その魂に安らぎがあらんことを
「い、生きているよ。それにもうしゃべらないで……」
足を引きずるようにしながら、リンダがミルコの側へにじり寄った。同時に、短弩級を掲げるハンナを睨みつける。
「このくそ女、なんてことをするの!」
ミリンダはハンナへナイフを投げつけようとしたが、ミルコがその手を抑えた。
「いや、ハンナは正しい。逆の立場なら、俺だって彼女を撃つ」
それを聞いたリンダが、訳が分からないという顔をして、首を横に振って見せる。
「どういうこと? それに、さっきの死んでいるって、どういう意味なの?」
「言葉通りだ。俺たちはこの迷宮ですでに死んでいる。すまない。襲われたお前を助けようとしたが、俺は何の役にも立てなかった。誰に遠いところへ行くのを邪魔されているのかは分からないが、これが最後の機会だ。一言だけ言わせてくれ……」
ミルコは血を吐きつつも、リンダへ笑みを浮かべて見せた。
「お前がグラディオの事を好きなのはよく分かっている。だが初めて会った時から、俺はお前だけを見ていた……」
それを聞いたリンダの顔が、苦痛ではない別の何かにゆがむ。
「ミルコ、ごめん、本当にごめん。私はバカだよ。全然気づかなかった」
リンダの目から涙がこぼれ落ちる。
「そうね。そうだったわね。あんただけが私を助けに来た。でもどうして私たちは、まだここにいるのかしら?」
「化け物ども、人の振りなんかしていないで、さっさと倒れなさいよ!」
再び短弩の弓弦の音が響く。だが矢はリンダ達の体を通り抜けると、背後の柱へぶつかり弾き飛ばされた。気づけば、二人の姿は幻のようにゆらゆらと揺らいでいる。やがてそれは黒い霧へと変わっていった。
「ゴースト!」
グラディオとハンナの二人は、杖を掲げて術式を唱え始めるが、黒い霧は周囲にある大百足の死体も巻き込みつつ、黒い奔流となって二人へ迫ってくる。
「間に合わない!」
グラディオが声を上げた時だ。
ゴオオオォオォオオオ――!
黒い霧の真下から、真っ赤な火柱が上がった。
「クラリス、さっきの話は訂正するわ。人だったやつの相手ぐらいはあるわね」
巨大なホールの中に、リアの声が響いた。その手にはしっかりと杖が握られており、宙には複雑な幾何学模様が浮かんでいる。
「地獄の大公?」
ハンナの口から、驚きのつぶやきが漏れた。
「ランドさん、やっぱりですよ。だから潜る前に、本気ですかと聞いたんです」
だがランドはリアの問いかけを無視すると、イフリートの炎が消えた場所へ足をすすめた。その後ろをクラリスも一緒についていく。そこにはまだ白い煙を上げている床と、わずかに残った黒いすすがあった。
「その魂に安らぎがあらんことを」
ランドが拳を胸に当てる。同じように拳を胸に当てたクラリスも、頭を下げて黙祷を捧げた。その瞳から落ちた涙が、床で白い蒸気となって消えていく。
「あんたたちは?」
「俺はランドスルーというものだ。アビスゲイルのギルドから来た」
「助かった。ハンナと二人で聖域の加護を唱え続けていたが、もう限界だった。すぐに上へ戻らないと――」
「どうして二人を撃った?」
ランドはグラディオの話の続きを、片手をあげて制すると、背後にいるハンナへ声を掛けた。
「だって、二人とも私たちの目の前で、やつらにむさぼり食われたのよ。それが再び現れるだなんて、幻覚か、迷宮の罠以外の何物でもないでしょう?」
「彼らの肉体が失われていたとしても、それが誰かの思惑だったとしても、その魂が本物かどうかは別の話だ。君たちにはそれが分からなかったんだな」
そう告げると、ランドはグラディオとハンナの二人をじっと見つめた。
「だとすれば、君たちに救いはない。探索と前衛を失ったのに、どうして魔法職二人だけが生き残れた? 俺にはそれも幻覚としか思えない」
ランドの問いかけに、ハンナがうろたえた顔をする。
「えっ、だってそれは、結界を張ったから――」
「あなたたちが潜ってから、既に一昼夜以上たっているの。エスクルなんて術式を、そんな長時間維持できるとしたら、あなたたち二人は間違いなくSランクの冒険者ね。いや、SSランク以上よ」
リアがランドの隣へ来て告げる。そして小さく首をひねって見せた。
「あなたたちはSSランク? さっき何もできなかったのを見ると、とてもそうは思えないんだけど?」
「ちょ、ちょっと待って。そんなことはない。私たちは術式を唱えて、あいつらから身を守った。そうでしょう、グラディオ!」
ハンナの呼びかけに、グラディオは何も答えない。床の上に残った黒いしみを、じっと見つめ続けているだけだ。
「グラディオ、何とか言って!」
「ハンナ、俺も思い出した。俺たちはリンダとミルコを犠牲にして逃げた。そして結界を……」
「その通り――」
「張れなかった。速攻魔法じゃないんだ。そんな複雑な術式を、何の用意もなしには張れない」
「張れたのよ!」
そう叫んで、すがりつくハンナを振りほどくと、グラディオはランドの方へ進み出た。
「俺たちはいったい何なんだ?」
「これが迷宮の外なら、幽霊とでも呼ぶべきなんだろうな。だが違う。あんたたちは迷宮に乗っ取られた」
「乗っ取られたんじゃない。迷宮に一番大事なもの、魂をもてあそばれているの」
リアがランドに代わって、はっきりと告げる。それを聞いたグラディオが、両手で自分の顔を、狂ったようにひっかいた。皮膚がやぶけ、そこから赤い血が流れ落ちていく。
「やめて、グラディオ、何をするの!」
「俺たちは血だって流れる。そうだよな!」
グラディオはハンナに同意を求めると、止めることなく顔をひっかき続ける。だがその動きが止まった。顔をひっかいているはずの手が、顔を通り過ぎていく。
「嫌ああああ!」
それを見たハンナの口から悲鳴が漏れた。そして杖を前へ掲げようとする。しかし杖は手から滑り落ちると、床の上を転がっていった。
「ランドさん、やっぱり罠です。退路を断たれました」
リアが背後へ杖を向ける。そこにあったはずのらせん階段が、いつの間にか消えてしまっていた。
「今度は私たちを取り込む気です。どうしますか?」
そう問いかけると、壁や天井へ視線を向けた。ホータムの明かりの先で、黒い影がうごめいている。
「ホータムで抑えきれるか?」
「無理だと思います」
リアの答えにランドが頷く。黒い影たちはホータムの明かりを侵食するように、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。グラディオとハンナだった何かも、ホータムの明かりのふちで、黒い奔流となってとぐろを巻いていた。
「出口はこの直上のはずです。極大魔法で、天井をぶち抜いてやります」
「リア、お前ならできるだろうが、封印柱も何もすべて吹き飛ばすことになる。それに俺はここを遊び場にしているやつに、心底腹がたっているんだ」
「迷宮ですよ? そんな存在なんています?」
「間違いなくいる。今もどこかから、俺たちを見て嘲笑っているはずだ」
そう言うと、ランドはクラリスへ視線を向けた。クラリスは体を震わせることもなく、こちらへ迫ってくる黒い影をじっと見つめている。
「クラリス、封印を解くぞ。ここからはお前の出番だ。お前の、そして俺の怒りをそいつにぶつけてやれ」
ランドの呼びかけに、クラリスは大きく頷いた。




