〈3〉のこべん
『ホロホロ……ホロホロ……、おはよう!朝だよ!ホロホロ……ホロホロ……』
部屋の真ん中あたりから元気よくモーニングコールする声が聞こえる。布団の中で眠気にくるまりながら聴くには、少々元気が良すぎる。ぶつけられるエネルギーがきつい。僕はゆっくり布団を持ち上げ、身体をベットから引きはがすと、目覚まし時計を置いたタンスの前に立った。
『おはよう!朝だよ!』
元気な声には元気な動きで応えてやろう。僕は左腕を真っすぐ伸ばしたまま、後ろに一回転させて目覚まし時計のボタンを押した。
『起きたの……、えらい!』
目覚まし時計は大人しくなった。
ふと横を向くと、隣の部屋で母がニヤニヤしながら僕の動きを真似して左腕を一回転させていた。父はその奥で新聞を読んでいた。僕はこの上なく不快な気持ちになった。寝起きを見られて恥ずかしいを言うよりも、僕一人の世界の中だけで楽しんでいたことを横から勝手に覗き見られていたような気がして、ただただ不快だった。寝る前に確かに閉めていたはずのフスマが知らない間に開けられていたことがまず気持ち悪いし、そもそも家族全員がそろう部屋からこちらの部屋が全て丸見えになるような場所を子供部屋にするのもおかしいと思った。まるでペットの飼育小屋じゃないか。それとも刑務所か。そんなに子供の全てを観察したいのか。たとえまだ小さくとも、こっちだって人間だ。
「ハァ……」
向こうに気付かれないように気を付けながら小さなため息をつくと、自室を出て「おはよう」と言った。
僕はまた不安と恐怖に脳を焼かれながら学校へ向かい、授業中また教科書とノートを出し忘れては教師に怒鳴られ、昼休みになると一輪車を乗り回した。帰りのホームルームの時間になり、宿題の回収が始まった。教卓の上に次々とノートが積まれていく。昨日提出できなかった者の大半があの算数ドリルを攻略してしまったらしい。不安と恐怖の上を、さらに「焦り」が覆う。みんなあの宿題をちゃんと片付けていた。ひょっとしてあのドリルは簡単だったのだろうか。それを僕は最後までやらずに夜寝てしまったのか?
……なんて僕は怠け者なのだろう、と思った。問題を解くこと自体は確かに遅かったかもしれないが、やろうと思えば最後までできたはずなのだ。夜は眠りたいというただそれだけのために宿題をサボったりしたから、「居残り」なんてものをするハメになるのだ。自業自得だ。担任は教卓の上のノートの数を数えた。
「えーと、これで全部か。となると、提出できてないのは5人だな?」
クラスの名簿を確認する教師。
「斎藤、西山、浜野、矢野、山寺。今日ここで全部終わらせてから帰るように」
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昨日の夜にも見た数字たちと、再び向き合った。「終わるまで帰れない」というプレッシャーからか、目に入ってくるすべての数字が意味を持って頭の中に飛び込んできた。数字を動かす。………解ける。また動かす。解ける。動かす。動かす。動かす。
「一刻も早く帰りたい」という思いが僕を突き動かし、かつてない集中力を発揮させていた。
ガタッ。
誰かが席を立つ音がした。ふと見ると、斎藤敬が教卓の後ろに座る担任にノートを手渡していた。担任はノートをじっくり見ると、軽くうなずいてノートを閉じた。
「はい、OK。帰って良し。」
「さようなら。」
「はい、お疲れさん。」
とても淡々としていた。斎藤君ってあまり宿題をサボるような人には見えない。そういえばサッカー部に入ってるらしいと聞いたことがあった。今回は部活が忙しくてたまたま提出が遅れただけなのかもしれなかった。
(僕も早く終わらせなくては。)
残りの問題はあと6問だった。
しばらく計算ドリルに向き合っていると、教師が席を立った。扉の前で立ち止まり、
「5分程で戻るので、悪いがその間に終わっても帰らないように。」
と言って出て行った。僕はふとほかの居残っている人たちの様子を見た。山寺さんは長い髪の毛の先を指先でクルクル回しながら、退屈そうにペンを走らせていた。その隣で浜野さんが頭を抱えている。矢野君はというと……何やらすごい勢いでペンを走らせていた。
(算数得意なのかな?僕にはあの速さで解くことはできないな。ああ、いかんいかん。また飛んで行ってしまった。ドリルが進まない。)
僕は解きかけの問題を見た。見たまま、しばらく動かなかった。何分かの時間が経ち、自分が止まってしまっていたことに気付いた。慌てて紙の上の数字を拾う。一度頭の中に保存して、次に必要な数字を取り込もうとする。頭の中に浮かべたその2つを足そうとしたとき、一つ前の数字が、消えた。
(まずい。)
数字がこぼれ始めている。何とか気力を振り絞って解き進めようとする。
ガラガラ。
扉が開き、教師が戻ってきた。すると、横からガタガタと次々に席を立つ音がした。矢野君と山寺さんだった。2人は教師にノートを手渡してOKをもらうと、帰りの支度を始めた。
(ヤバイ。僕はまだ帰れない。早く問題を片付けなくては。)
焦りが増す。しかし、ドリルの方を見ても数字たちは意味を教えてくれず、僕にはほとんど模様に見え始めていた。矢野君と山寺さんが教師に「さよなら」を告げる。山寺さんはランドセルを背負うと、何やら浜野さんに話しかけていた。
「はまのん、がんばってね。玄関のトコで待ってるから。」
「うん。ありがと。」
さっきまでとても苦しそうな表情だった浜野さんが、柔らかく微笑んだ。
「んじゃ、お先な。」
親切なことに、矢野君も僕に声をかけてくれた。
「ん。」
僕は軽く左手を挙げて応えた。2人はほぼ同時に教室を出て行った。
問題は残りあと3問にまで迫っていた。視界に入る数字はもうほとんど零れ落ちたり、ただの模様になったりしていた。時々気力を振り絞って意味をなんとかすくい取り、計算をひと粒だけ前に進める。そんな状態がもう30分くらいは続いていた。僕ともう一人取り残されている浜野さんの方を見ると、どこか悲しそうな顔をしていた。僕は一旦目を瞑り、肩を回した。脳に血が欲しかった。それからまた30分くらい経って、僕は残りの問題を解いた。席を立ち、教卓の後ろに座る教師にノートを手渡した。これでやっと帰れる……。
教師はノートをめくる。もう一枚めくって、手が止まる。
「ん?これで全部か?」
「はい?」
一瞬、何を聞かれているのか分からなかった。
「まだあと5問、残ってるぞ。」
「…………………。」
「昨日出した分ですよ。まだ帰るなよ。」
この時、僕の全てが止まった。目の前が真っ白になるって、こういう感じなんだ。
席に座り、計算ドリルに並んだ模様たちを眺めていた。教師に「今僕は問題を解いています」という姿勢を見せておくため、一応シャーペンを握っていた。もう家に帰ることはできないと悟った。目の前に居座る教師がいくら底意地の悪いヤツとはいえ、これは悪意によるものではない。今回ばかりは出された宿題を終わらせなかった、自分が悪いのだ。
―――――自業自得
4文字がまた頭の中をよぎる。よぎりながら、僕の心を切り裂いていく。自分自身への失望から、もっともっと切り裂きたくなって、頭の中で通り過ぎたそれを呼び戻しては、何度も何度も自業自得を振りかざす。振りかざすたび、心臓が大きく波打った。それでも止めなかった。僕は僕を切り裂かずにはいられなかった。
やがて浜野さんが席を立ち、教師にノートを見せる。一度でOKをもらい、席に戻って帰り支度を始めていた。浜野さんはとても小さな声で、
「端稀、ゴメン…」
とつぶやいた。ように聴こえた。
(端稀…?ああ、山寺さんか。)
思考が旅を始めていた僕は、目の前に数字が存在していることすら忘れてしまっていた。
僕は車に揺られていた。ヘッドライトがアスファルトを照らす。ようやく帰れるという安心と、乗りなれない車種に乗っていることへのワクワク感と、自分の嫌いな人間が隣でハンドルを握っているという恐怖と、大きな疲労と、空腹が、僕の中でごった返していた。結局僕は自力で計算ドリルを終わらせることができず、見かねた教師が目の前に座って解き方を手取り足取り教えてくれた。僕はほとんど頭を使っていなかった。ただただ指示通りにシャーペンを動かし、数字を書き込み、ノートを埋めていった。すべてが終わったころには、もう夕方の6時を回っていた。親には電話を入れていたらしく、僕は教師の車で自宅に送還されることになった。家に着き、僕は母に引き渡された。そしてそのまま中へ入るようにと言われ、自分の部屋に向かった。去り際、母は教師に何度も頭を下げ、謝り倒しているように見えた。
机の横の棚にランドセルを置き、ゆっくりとフタを開ける。夕飯はすでに用意されているようだった。しかし、家族が勢ぞろいしている茶の間に入ることに抵抗を感じて、明日の時間割の準備をして時間稼ぎをしようと試みた。明日使う教科書を机の上に集めていると、いつのまにか部屋の入り口に母が立っていた。
「……今日は何か宿題はあるの?」
(今日の宿題……?ああ、そういえば漢字ドリルが1ページ分だけ出されていたっけ。夕飯の後にゆっくりやれば終わるだろう。)
「漢字ドリルがちょっとある」
僕は応えた。
「そう、なら今やりなさい。」
「え?」
「宿題終わるまで、夕飯あげないから」
母は茶の間に戻っていった。
僕は左手でお腹をおさえながら、右手に鉛筆を握っていた。手は多少震えているが、今残っている体力の全てを右手に込めれば、握れないことはなかった。頭への負荷が重い算数に比べれば、ただ線をなぞるだけの漢字ドリルは簡単だ。なのに、なんでだろう、線一本引く事さえできない。終わりが見えているのに、何をすればいいか分かっているのに、全然前に進めない。右手に力を集中させたとたん、それ以外の全ての部分から力が抜けてしまう。僕は椅子から転げ落ちそうになった。机の端を右手で力いっぱいつかみ、左手で椅子の端を持って、両腕に体力を分ける。左で上体を持ち上げ、右で引っ張り上げる。何とか元の位置に戻った。再び意識を鉛筆とドリルに向けようをしたとき、空っぽの胃袋が波打った。脳と右手に振り分けていたエネルギーが全てそちらに持っていかれ、また転げ落ちそうになった。もう一度両腕に体力を分け与え、元の位置に戻った。
一体何回繰り返しただろう。今ではあまりよく覚えていない。机に留まることができた隙に一画ずつ書き入れて、最後までなんとかやり遂げたということくらいは覚えている。こうして今も生き永らえているのだから、きっとあの後、とりあえず飯を食うことはできたんだろう。
車の免許を取る前は「初めて運転席に座る時ってきっと感動するんだろうなぁ」と思ってたけど、いざ教習所で初めて乗った時は頭が学校の授業モードになってて、感動するのを忘れてた。思い出作り忘れてちょっともったいない。