011 不可解な現象
七歳になった。
前世であれば春の訪れとともに小学校への入学を果たし、友達を百人作るんだという夢や、これから始まる新しい生活に淡い期待をしてみたりする頃合いなのだが、当然この世界に義務教育などという物はなく、学校で教育を受けられるのは望んだ内の極一部の人間でしかないため、特に自分の生活が変わるというようなことはない──とは言え、もし学校に行くというような話が出たところで、この年齢ではまず受け入れてくれる教育機関が無いので、始めから関係の無い話でもある。
基本的に、学校と言えば高校や大学などの高等教育を受けるための場所であって、小学生や中学生に勉強を教えるのは主に親の務めなのだ。勿論、場所によっては寺子屋のような物を開き、お金を取って勉強を教えたりする人もいたりはするらしいが、そういう人間は大抵、人の多い場所を目指すことが多いので、この町にそういった物はない。この町にだってそれなりに人はいるが、田舎と都会では同じ人の数でも収入が違う。
なので、母親であるオリヴィアが教鞭をとり、そしてその授業を自分とエレインが受けるという方式は相変わらずなのだが、母親は方針を少しだけ変化させることにしたらしく、これまではエレインが進むまで自分はその少し前をやるという方針で進められていたのだが、それを無かったことにしてしまったのだ。しかしこれは何もエレインに見切りをつけて自分への教育に集中することにしたとかそういう悲しい話ではなく、彼女がそれなりに大人になったと、母親がそう感じたからなのだろう。割り算で引っ掛かるエレインの横で、少し先に進ませてもらっている──エレインは九九を覚え、掛け算をものにすることには成功しているわけなので、決してダメな子などではない。未だに突然ボーっとすることはあるが、多分大丈夫。
当然進んだところで既知の領域なのだが、リュカとしては未知のモノでもあるので、あくまでもそれを忘れたりはしない。習ったからできるようになったのだというスタンスは崩さないし、だからこそ、習っていないことはやらない。何を習っていて何を習っていないのか、ともすれば忘れてしまいそうになるが、混ざってしまいそうにもなるのだが、それを整理するためにも、日々の復習を忘れたりはしない。しかし、小学校の教育課程で『習っていない漢字を使うと減点される』というような頭の悪さを煮詰めたような唾棄されるべき文化があったことを思い出したが、まさか自分がそれに従うことになるとは思わなかった。
だが、それ以外にも変わったことは少しあって、勉強と言えばやはりいつも通り国語に数学、歴史などを進めているのだが、それ以外の、魔物の知識だとか生活のイロハだとかを教えるというようなことをしていた授業なのだが、アレが概ね教えられることをほとんど教えてしまったということで、とうとうなくなることになった。あの授業はこの世界の知識や常識を学べるいい授業だったので、それは少し残念だったのだが、代わりに別の授業が入ることになった。
空いた時間で別の事をするというのは聞いていたのだが、てっきり国語やら数学やらの授業時間が延びるだけのものと考えていたので、それには驚いた。
「体術?」
「そう。エレインもそろそろ自分の身を守る術を身に付けておいてもらわないとだから」
とのことで。
エレインは一人での外出を未だに許可されていないのだ。母親はエレインに今なお黒い羊毛を洗わせ続けているが、それだって長続きはしないことは理解しているはずで、だとすれば、これ以上家に閉じ込めておくこともできないのだから、それならもしもの為の護身術などを今のうちに叩き込んでおこう、という魂胆なのだろう。どちらかと言うと、危険から逃げる術を教え込んでおくべきだとは思うのだが、恐らくはそれも含めてか。
要するに、体育の授業である。今は庭で遊んだりもしているが、それだけではいけないのだ。
そして、自分もそれに付き合うことになった。エレインが十歳でそれを始めるのだから、自分も同じ歳になったら始まるものとばかり思っていたのだが、エレイン一人では可哀想だからとのこと。それに、二人でやっていればそれなりにやる気も出してくれるそうなので、付き合うよう頼まれた。
毎日やるわけではないそうだし、これで自分の体力が六歳並でしかなければ考えていたのかもしれないが、幸いにも、魔力によってそのあたりの心配はないので了承した。
普段からサクラに負けないようにしているつもりなので、それがどれほど通用するかは分からないが、心配するようなことは何もないだろう。
この世界の鍛え方がどのような物かは不明だが、トレーニングにしろストレッチにしろ、走法にしろ何にしろ、自分が前世で学び培ったそれの方が上だと確信している。勿論、魔力なるものが存在する世界でもあるので、それに合わせた独自のモノがあったりして、それはそれでいいところがあったりするのかもしれないが、だとしたらそれは積極的に取り入れていきたいが、しかしそうでない技術に関しては、前世でのモノの方が上だろう。
向こうで日夜研究が進められているそれは、科学や医学の登場やメディアの発展により、様々な技術が融合し、無駄が淘汰され排除されていった末の完成形でもあるのだ。対して、この世界ではそれが起こりづらいという土壌がある。まずメディアが無いので研究結果や技術などが共有されることはなく、融合もしければ取捨選択もない。発展や昇華するということが少ないのだ。
だが、どうせ教えるのなら、エレインには無駄のないものを学んでおいてもらいたいところではあるので、母親の授業とは言え、自分も出せる限りのものは出そうと思う。それに、身体を壊さないようにという意味でも、正しいものを教えるべきだろう。必ずしもそれが正しいというわけではないし、何より大事なのは本人にあっているかどうかなのだが、基礎にはなってくれるはずだ。
しかし、こうも何から何まで教えることのできる母親は、本当に何をしていた人なのだろうか。
「謎なんだよな……」
それから、サクラとコハクだが、未だに小屋の存在がバレる様子はない。
もしかしたこのまま数十年くらいはバレずに隠し通せるのではと思わないではないのだが、流石にそういうわけにいかないことは理解しているので、しばらくはこの奇跡が続くことを祈りつつ、そろそろ本腰を入れて家探しを開始しようかと考えている──というのも、父親がその手腕で以て販売を開始したチェスや、その後に商品化することが決まったオセロなどが、家にかなりの金を落としているのだ。
税も払った上で、生活の質が目に見えて向上している。なので当然、自分に転がり込んできている金銭も結構な額だ。一般的な家の値段がどれほどかは知らないが、しばらく待っていればそのお金は溜まっていくし、金額的な話だけをするのであれば、そのうち家も買えるようになるだろう──金額的な話のみをするのなら、だが。
今はそのお金で跳ね上がり続けるコハクの食費を賄っている状態だが、それでもお金が溜まっていくくらいには余裕がある。
だがこの状態は、底の抜けたバケツにひたすら水を流し込むような行為のわけで、言ってしまえば支出の垂れ流しだ。勿論、あの二人を拾ったのは自分なのだし、そこには出来る限りの責任を持つつもりでいるが、だからといって現状を良しとするのは危険でもある。自分がいなくなった瞬間に崩壊しかねないような環境を放置するのは二人の為にならないのだ──まぁ、突然放り出してもなんだかんだで生きていけそうなだけの能力は十分身に付いているようにも思えるが。
なので、そこをどうにかするための手を考えなくてはならないのだが、というかその手自体はあるのだが、少しだけ問題がある。
サクラもコハクもいつの間にか魔物や動物を仕留めてきては捌いているのだが、求めているのは肉だけで、現状それ以外の物は肥しとして溜め込まれている状態なのだ。だからそれらを売ればそれなりの額にはなるのだろうが、こういった物を売りに行こうにも、この町の中でそれをするのは少々リスクが高い、ということだ。とは言っても、別の町までこれらを運ぶことは骨が折れるし、時間が掛かる。一回一回それをすると言うのは、現実的ではない。
「それにそもそも……」
突然子供がそんなものを持って来たら、持って来られた側の人間は何を思うだろうか。
まず考えるのは盗難あたりだろう。十にも満たない子供がいきなり魔物なんかの素材を金に換えたがっている状況は、それだけで怪しい。本来、子供が勝てるはずの相手ではないのだ。まぁ、この世界では割とありふれていたりもするのかもしれないが、わざわざ危険な橋を渡りたくはない。こんな自分だが、小物やちょっとした食べ物など、町で買い物をしたりすることは普通にあるので、割と顔見知りも多いのだ。どこから話が漏れるのかは分からないのだから、控えておくべきだろう。サクラにそのまま売りに行ってもらえばいいのではとも思ったが、既に何度も一緒に町を歩いたりしているので、それも少しリスクがある。
「こればっかりは時間が経つのを待てばいいのか──そうするしかないのか」
生憎と、今は定期的にお金が入って来る状態が続いているし、もしそれが落ち着きを見せたら別のモノを流してやればいいと考えることもできる。やっていることが他人の発明品での荒稼ぎなので何とも言えないが、だからと言って出し惜しんだって仕方がない。罪悪感が全く、これっぽっちも無いと言えば嘘になるが、こういった物が世に出ることで、それに触発されて新しいものが出てきたりすることもあるのだろうから、必ずしも悪いことだとは思っていない。それにそもそも、自分がこうして死を経て新たに生を受けているという状況自体が特異なものなのだから、それを受け入れておいて、今更そこを気にするというのも妙な話だ──それを言い出せば畢竟、前世の記憶を持った状態で人生を歩んでいる時点でどことなくズルをしているという感覚から逃れることは出来ないのだから、気にするべきではないだろう。
話は戻して、こういった手法での金稼ぎがいつまで続くかは不明だが、十を越えるまで、つまりは後三年もしない内に終わるはずもないだろうから、あまり焦っても意味はないのだろうか。
「……いや、違う、ダメだ」
と、かぶりを振った。
話の本題はそこではない。確かに収入を得るための方法を探すことも大事だが、気にするべきはそこではないのだ。今言った生活基盤に関してはもう諦めて待ちの姿勢を貫いてしまってもいいのだが、家に関してはそうも言っていられない。
あの小屋もそれなりに手狭になってきているし、何度も言うが、何度でも言うが、そもそもアレは人が住むためのものではない。今は土の魔法で無理矢理部屋を作って拡張しているという状態なのだが、その時点でもうあの小屋ではダメなのだ。
だがやはり家を買おうとなると、話が同じ場所に帰結する。金銭的な問題は解決したと言っていいが、年齢的な問題と、それから社会的信用の面で壁にぶち当たるのだ。
というか、この世界では誰が家を売っているのだ。
不動産会社はどこにあるのだ。
土地を所有しているの自体は貴族なのだろうが、しかし人が新たにこの地に住もうという度にその貴族が出張ってくるわけもあるまいし、貴族が一人で土地の管理などを行うのは非現実的なのだから、貴族の下にその仕事をする代官や荘園管理人のような存在がいるはずだとは思うのだが、そこを訪えばいいのだろうか。
この地は、家の庭の奥にある森がそのまま我が家の敷地になってしまうくらいに適当というか、厳密な土地の管理はされていないのだが、流石に新たに家を買ったり建てたりするとなれば許可を取りに行く必要は当然あるだろう。ここが小さな村などであれば話は別だっただろうが、それなりの町ではあるのだから、申請もなしに好き勝手することが許されるとは思っていない。罰則や追放の危険性もあると考えれば尚更だ。
しかしそこでも問題がある。
家を買う、もしくは建てるということはつまり、この地で働き、税を納めるなどの義務を負うことを意味している。
それが子供というのは、到底認められないだろう。きちんと定められているわけではないにせよ、成人として認められるのは十五歳を過ぎたあたりからだ。その頃になると、教育機関に進む人間はその道を行くが、そうでない人間は働き始めることになる。実際にはもっと早くから子供でも働いているような世界なのだが、親の庇護下から外れるのはその頃で、社会的信用を得られ始めるのもそこからということになる。
分かっている。
考えるだけ無駄なのだ。
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その日は、朝早くから庭に出ていた。個人的な用事で出て来たのではなく、授業として庭を使うことになったからである。こうして庭に出てくると、もしサクラやコハクの事がバレてしまったりしたらどうしようなどという妄想をしては激しい動悸に襲われたりすることもままあるのだが、朝の湿気の混じった空気を大きく吸い込み、それを落ち着かせる。
姿勢を整えて力を抜き、鼻から息をゆっくりと吸い込むと、口からそれを細く長く、具体的には息を吸うのにかかった時間の倍の時間で吐き切る。
深呼吸は大事だ。
深呼吸は自律神経を整え、心身をリラックスさせるだけでなく、ストレスを軽減し、集中力や免疫力を向上させ、冷え性などを改善するとともに、良質な睡眠さえも手助けしてくれるという、やらない理由が何処にもない素晴らしい動作である。
それが終わると、地味で暗い、汚れてしまってもいいようなお古の服を上から纏い、準備運動を始める。
この準備運動だが、この世界でも似たようなことはしていた。しかしそれは、突然身体を激しく動かすと事故を起こすという経験則から来るものでしかなく、それ故、適当に跳ねたり何だったりという動作をして体を温めるというような、形の定まらぬ雑なものであった。今は何とかそれを効果的な、意味のあるものにすることに成功しているが、始めのうちは理解してもらうのに苦労した。
エレインには説明したところで理解出来ないだろうし──いや、エレインは一緒にやろうと言えば基本的に引き込むのは簡単なのでよかったのだが、母親には論理的な説得力のある説明が出来ない。それは人体の具体的な構造や、それに対する適切な運動法などをどこで知ったという話になってしまうからだ。
どうしたものかと考えた末、実際にやらせてみたら理解してもらえるのではないかと思い、敢えて具体的な説明はせず、黙々とそれを見せつけて真似させるという方向でやっていたのだが、上手くいってよかった。結局のところ、理屈で以て理解する必要はないのだ──と言うより、人間が理屈で理解できていることなど、そうでないことに比べれば、元よりあって無いようなものでしかない。
何事も、肝要なるは体験なのだ。
「はぁ……、はぁ……」
準備運動が終わると、庭を数周させられる。
身を守る術を身に付けさせるということがこの授業の最終目標らしかったが、今は基礎体力を高めることを主としている。初めのうちは小さめの庭を三十周ほどであったが、慣れてくるとその数は少しずつ上がっていき、今は四十五周にまで伸びた。スピードも上げるよう指示されており、掛かった時間は初めの内とほとんど変わらない。ただ、その後ろには母親がずっとついてきていて、速度が乱れると逐一指摘をしてくる。速度を落とせば追い立てられ、反対に上げ過ぎれば厳しい声で指摘される。エレインは焦っていたのか、度々上げ過ぎだと言われていた。
エレインはそれが終わると、地面にへたり込む。
走り回ったりすること自体は決して嫌いでないエレインだが、一定のペースを維持し続け走るというのは辛いのかもしれない。そんな事を思いつつ、待機していた家政婦のネルから水とタオルを受け取り、エレインの下まで持っていった。
エレインはそれを無言で受け取り、一気に飲み干す。息を吐き、呼吸を整えると、空になったコップを渡してきた。
「ありがと、リュカ」
タオルで汗を拭ってやり、はしたなく開かれた脚を閉じさせた。
「うん。……大丈夫?」
あまり無理をしていては身体を壊すだけだ、そうなっては元も子もないと尋ねたが、本心故かプライド故か、エレインは首を横に振った。
「リュカは大丈夫なの?」
「え? ……まぁ、男だから」
曖昧に返し、頷く。
男と言うには幼いが。
始めのうちは人並に疲れている風を装うべきかと思っていたのだが、演技力の無い自分だから、そんなものはいつ見破られてもおかしくない──だったらいっそ涼しい顔をしている方がいいだろう、という判断だった。
実際、この程度で疲れているようでは、サクラになどものの数秒で捻り潰されてしまう。いつか追い越されるとしても、今はまだ負けたくない。
「それに、姉ちゃんは走り方がなってない。だから無駄に疲れるんだよ」
「うぅん……」
「腕をあまり大きく振らない。それから地面も蹴らない。それだけでも違うから」
何度も同じような説明はしているはずなのだが、あまり改善しない。その場で行って直して──矯正していく方がいいのだろうか。
「ほら、そろそろ立ちなさい。次行くわよ」
と、そこに母親が。ペースメーカーとして走り続けていた割に、自分以上に涼しい顔をしている。
「暑い~」
それにエレインが文句を言い、もう終わりにしようだのなんだのとごねる。
いつもの事だが、エレインとて本気ではない。少しでも休む時間を稼ぎたいのだろう。
「あのねぇ、まだ陽も登り切ってないでしょう? 何のためにこの時間からやってると思ってるのよ」
そんな光景を見つつ、ネルの待機している場所にコップとタオルを返しに行く。
「はい、ありがと──」
と、持っていた二つを差し出し、
「……あぁ、いや、もう一杯だけ注いでもらっていい?」
後ろでわたわたとごね続けるエレインを見ながらそう言った。
「ふふ、お優しいですね」
ネルは小さく笑いながら、やけにゆったりとした動作で、ゆっくりと水を注いだ。
「……まぁ、自分の分の水を貰ってないのは事実だから」
水分補給は大事だ。
そして時間をかけて戻ると、次に進むことに。
とは言え、エレインがごね続けたのを見て何か思うことでもあったのか、ここからは遊びを交えていくことにしたらしい。母親はセシリアに取ってこさせたボールを受け取ると、これから何をさせるつもりなのかを話し始めた。
要すれば、今からするのはドッジボールだ。ただ、自分の知っているドッジボールとは違い、投げるのは基本的に母親だけで、自分達はそのボールに当たらないようにひたすら逃げ続けるというものであった。無論、ボールに当たれば罰があるとのこと。罰の内容は聞かされていなかったが、多分、庭をまた何周か走らされるとかそのあたりだろう。
しかし、話の最中、エレインはどこかボーっとしていた──いつものやつか。
そう思ったのだが、エレインはどこか楽しそうに何かを見ている──目で追っている。
そこに何かがいるかのように。
「エレイン? エレイン? 聞いてるの?」
「……え? あ、うん! 聞いてるわ!」
エレインはハッとした様に母親の方を見る。
「そう? なら、私が言った事、もう一回言ってみてくれる?」
少し怒ったように、明らかに聞いていなかったであろうエレインに対して無茶を振る。
「え、えぇっと……、えっと……」
「ちゃーんと……聞いてたのよね?」
「へ? あ、うん……」
当然、答えられるわけもなく、咄嗟に誤魔化し建前引っ込めることもできなくなったエレインは、視線をあちこちに泳がせながら狼狽える。
時折、助けを求めるような視線をこちらに寄越しながら。
「早くやろう? ボールに当たらないように逃げればいいんでしょ?」
仕方が無いと、口を出した。
「……! ボールから逃げればいいのね!」
「な……、はぁ……。そうよ。分かったら始めるから、準備なさい」
溜息を吐き、複数の感情の混じり合ったような眼をこちらに向けつつ、言う。
その後ろには、どこかうずうずとした様子のセシリアがいた。その目は度々ボールの方に向いている。多分投げたいのだろうな。
そうしてボールから逃げる遊び──名を付けるのならそのまま逃球だろうか──それは始まった。
フィールドはある程度の広さで定められていて、白線の代わりにロープがそれを示している。ボールに当たったとき同様、そこを越えても罰があるとのことなので、エレインはそれの位置を確認し、ギリギリまで母親から距離を取れる場所に移動していた。一方、自分が陣取ったのはやや後ろではあるものの、位置としては真ん中だった。
「行くわよー!」
と、母親は声を張り、構える。
そして、まずは近くにいた自分ではなく、隅にいたことで動きづらくなっていることに気が付いてすらいないエレインの方を狙ったらしい──ボールは結構なスピードで自分の横を通り過ぎていくと、とっさに身を屈めたエレインの頭上を通り過ぎていった。ボールが飛んでいった先にはセシリアがいて、それを回収し、母親に戻していた。
「わわ……」
エレインはその隙にその場を離れ──あろうことか自分の真後ろに構えた。どうやら弟を盾にするつもりらしい。
「姉ちゃん?」
「な、何?」
「身代わりにしようとしてる?」
「ち、違うわ! こ、これはその、えっと、いざという時はリュカも一緒に逃がしてあげなきゃと思って!」
そう言ってエレインは両肩を掴んできた。これは逃げられないように固定しているとしか思えないのだが。
ボールを構えた母親も、流石にこの状況で投げてしまっていいのかと動きを止めたまま、娘の行動に顔を引き攣らせていた。そして考えた末、こっそりと回り込むことにしたらしく、足音を殺して歩き始めた。暗殺者のような身のこなしでぬるりと移動し、気が付けば自分達から見て横の位置に陣取り構えている。エレインは少しでも小さくなることで当たる可能性を下げようとしているのか、気が付く様子がない。
危機が迫っていることを教えてやるべきか、人を盾にするエレインには痛い目を見てもらうか、どちらにするべきか。
まぁ順当に考えるのなら、母親のあの表情からして、後者にしておくのがいいのだろう。しかし、これは逃げる避けるがメインなのだ。逃げたけど当たってしまったというならまだしも、気が付かずに当てられてしまいましたではどうしようもないだろう。
「ほら、姉ちゃん。母さんがどこにいるか見ておかないと」
「え? ……はっ!」
自分の状況を把握するよう促すと、エレインは自分を置いて別の場所へと逃げて行った。いざという時には一緒に云々は一体何だったのだろうか。
と、油断していたところにボールが飛んでくる。一瞬忘れかけていたが、自分もまた狙われる対象なのだ。ギリギリで身体を仰け反らせると、ボールを回避する。スピードはそれなりだが、飛んでくると分かっているものであれば回避は容易い。
そしてボールをまたセシリアが回収し、母親が投げる。セシリアは母親に投げ返してはいるのだが、下からフワフワとした投げ方をするだけなので──流石に雇い主相手に全力投球するわけにもいかないのだろうが──見ていて効率が悪いしテンポも悪い。
「セシリアも投げたら?」
うずうずとしていた様子のセシリアに向け、振り返ってから言う。
「は──わ、私もですか?」
セシリアは「はい!」と元気よく言おうとして、既のところで踏みとどまった。
「そうね、あなたも投げて頂戴。その方がこの子達も意識する方向が増えるでしょうから」
「わ……分かりました!」
と、母親に許可をもらったことで、セシリアは構える。そしてちょこまかと動き回るエレインと微動だにしない自分を何度か見、そして放った。
この手のタイプは動かない的よりも動く的を狙いたがるのだろう、放たれた剛速球はエレインの動線を先読みして飛んでいき──エレインの眼前を掠めた。
おかしい。
セシリアはかなり正確な偏差撃ちをしていたので、本来ならそのボールはエレインの肩のあたりに直撃するはずだったのだ。しかし、エレインはその直前、不自然とも言える動きで後ろに避けた。
一体何が。
考える間もなく、セシリアが外したボールを拾った母親からの攻撃が来る。それを最小限の動きで躱すと、今度はセシリアからの攻撃。エレインはキョロキョロと辺りを見、ボールがセシリアの手にあることを知ると、再び逃げ出す。
「今度は当てます!」
と、セシリアは宣言する。
そして──またも外した。
それも、エレインが避けたのではない。ボールの方がエレインを避けた──ように見えた。
運よく風でも吹いたのか──なんて、遠くから見ていた母親やセシリアはそう思っていそうなものだが、自分の目にはそうは見えなかった。それに、あの速度で投げられたボールの軌道を逸らすのに必要な風の力はそれなりのものになる。ピンポン玉のようなボールであれば違ったかもしれないが、アレはそういった軽い素材ものではない。
ならば、何故。
結局以降はそのような怪奇現象もなく、エレインは何度かボールを当てられ、予想通り庭を何周か走らされることになっていた。
可哀想だったので半分引き受けることにしたが、その間も特におかしなことはなく、原因の究明には至らなかったのだった。




