私なんかまだまだ序の口ですよね
「あんな化け物だなんて、聞いてないぞ!」
ルシアはそう嘆きつつ、崖の向こうを見つめた。ルシアのいる小高い丘の向こうは、濃い霧に包まれており、そこにあるはずのアズール城は見えない。その代わりに、背筋を凍らせる様な、おぞましい何かが漂っている。
それが起きたのは、ルシアが隠し通路を使って、城を脱出して間もなくだ。誰がそれを引き起こしたかについては、疑問の余地はなかった。あの人が自分で依頼してきたからには、ただの小娘ではないとは分かっていたが、これほどの惨事を引き起こすとは、一体誰が想像出来ただろう。
『本当にそうなのか?』
ルシアが首をひねって見せる。見かけは愛嬌のある、普通の町娘としか思えなかった。もっとも、あのアズールの剣をあっさりと引き抜く存在が、ただの町娘なはずはない。そう思わせるのが、あの女の怖さなのだろう。まんまとそれに引っかかった。
崖の下では砂塵を上げつつ、エミール家の残党が、なりふり構わず逃げていく。それをそそのかして、アズール城を攻めさせたのは、間違いなくニールだ。
「俺と一緒に、この件を無かったことにしたわけだ。代わりに、あの女を選んだ……」
そうつぶやくと、ルシアは少し寂しげな表情をして見せる。しかし、誰かが丘を登ってくるのに気づくと、表情を険しくした。一直線にこちらへと向かってくる人物は、背中に驚くほど大きな剣を背負っている。そして白いスカートともローブとも呼べない独特の衣装に、黄金色に輝く、三つ編みにした長い髪。
「ま、まさか……」
逃げないといけないと、頭では分かっているのだが、体が全く言う事を聞かない。それに心の奥では、逃げても無駄だと悟っていた。
「あなたが誰か分かっています。神話同盟のフリーダさんですね」
とりあえず、背一杯の笑みを浮かべてみた。しかし、目の前に迫った人物は、ルシアの問いかけに答えることなく、無言で背中に背負った剣へ手を掛ける。
「彼女を追っているのが誰なのか、誰が後ろで糸を引いているのか、知っていることは全てお話しします」
ルシアは必死に言葉をつないだ。相手は薄い水色の目に、冷たい光を宿したまま、何も表情を変えようとはしない。
「命だけ助けていただければ、あなたの犬になります」
「口を閉じてろ。お前が一秒でも息をしていることすら、気に入らないのだ」
そう告げた女性が、剣をゆっくりと後ろへ引いた。吹き抜ける風が、三つ編みに編んだ長い髪を揺らす。これが、あの神話同盟の剣士なのか……。
「この世界から出て行け!」
ルシアは自分を殺そうとしている女性の姿を、自分が知っている、どんな女性よりも美しいと思った。
「すぐに王都のおばさまへ、連絡を付けてちょうだい」
マリアンヌはそう告げると、天幕の中に置かれた簡易ベッドへ倒れこんだ。
「なぜ?」
そう言葉を漏らして、寝返りを打つ。兵士長のイクラムが、進軍を止めるよう訴えた際に、それを聞いておけば良かったとも思うが、もう後の祭りだ。それを決めた時、どう言う訳かマリアンヌの耳には誰の言葉も入って来なかった。ただひたすらに、あの男が、そしてあの男をたぶらかした、あの小娘が憎かったのだ。
マリアンヌの中では、騎士たちが全滅したことなど、既に遠い過去の事になっている。今はともかく家を、そして自分の身をどう守るかを、必死に考え続けていた。やはり王都にいる有力な親戚筋へ働きかけて、全ては当主不在のアズール家の陰謀と言う事にするしかない。そのためには、先ずはあの男と女の生死を、明らかにすることだ。
そこまで考えをまとめたところで、誰かが天幕へ近づく気配がした。侍従がお茶でも持ってきたのだろうか……。
「街道筋だけでなく、ここから出る全ての道へ監視の者を――」
そう告げたところで、天幕へ入ってきた者が、侍従でも侍女でもないことに気づく。
「曲者よ!」
マリアンヌは声を張り上げた。同時にベッドから飛び起きて、天幕の外へ逃げようとする。だが、金縛りにあったみたいに、体が動かなかった。
「キャ――!」
今度は悲鳴を上げるが、やはり誰もこちらへ来る気配はしない。マリアンヌは、恐る恐る天幕にいる人物へ視線を向けた。しかし、その意外な姿に驚く。
「大神官様?」
王都へ行った時、一度だけ拝謁した大神官と、全く同じ服を着た女性が立っている。それだけではない。女性にしては、とても背が高くはあるが、まるで神殿の女神像かと思うぐらいに美しい。マリアンヌも容姿には自信があったが、この女性の前では、月を前にした星の瞬きの様に思える。神官庁から使者が来るとは聞いていないが、もしそうだとすれば、かなりやっかいだ。
「し、神官庁からのご使者ですか?」
この人物をどう始末しようか考えながら、マリアンヌは問いかけた。
「そんなものはとっくにやめたの。でも、男女どちらでもいけるから、この服だけは、未だに気に入っているのよね」
女性は少し低めの声で答えると、にっこり笑って見せる。
『違う!』
その笑みを見てマリアンヌは悟った。口元は上げているが、その目は決して笑ってなどいない。もっと仄暗い何かをたたえている。どう考えても、神官の類とは思えなかった。ならば、神官の振りをした暗殺者か?
「だ、誰か――」
マリアンヌは、もう一度助けを呼ぼうとしたが、女性が首を横に振って見せる。
「一応言っておくけど、誰も助けになんて、来ないわよ」
女性の背後で、誰かが天幕へ近づく気配がした。すぐにお茶を持った侍従が姿を現す。
「助けて!」
だが侍従はマリアンヌの叫びを無視すると、天幕の中をきょろきょろと見回した。そして小さく肩をすくめると、そのまま天幕を出て行く。
「なんで!」
「ちょっとした術よ。この世界の誰も、もうあなたには気づかない」
目の前に立つ神官姿の女が、にやりと笑って見せる。そのあまりにも美しい顔に浮かぶ冷酷な表情に、マリアンヌは心の底から震えた。
「正しくは、あなたの目に入ってこなかった、庶民たちと同じ扱いね」
「どうして、私にそんなことをするの!」
「そうね。私のお友だちが、死ぬよりひどい罰をたくさん考えたから、それを試してみたくなった? そんなとこかしら」
そう告げると、エミリアは小さく指を鳴らした。体が自由になったマリアンヌが、這うように天幕から出て行くのが見える。
「天幕の中にいる曲者を――、私の言う事が聞けないの!」
マリアンヌの叫び声を聞きながら、エミリアはゆっくりと天幕の外へ出た。そこには真っ黒な服を着た小柄な少女、リリスが立っている。リリスはエミリアへ、いかにも疲れ切ったという顔をして見せた。
「リリスちゃん、お疲れ様!」
「あの場所で、アイシャの力を抑えたのだぞ。流石の我でも疲れた」
そうばやくと、響き渡るマリアンヌの叫びに、首を傾げて見せる。
「あの女を、ほったらかしにしてもよいのか?」
「権力にどっぷりだったのよ。他人の力を借りずに、何も出来はしないわ。それに、自分で何かが出来るようになったら、アイシャへの復讐なんて、馬鹿なことはもう考えないはずよ」
「そんな救いを与えてどうする?」
「そうね。あの娘の性根は腐っているけど、その背中を押したのは、私が作った術式だったからかも……」
「そんなものを気にしてどうするのだ。未だに神官時代のくせが抜けぬようだな。それはそうと、他の二人はどこへ行った?」
「フリーダは、『私がやる!』の一言で、あの男の所よ」
「まあ、今回はフリーダに譲ってやらぬと、間違いなく大暴れするから仕方がない。アルは?」
「アル君は、アル君にしか出来ないことをやりに行ったわ」
「そうか。確かにあれは、あの男にしか出来ぬ事だ」
そう告げると、二人は遠くに見える、アズール城を覆う霞へ視線を向けた。




