体に救われたと言うべきだろう──平仮名片仮名漢字アルファベットアンドモアの入り混じる日本語のような難易度ではなかった。
この地で主に使用されているのは『レグナム』と呼ばれる文字で、これが様々な理論に基づいて作成された文字なこともあり、非常に覚えやすいのだ。
前世でも似たように作成された文字にハングルがあったが、アレも形とパターンさえ覚えてしまえば文字自体はすぐに覚えることができた。アレは識字率の向上などを目指して作成されたものだったと記憶しているが、恐らくはこの文字もそうなのだろう。一般階級でも習得が容易な文字を普及させることで、人々の生活や経済を活発化させる──そんな目的に応じて生み出された文字。
その証拠に、それ以外にも存在する別の文字は非常に難解なものであった。とは言っても別段外国語というわけでもなく、発音自体は一緒らしいが──流石に同じ発音の文字をいくつも習得しようとは思えない。暇になればそれもいいかもしれないが、とかくやることが多い今の段階では、この『レグナム』を完璧に仕上げることだけを考えるべきだ。
それ以外にも、未だかつて目にしたことの無かったものが果たしてどういうものなのかという知識の探求も行ってきた。しかし言ってしまえば前世にあったモノが別の形で存在していたというだけの話で、特別なものではなかったのだった──環境が違えば独自の進化をするのは当たり前で、それだけの話。初めこそワクワクしながらあれこれ見てはこれは何かと尋ねたりもしていたのだが、そのことに気が付いてからは前世の何との互換品なのかを記憶するだけの作業と化していた。
ただ、これについては奥が深いと、今尚断言できる。
それは魔法だ。
魔法の鍛錬も粛々と続けてきている。未だにそれを使うことは出来ないのだが。
しかし、半年ほど前に知覚した、体内にある『何か』を掴むことは出来るようになったので、後は時間の問題だと考えている。それが何なのかは掴めて尚よく分からない。ただ、この気というかエネルギーというか、あるいは魔力というか、それを扱いこなせるようになれば、魔法の習得も夢ではないのだろう。
それで何ができるのかは使えるようにならなければ分からないが、まず水を出せるのは大きい。この家ではそうだという話でしかないのかもしれないが、基本的に飲み水は魔法によって生成されたものなのだ。つまり、水を出す魔法さえ使えれば、綺麗な飲み水に困ることはない。食事に使う水だって、風呂に入る際に使う水だって、常に清浄なものが使用できるということになる。これがどれほど大きいか。
前世でも、海外へ渡航したりなどすると、現地での飲食には常に最新の注意を払わなくてはならなかったのだ。それは勿論浄化された水ばかりを飲んで育ったが故の耐性の無さが原因でもあったのだろうが、それにしたって酷いところは徹底的に酷かったのだ──シャワーの水すら濁っているとなると、いっそ入らない方が綺麗でいられるのではと思わされたほどには。
だからこそ、その憂いが無いというのは大きい。どんな生活をするにしろ、水は必須なのだから。
そして食事だが、これは火を扱えるようになればどうにかなる。大抵のものは火を通せば食べられるようになるのだ。朝に卵かけご飯を掻き込んでといった様な事は出来なくなりそうだが、それくらいは我慢しよう。食べなくたって死にはしないのだし──いや、食べればひょっとすると死んでしまうのかもしれないのだから、猶更我慢するべきだ。
そんなわけで、これからの事を考えても魔法の習得は必ず出来るようにならなくてはならないのだが、そのための独学と鍛錬にも限界がある。もう自分が何をしていて何をしていないのか、それが分からなくなるくらいには日々いろんなことを試してきた。なのでこれ以上、何をしていいのかがよく分からなくなってきたのだ。迷走している、と言ってもいい。
先ほどは時間の問題と言ったものの、流石にそれをただ座して──否、寝転んだ状態で待つつもりはなく、しかし何をどうすればいいのかが手詰まりになってしまったということで、行動を起こそうかと考え始めた。
行動。
それは、家の中を探索し、魔法に関する本を探す。これしかないだろう。
今現在は自室らしき部屋で一人、揺り籠へと放り込まれているのだが、勿論誰かしらが世話をしに来てはくれるのだが、この揺り籠から外に出ることができるタイミングというのがいくつかある。そのタイミングのどこかで、そして監視の目の無いタイミングで、書斎でも何でもいいのだが、本が置いてある部屋に突撃したい。
だが、監視の目の無いタイミング──これはまずない。揺り籠から降ろすということになった時点で、誰かが側にいることが条件となっている。なので、その監視が緩むタイミングを窺わなくてはならない。となると、側にいるべき人間は絞られてくる。
それは姉だ。
御年四歳の我が姉エレインは、時折家政婦に自分を揺り籠から下ろすよう頼み、同じ部屋で世話のようなことをし始めることがままあるのだ。姉としての自覚が芽生えたが故か、それとも遊び相手が欲しいだけなのかは定かでないが、そのタイミングになると、監視の目が姉一人になる。勿論初めの頃は姉ともう一人誰かが側にいたのだが、しばらく同じことを続けていくうちに信用されるようになったのか、大人が側にいることが無くなったのだ。
そのタイミングでなら、部屋を抜けだす隙も窺えよう。
しかし、それにはいくつかの問題がある。
まず第一に、姉がこれまで積み上げてきた大人からの信頼を壊してしまうのではないかという点だ。こちらとしては計画的犯行だが、大人たちからすれば姉の監督不行き届きにしか見えない。危ないことをするわけでもないが、部屋から抜け出せてしまったという時点で、そのあたりが心配になる。勿論エレインも四歳の子供なので、その子供に大人たちがどれほどのことを期待しているのかにもよるのだが、少なくとも姉が一人で世話をするという今の環境は、見直されることになるだろう。
そしてそうなると、それに付随した次なる問題が浮上する。
大人が再び側に着くようになってしまうのではないか、あるいは、そもそも姉が世話をすることが禁止されてしまうのではないかということだ。どちらにしても同じことなのだが、前者の場合はしばらく隙を伺えなくなるし、後者の場合に至っては姉が再び信用を積み上げ直すことすら出来なくなってしまう。何にせよ、書斎を目指す機会がかなり遠くなってしまうのだ。
それを回避する手段としては、二つある。
まずは、一発で成功させること。部屋を抜け出し、廊下を進み、書斎を探り当て、あるかどうかも分からない魔法の本を入手し、部屋へと帰還する。この工程を少なくとも姉以外の人間に気が付かせなければ、何一つとして問題はない。
次に、言ってしまうことだ。誰でもいいのだろうが、本のある部屋に連れて行くように要求し、そこで魔法の本を取ってもらい、それを読ませてもらうこと。これも場合によっては上手くいくのかもしれないし、誰にも被害が無いという点で、積極的に選ぶべき手段なのかもしれない。
だが、親目線としてどうだろう──生まれて一年の子供が魔法に興味を持ち、それを習得するための書物を求めている、というのは。
この地での魔法というものの扱いをそれほどよく知らないために何とも言えないのだが、場合によっては危険ともいえる代物であろうことは想像に難くない。もしかしたら早くから勉強に目覚めた我が子という立場を得られるかもしれないが、モノがモノ故に希望的観測だろう。
そしてそこで止められてしまうと、今後どういう目を向けられるのかが分からない。親からすれば道理や分別もつかない子供が他者を攻撃する手段を求めているようにだって見えるのだから、マークされたって文句は言えない。
ふむ。やはり気が付かれないように事を済ませるしかないのか。
だがどちらにせよ、本を持っていること自体はどのみちバレるだろう。上手く隠し通したとて、やはり限界はある。それにそもそも、書斎まで行けたところで、本が自分よりも高い位置にあればそこで詰みだ。だとすればやはり大人を頼るべきか。
何も止められる事だって確定したわけではないし、止められた後どうなるのだろうという話もあくまで予想でしかない。話してみれば意外と教えてくれたりもするかもしれない。
どちらにするべきか。
取り敢えず、機を待つことにしたのだった。
△▼△▼△▼△
「こっちはダメ! そっち行って」
いつものように世話をし始めたエレインは、自分の進行方向に立ちふさがっては通せんぼをし、所定の位置に着くよう頑張っている。ただそれはどちらかと言うと、部屋から出さない為ではなく、おままごとの最中だからである。
おままごとなどそれこそ自分が幼稚園児だったころにさえやったことがあったかどうかという程度なのだが、恐らく育児をする母親の姿を見て影響を受けているのだろう、エレインが母親役をし、自分が赤子の役──というか赤子そのものなのだが──それを演じるという、ほぼエレインの一人遊びと言って過言ではない、そんなおままごとが行われていたのだ。
「はい、ご飯よ」
そう言って、エレインは木製のそこそこ大き目なスプーンを近づけてくる。当然そこには何もないのであくまでもフリなのだが、口を動かしてそれを食べる。それをしないとこれは終わらない。食べるまで延々とスプーンを近付け続けてくるのだ。それも真顔でというのが、心底恐ろしかった。
「おいしい?」
何も入っていない口をもぞもぞと動かしていると、そう尋ねてくる。コクコクと頷き、それに答える。
しかし、なかなか隙を見せない。遊びに夢中になっているので、育児ごっこに集中しているようなので、それも致し方ないのかもしれないが、今は部屋の近くに家政婦や母親の気配がしないのだ。なので出来ることなら今のうちに事を済ませたいのだが、その隙を見つけることは難しそうであった。
しかし、しばらくして。
時は満ちた。
「ほら──あ……」
と、エレインが突然口を半開きにしたまま固まり、虚空を見つめ始めたのだ。
何を見ているのかは分からない。大気中に舞っている埃でも見ているのかもしれないし、これはあまり考えたくもないが、家に住む幽霊でも見ているのかもしれない。しかしそんなことについて考えを巡らせることはなく、半年を過ぎたあたりで習得した這い這いで即座にその場を離脱すると、開きかかっていたドアを何とか押し開け、部屋を抜け出すことに成功した。
外に出ると、首を左右に振り、どちらに何があるのかを改めて把握する。これまでも部屋から出たことは何度かあるので、行った事のある場所は分かる。右に行けば階段があり、そこから降りるとリビングやダイニング、それから風呂やトイレ、家政婦達の部屋などがある。厨房なども恐らく同じ階にあるのだろうが、まだ行ったことはない。
しかし流石にこの身体で階段を降りるというのは危険極まりないので、左へと進んでいくことに。
ここから先は即座の判断がものを言う。慎重かつ迅速に、目的の部屋まで一直線で突き進んでいかなくては。
自分の部屋を出て左に行くと、自室の隣には姉の部屋がある。
因みに、兄の部屋は現存していない。元々兄の部屋であった場所を自分が使用しているという状態なのだ。
久しぶりに帰ってきたら部屋ごと消えていて、更には知らない弟まで誕生していることを知らされることになるであろう兄の事を思うと、涙もちょちょぎれるというものだ。
姉の部屋の前を通り抜け、さらに奥の部屋。そこは両親の寝室となっているのだが、そこに用はなく、目を向けたのはその向かい側の部屋。まだ入ったことのない部屋なので、目的の部屋である可能性は高い。ドアは運よく閉まっていなかったので、これを押し開けた。
そういえばそこまで考えていなかったというだけの話なのだが、これで完全にドアが閉じられていた場合、それを開けることすら出来ずに詰んでいたのか。
そう思うと幸運だが。
しかし、その部屋は空き部屋であった──いや、空き部屋というより、なんだかよく分からないものが雑多に放り込まれただけの部屋であった。
もしかしたらこの部屋のどこかにそういった指南書の一つや二つ置いてある可能性もないではなかったが、何かの拍子に荷物が崩れたりでもすればそこでお終いである。なので、ドアの隙間から外の様子を窺うと、そそくさと部屋を後にすることにした──何度だって言うが、今回の行動において、自分が危険な目に遭うことは、自分としてもそうなのだが、エレインの為にも避けなくてはならないのだ。
そうなると、この階には調べられそうな部屋が残り二つしかなく、もしこの階に無ければ、いよいよ手詰まりであるのだが──その時。
足音がした。
それは子供のモノではなく、更に言えばそれは、自分の進行方向から聞こえるものであった。
即座に廊下の壁沿いに置いてあった植木鉢の陰に身を潜め、息を殺す。この植木鉢に植えられているのはそこそこ大きめの植物なのだが、自分の顔の二倍程ある葉が枝垂れるようにして伸びているので、頑張れば姿を隠すくらいは可能なのだ。
そして、隙間から外の様子を窺う。まだ姿は見えないが、この足音は母親のモノではない。しかし女性ものもであることは確かなので、家政婦のうちの誰かなのだろう。
我が家には家政婦が三人、住み込みで働いている。
この家──というよりは屋敷の大きさ的に、果たして三人で足りているのだろうかと思わないではないのだが、どうやら料理人などは別で存在しているようだったし、特に新しく雇い入れる様子が無いことからも、足りていようがいまいが家政婦は三人で回していくつもりなのだろう。
そんな三人だが、基本的に全員若い。
個人的かつ身勝手な家政婦のイメージとして、初老の出来る女性というのがあったのだが、そういう人はやはり給金が高いのかもしれない。なので年長でも三十未満なのだが、一番若い家政婦は二十歳すら迎えておらず、それ故か時々ヘマをして、他の二人に怒られていたりするのだ。自分としては若いのだからあまり厳しくしなくてもと思うのだが、流石に家政婦が雇い主の家の廊下をスキップしている姿を見せられると、擁護も出来なかった。
急いでいて小走りになるくらいならいざ知らず、アレはない。
そして、今聞こえてくる足音はスキップをしているような感じではなかったが、しかしその歩調に若干の乱れがある。
今言った最年少、セシリアのものか。彼女はヘマこそすれど素直な性格でもあるので、注意さえすれば基本的にはその通りに動くのだが、これは意識してちゃんと歩こうとしているのだろう、どこか歩き方がぎこちなくなっている。
そんな姿を見れば、また先輩辺りにしゃんとしろと叱られるのだろうが。
それはそれとして、今はセシリアが通り過ぎるのをじっと待つ。
「全く、エマ先輩は階段の昇り降りの多い仕事ばっかり押し付けて……。いつか私が先輩になったら二人をこき使ってやるんです」
静かな廊下に、恨み言のような独り言が聞こえた。
後輩と先輩という立場が逆転すること自体は無いと思うのだが。
しかし前世でも、年上の人間が部下として配属されるというようなことは普通にあったし、教育係の先輩を差し置いて出世してしまった後輩だっている──自分の事なのだが。
なのでセシリアも頑張れば三人の内の頂点に立てる日が来るかもしれないと思ったのだが、基本的に部長だの何だのという役職の無い家政婦は、先輩後輩という立場が全てなので、悲しいかな、今後立場が逆転することはないのだろう。
もしセシリアが先輩という立場に落ち着くことがあれば、それは二人が抜けて後輩が入って来た時だと思うので、やはり今の言葉が実現される日は来ない。それに、後輩が入って来ても、その後輩にいいようにこき使われている姿というのがなんとなく想像できてしまった。
「その為にも、仕事をさっさと片付けてやります!」
そう言って、我慢できなかったのだろう、セシリアはスキップしながら通り過ぎて行き、別の部屋へと這入っていった。
やはりダメそうだ。
だが、今がチャンス。観葉植物の影から抜け出すと、奥の方へと高速這い這いで突き進んでいく。そして、二つの部屋の前へと到着。
ドアは二つとも少しだけ開いていた。
なるほど、先の空き部屋を開けた時も何故ドアが完全に閉まっていないのだろうかと思わなかったわけではないのだが、セシリアがきちんとドアを閉めていなかった所為か。彼女の仕事ぶりは相も変わらず抜けているが、今回ばかりはいい仕事をしていると言える。
そのうちの片方のドアに手を掛け、押す。
すると、あった──本棚の並んだ部屋が。
思わず歓喜に打ち震えたが、今はそれどころではないと気を取り直し、本棚を見ていく。とは言っても、手の届かない場所にある本など確認したところで意味はないため、あくまでも下の方にある本だけである。取れないブドウは酸っぱい、ではないが、取れない本は役に立たない。
背表紙にタイトルが書かれているので、多少なら文字の読める今であれば目的の本を探すことは十分可能だろう。
そう思って探し始めた。
書斎はかなり本の数が多く、それこそ個人的に読んでみたいと思える本は多数あったのだが、この家では本のジャンル分けなどをしたりはしないのだろうか。どうにも専門書や小説、図鑑などが一緒くたにされている上、名前順に並べられているわけでもないため、探すのには苦労させられる。ある程度そういった整理整頓が出来ていれば探しやすくもあったのだろうが、本屋ではないのだから仕方あるまいか。
だが、探し始めてから数分。それらしい本をやっと見つけることが出来た──まさにその時だった。
「リュカ? リュカ!?」
と、やや遠くからエレインの声が。
「どうしましたか?」
続けて、セシリアの声が。
ドアの隙間からその様子を見てみると、セシリアが一度抱えていた荷物を床に置き、エレインのいる部屋に近付いていくのが分かった。エレインはドアを開け、セシリアを見上げる。そして、「リュカがいなくなってたの!」と、事情を説明する。
「リュカ様が?」
「そうなの! 見てない?」
「ええと、私はここまで見ていませんが……」
と、そこまで言ってから何かに気が付いたように目を丸くして、
「まさか階段から……っ!?」
と、慌てて階段の方──つまりは書斎から正反対の方向に顔を向けた。エレインもその言葉の意味するところが理解できたのだろう、部屋を飛び出し、セシリアの「危ないですよ!」という声を聞くこともなく駆けて行った。
マズい気がする。セシリアが自分の姿を見ていないというのは当然の話で、見つかっていたら今頃部屋に戻されていたのだろうから仕方もないのだが、そこから一直線に転落事故を起こしたのではと解釈されたことで、このままでは大事にされかねない。
しかし、それを責めることは出来ない。元より自分の所為な上、エレインから話を聞いたのが他の二人だったとて、同じように悪い想像をしたのではという線は、決して否めないのだから。
だがどうするか──などと考えたところで、もう時既に遅し。こうなったらいっそ堂々と本でも読んでいるか、もしくは今から急いで部屋に戻って、カーテンの裏にでも隠れているか。雑かもしれないが、これが一番丸く収まりそうな気がする。エレインとセシリアが早とちりをして少し騒いでしまっただけ、ということにして終わらせるのが。
勿論二人とも注意はされるかもしれないが、何もなかったのだからそれ以上のこともないだろう。
本の中身を少し確認し、恐らくこれがあれば大丈夫だろうということを確認すると、その本を床に置いた。本はそれなりの重さがあり、抱えていくのは不可能だと判断したのだ。なので押して運ぶしかないのだろうが、果たして間に合うのだろうか。
△▼△▼△▼△
結果として、間に合った。
部屋に戻り、本を一度見つからない場所へと隠すと、そのままカーテンの裏側へと回り込み、少しだけ姿を見せることで見つかりやすくし、人が来るのを待った。その間は窓から外の様子をただボーっと眺めていたのだが、しばらくして、一階を捜索し終えたのであろう面々が二階へと上がってくると、そこでようやく発見されたのだった。
「よかった……こんなところに隠れてたんですね」
と、自分を持ち上げたのは家政婦の一人、ネルだった。家政婦内の序列は二位。とは言っても、セシリアと歳はそう変わらないのだが、セシリアの数倍はしっかりしている。なので序列一位のエマも、基本的に大事な仕事はネルにしか任せない。先程セシリアがぼやいていた、階段の昇り降りの多い仕事というのは、つまりそういう仕事ということである。
ネルは自分を揺り籠の中に丁重に下ろすと、ふぅと一息、安堵したような表情を見せ、それから部屋を出、見つけたことを大きな声で報告した。
するとぞろぞろと数人がやってきて、ネルに対し、どこにいたのかと尋ねた。
「カーテンの裏側にいましたよ。セシリア、いち早く危険を察知したのは決して悪くはありませんが、まず最初に探すべき場所があったのでは?」
ネルが淡々とした口調で答え、そのままセシリアへの説教を開始した。
「すみません……」
と、セシリアは頬を赤らめ、頭を下げた。
「大体あなたは──」
ただ、色々と思う所があったのか、ネルは畳みかけようとして、
「まぁまぁ、いいじゃない。ただの勘違いで済んだのでしょう?」
そこに割って入った母親の声で黙った。
「ですが奥様……」
「言いたいことは分かるけど、そもそもエレインが騒ぎ始めたのがきっかけでしょう? ならセシリアを責めるのは違うわ」
そう言って、母親はエレインの方を見た。エレインも何か言われていたのだろう、俯いていた。
そして、
「流石に早かったかしらね。もうしばらくは誰かが見ててあげないとダメかしら……。でも、そうすると動ける人数が減るものね」
と、母親は考え込むような素振りを見せる。
確かに、エレインが一人で世話をすることを認めた背景には、毎回誰かが付いていなければならない事による仕事の滞りがあったのだ。勿論、初めから自分を揺り籠の外に出さなければそんな問題は起こらないのだが、流石に一日中揺り籠の中に閉じ込めているのはその方がよっぽど問題だと考えたのだろう。仕事が遅れることを承知で、エレインと自分を遊ばせるようになった。
だが、エレインが面倒を見、一人でそれをこなせるようになれば、家政婦たちの仕事はきちんと回る。だからこそ、ある程度その回数を重ねた段階で、母親はエレインに尋ねたのだ。一人でも面倒を見れるのかどうか。それに対し、自信満々に、出来ると答えていた。それもあり、なら任せてみようという話になったのだ。
そんな中でそれが見直されるとなると、こちらとしては少々不都合だった。
なので考えた末、手を伸ばした──未だはっきりとしない発音で、エレインと、その名を呼びながら。
「……!」
エレインがそれに気が付き、近寄ってきた。そして揺り籠の中に手を伸ばし、握りしめた。
母親はそれを見、小さく笑った。
「……もう少しだけ、様子を見てみましょうか」
おおらかな人だ。おおらか過ぎるような気もするが、しかしこれでヒステリーでも起こされ、セシリアが折檻されたりエレインがキツく叱られるようなことになってはどうしようもなかったので、そういう性格で良かったと思おう。
と、何もかも自分の所為なのだが、これにて一先ずこの件は落ち着いたと言っていいだろう。無事に魔法に関する書物を手に入れることは出来たし、少ししたらまた隙を見てそれを回収し、揺り籠の中にでも隠し直せばいい。時間だけはあるのだから、ゆっくりと進めていこう。
握られた己の小さな手を見ながら、そう考えたのだった。




