〈2〉不穏な日
教室に入ると、もうすでに十数名の同級生が登校していた。家が学校に近い人たちは必然的に早く到着する。しかし、その中に普段から親しく声を掛け合うような間柄の者はいなかった。
僕は入学した時から比較的周囲から疎まれるような人間だったと思う。不衛生な振る舞いをしていたことと、「周りに合わせる」ということが苦手だったのが関係しているのだろうけど、はっきりした理由は今でもよくわからない。気が付いた時にはもう手遅れで、いつの間にか嫌われ者になっているように感じた。
いや、というよりは、距離を置かれていた、と言い表す方が正確なのかもしれない。周囲の人間の僕に対する扱いはまるで珍獣を動物園で観察しているかのようだった。何か用があって他人に話しかけてみれば「永二が何か訊いてきてるんだけど(笑)」と周囲の人間にいちいち報告しに行くような様子がしばしばみられた。パンダの食事風景を見て「あっ、笹を掴んだ!」「あっ、咥えた!」「あっ、食べた!」と、一つ一つの動きを奇妙がって指差しするのと似ている。一人の人間として扱われている心地がしなかった。
向こうが距離を取るなら、こちらも近づく必要はない。僕はいつも教室に無言で入っていき、自分の机に向かう。席に着くまで誰もこちらには見向きもせず、近くの者たちと談笑していた。それにしても、周囲の人間に「遺物に対する排除欲」のようなものが薄かったのは幸いだったと思う。あまり居心地よくはないが、とりあえずは平和に過ごすことができた。
僕はランドセルから本を取り出して開いた。朝のホームルームが始まる前に、10分程の「読書の時間」なるものがあり、その時間を前倒しした。僕はあるエッセイストの本を、どれくらい読んだのか分からなくなるくらい、何度も繰り返し読んでいた。他の本を探すのが面倒だったこともあるけど、何よりこの本に強く引き込まれていた。作者の日常の体験談がただひたすら述べられているだけなのだが、その語り口がとても自由かつ的確で、言いたいことを好き放題書き散らかしているように見えた。
当時の僕には衝撃だった。作文とは、どこかに先生が気に入るような「正解」があって、それを探り当てながら、教科書が教えてくれる「型」に沿って組み立てなければならないものだと思っていた。なのに、この本の作者の文章にはそもそも「型」自体がなかった。「クセ」のようなものが存在しているのは何となく感じ取れたのだが、ルールめいた何かに縛られているようには見えなかった。
その自由な語り口を目で追っているうちは、日々の嫌なことを少しだけ忘れることができた。……ような気がした。
「おはよう。」
上から声が降ってきた。顔を上げると、クラスメイトの矢野拓馬が立っていた。登校してくる時間が近くて、声を掛けてくることがしばしばあった。
「ん、おはよう。」
僕の存在を迷惑がっているであろう他人に自ら近づいていくことは遠慮していたけど、向こうからの意思で接触しに来る者に対しては、できるだけ拒まず受け入れるように心掛けていた。礼儀は尽くさねばならない。
「お前、読書好きだな。」
「まあね。」
「……」
「……」
会話が止まった。一体何のやり取りをしたかったのだろう。こういう時、何か気の利いた一言を言うべきなのだろうけど、なにも思い浮かばず、僕は目の前の本に視線を戻した。矢野君は机に両手をついて、こちらをうかがっている。読書を続けて「今は取り込み中」のふりをしていればそのうち離れてくれるんじゃないかという思考がよぎるも、予想に反して矢野君は何事もなかったかのように会話を再開した。
「そういえば、昨日の宿題やった?」
「…やってない。」
今その話題はやめてくれよ。本に視線を置いたまま、内心思った言葉を内に封印しながら全く別の言葉で答えた。矢野君はこちらの心情を知ってか知らずか、そのまま話を続けた。
「よかったー。オレもなんだよ。父親とスマブラやってたんだけどさ、何回戦っても勝てなくてムキになってたら時間なくなっちまってよ」
そう話す矢野君は、どこか嬉しそうに見えた。
(父親さん、一緒にスマブラしてくれるのか。うらやましいな。僕の父はゲーム機をすべて一括りに「ピコピコ」と呼んで毛嫌っているというのに。任天堂なめんなよ。)
この胸の内も、僕は無表情の中に隠した。
「そうか。父親さん強いんだな。」
「あたぼうよ。俺の生まれる前からやってんだ。しっかし悔しいな。今日帰ったらもう一回挑んでやる。」
いやいや。宿題はどうした。
「あ、本の邪魔して悪かったな。んじゃ。」
矢野君は左手を振って去っていった。何とも自由な人だ。再び本の世界に浸ろうとしたが、前の扉から先生が入ってきてHRが始まった。現実逃避はもはやこれまでだった。
―――――
一時間目の国語も、二時間目の体育も、ただ時が過ぎていくのを感じ取っているだけで、ほとんど身が入らなかった。休み時間は移動がない限り本を読んだ。そうしていないと怖くて仕方がなかった。
四時限目は社会だった。内容は歴史。
「自由民権運動を行った板垣退助は演説をしている最中に襲われてしまうのですが、その時にある名言を残しています。知っている人、誰かいますか?もしいたら
みんなの今日の宿題、少なくしてあげますよ。」
先生が片手をあげてみんなの挙手を促した。あ、コレ進研ゼミでやったやつだ。正確には付録に入っていた歴史マンガで見かけただけなんだけど。
「『板垣死すとも自由は死せず』」
とっさに口をついて言葉が出た。挙手はしていなかった。
「その通り。確かにその通りだが、お前には前科がある。よって絶対に認めない」
教師はそれまでの愛想笑いをやめ、真顔で言い放った。そしてそのまま何事もなかったかのように授業を続けた。僕のせいで本日の宿題減量チャンスは消滅した。クラスメイト達は僕を責めるまなざしを…………向けてくることはなかった。そのかわりに、目の前で淡々と教科書を読み上げている身勝手なオジサンの振舞にただ呆れている様子だった。今までにも、当人のその日の気分の良し悪しで宿題の量が増えたり減ったりしてきたから、そのたびに教師に向けられる白けた目線は、このクラスではよく見られる景色だった。中には機嫌取りを試みて先生にヨイショを仕掛ける強者もいたが、大抵逆効果だった。どっちが子供なんだか……。
「ところでお前、教科書とノートはどうした。」
教師に言われてから、気付いた。そういえば机の上に何も出していない。向こうが教科書片手に一方的に話をしているものだから、そちらを聴くことに集中していてすっかり忘れていた。僕はあまりノートをとる方ではなかった。「聴く」と「書く」を同時にこなせるほど、器用じゃなかった。
(一応出しておくか。)
僕は机の引き出しを開けて教科書とノートを取り出し、机の上に広げた。
「なんだ、忘れていたんじゃなかったのか。持っていて、あえて出さなかったんだな?お前の態度は私への反抗と見た。今から10年くらい前なら平手でバチーン!ですよ。今やったら問題になるからやりませんがね!」
教師は僕の目の前でビンタするフリをしながら、吐き捨てるように言い放った。
またか、という感じだった。クラスの誰かが教師の地雷を踏むと、必ず目の前でおなじみのセリフとともに「エアビンタ」をした。今回もクラスメイト達は特に怯えるようなこともなく、淡々と黒板の内容を書き写していた。
給食の時間のあとで昼休みが長めにあったが、ため込んだ宿題に手を付ける気にはなれなかった。休み時間は、休みたい。昼休みの後には掃除の時間があったので、あらかじめ頭に三角頭巾を被り、教室を後にして校庭に出た。校庭の隅にはコンクリート建ての体育倉庫があり、その一室が一輪車専用倉庫になっていた。二段の棚に20台くらいの一輪車が掛けられていた。その中から、いつも使っているお気に入りの一台を探す。
(あった。)
車輪が小さめで、その割にサドルが高く設定されている変わった一台だ。一輪車は早い者勝ちで、状態の良いものはすぐに無くなってしまう。昼休みの時間に出遅れると、いつもタイヤの空気が抜けていてまともに乗れないようなものばかりが売れ残っていた。そうなれば一輪車遊びはあきらめざるを得ない。しかしどういうわけか、この車輪の小さな一台だけは、タイヤの状態が良好なのにもかかわらずよく売れ残っていた。
タイヤサイズが低学年用なのに、サドルの高さがなぜか高学年用にカスタマイズされていたので、きっとそのアンバランスさが原因で嫌われていたのだろう。僕はタイヤに空気がちゃんと入っていて足が届きさえすれば構わなかったので、いつも売れ残るその一台を持ち出していた。いつしかこの一台に慣れてしまって、タイヤが大きい本来の高学年用の一輪車がもし残っていたとしてもこの一台を選ぶようになっていた。
僕はほぼ毎日、昼休みになると一輪車に乗った。乗り物を操って徒歩以上の移動能力を得ると、僕は少し自由になれた気がした。小学生のうちは家から学校までの自転車通学が許されていなかった。中学生からであれば通学で乗ってもいいのだが、小学生は放課後や休日くらいにしか乗ることができない。しかし、一輪車は学校にいながら乗ることが許される唯一の乗り物だった。そのことに気付いてからというもの、僕は「移動の自由」を楽しむために一輪車に乗る練習をし、気付けば校庭の隅々まで乗り回すようになっていた。この日も昼休み終了のチャイムが鳴るまで走り回った。一輪車をもとの棚に戻すと、掃除場所に割り当てられた音楽室に向かった。
掃除の時間が過ぎ去り、ついに恐れていた時間がやってきた。五時間目の算数だ。「逃げる」という選択肢が人生にはあるということをもしもこの時に知っていたなら、僕はきっと授業が終わるまでの間ずっとトイレにでも籠ってやり過ごしたかもしれない。しかし僕にはそんな賢さも知恵もなかった。脳の中で重力が回転しているかのような得体のしれない気持ち悪さを抱えたまま、僕は真面目に席に着いた。いや、「席に着くべし」という暗黙のルールを真に受けてしまっていただけだった。
やがてまたあの教師がやってきた。僕は午前中に注意されたことを思い出し、教科書とノートを机の上に出しておいた。不機嫌という言葉を人間に変換して実体化させたようなこの男に、これ以上黒いエネルギーを巻き散らかしてほしくなかった。授業は淡々と始まり、進んでいった。
僕はいつ宿題の話になるのか気が気でなく、授業の内容が頭に入ってこなかった。教師が教科書を読み上げ、黒板に数字を並べて解説していく。僕の目には単なる景色だけが映り、脳はそれを「意味」に変えてくれはしなかった。そのうち景色を見ているだけの時間が退屈になったのか、気が付けば昨日の夕方に読んだマンガのワンシーンを映画を見ているかのように脳内再生していた。僕自身がそれに気が付くと、あえてさっきまで再生していたシーンからその前のシーンにまでさかのぼろうとした。
暗黙の力で机とイスという狭い空間に体の自由を奪われている以上、逃げられるのは頭の中以外なかった。しかし、ずっと空想世界に居座り続けることもできず、僕は時々目の前の教科書に書いてある数字の意味をつい拾ってしまった。拾ったからには、と、僕は問題を解いた。
授業の退屈しのぎに空想をして、空想に疲れると問題を解いた。しばらく繰り返しているうちに、終わりの時間が近づいてきた。今回は授業中に指されることもなかった。
「それでは、昨日の宿題を集めます。」
突然の宣言に、心臓が強く波打った。教室中の席からクラスメイトたちが次々に立ち上がり、教卓の方へ流れていった。ノートが次々に積まれていく。僕は黙って教科書とノートを静かにしまった。教卓の方をチラッと見ると、教師はカバンに何やら書類を詰めていた。僕が席を立たなかったことは、とりあえずバレていないようだ。人の波が収まり、ノートを出し終えたクラスメイト達が次々に席に戻っていく。
「ちょっと少ないか?まあ今日は会議があって“のこべん”はできないので、出せなかった人は明日までに仕上げてくるように」
宿題を出せなかったのは僕だけではないようだった。
(助かった。今日は家に帰れる。)
内側でバクバクしていたものも次第に落ち着きを取り戻していた。
家に帰ると、学習机の隣の棚にランドセルを置き、明日の時間割に合わせて中身を入れ替えた。今日は幸運にも居残りせずに済んだ。チャンスだった。
(ため込んだ宿題、今のうちに片付けてしまおう。)
と、その前に今日出された分の宿題を先に終わらせなければ。この日は、漢字ドリル2ページ分が出されていた。何も考えないで線をなぞってさえいれば終わる。本当はちゃんと字を覚えようとした方がいいのだけれど、そんなことにエネルギーを注ぐ余裕はなかった。僕は無心で、漢字ドリルが指示してくる線を鉛筆でなぞった。頭を動かす必要のない単なる「作業」は、いつの間にか完成した。
スイッチが入ってきた僕は、漢字ドリルをランドセルに仕舞い、そのまま算数ドリルを取り出した。今なら、ため込んだ17問の計算問題を全て撃破できるような気がした。式に目を通す。今日は数字がただの模様に見えることはなく、ちゃんと意味を持った記号として頭に入り込んできてくれた。そして、答えの導き方を記憶の中から呼び出す。机の上で数字を動かす。動いた。このまま進めば解けそうだ。……解けた。だが、達成感をいちいち味わっているようなヒマはなかった。目の前にはまだ、16問もの式たちが横たわっている。次の一問に取り掛かる。意味を拾う。数字を動かす。解けた。また意味を拾う。数字を動かす……
ザー!
「あ、おかえり。帰ってきてたんだ。」
部屋のフスマが突然母に開けられた。両親が帰ってきたことに、すっかり気付かなかった。
「…ただいま。」
「居るんなら『おかえり』くらい言ってよ。さびしいじゃない。」
「…うん。」
「あ、それでさ、今日夕飯カレーかうどんどっちがいい?」
唐突な二択だ。まだそんなにおなか空いてないし、特に何を食べたいっていう気分じゃなかった。とりあえず直感で。
「カレーで。」
「え~……。カレーかぁ。」
「……やっぱりうどんで。」
「分かった!うどんね。」
母はその場を去った。フスマも閉めずに。選ばせたいものを僕に選ばせた後で。
とりあえず僕は机から離れ、フスマを閉めた。向かいの部屋に足音が入っていく。テレビの音が小さく聴こえ出した。父がニュース番組を見始めたようだった。再び机に戻り、ノートに向き合った。数字を動かしている途中の様子が、紙の上に描かれていた。一瞬前のことなのに、何をどう動かしていたのかすっかり忘れてしまっていた。とりあえず問題の初めからなぞってみることにした。数式に目を通す。だんだん数字が頭から零れ落ちていく感じがした。ヤバイ。このままでは動けなくなってしまう。急いで過去の自分がたどった動きをなぞった。すでにほぼ終わりに近いところまで解きかけていたお陰で、何とか答えを出すことができた。
(今何時なんだろう。)
ふと、タンスの上に置いてある目覚まし時計の方を見た。まだ、夕飯まで時間がありそうだった。目覚まし時計は、かつて通信教材のアンケートはがきの応募でもらったものだった。教材のマスコットキャラクターと、時計の姿をしたキャラクターが隣り合って合わさった形をしていて、時間になると「おはよう、朝だよ!」と元気よく起してくれる。そういえば、あのキャラクターを演じている人は、最近読んでいるマンガのアニメ化作品にも出演していたはずだ。色々なところに出てるんだよな。あの人。そんで作品ごとに声の雰囲気がまるで違う。プロって凄いよなー。道を究めている。僕には究められそうなものが何も見当たらない。将来ちゃんとこの世に生きてんのかな…?何を武器にして身を守っていけばいいんだろう?いや、今は戦争なんてやってないんだから、必要なのは「武器」より「特技」か。「武器より特技」、何かのキャッチコピーっぽいな………。
(……あれ?今なんでキャッチコピーのことなんて考えてたんだろう。)
ふと、我に返った。目の前にはただ数字が書き並べられたノートと、「この問題を解きましょう」と無言で迫ってくるドリルだけが置かれていた。
(あー、ダメだ。宿題終わらせなくちゃ。)
長く机に居座ると、いつもこうだった。考えていることがあちこちに飛んで行ってしまって、元居たところがどこだったのかさえ分からなくなってしまう。こういうのなんていうんだっけ?「迷宮」?「ラビリンス」?そういえば奥の物置部屋に「ラビリンス」って手書きのタイトルの付いたDVDがあったな。あれって確か映画だっけ?ホラーものだったような気がする。あれ?違ったかな?どのみち見たいとは思わないな……。
(……ドリル進めなきゃ。)
このままでは宿題が永遠に終わらない。いままでに二度も放課後の居残りを見逃されていた。もう次はなかった。僕は必死にドリルの数字に目を落とした。しかしもうそれらは意味を持った記号ではなく、ただの模様にしか見えなくなっていた。
結局ドリルの模様と一人雑談の間を行ったり来たりするのを繰り返し、時は過ぎた。夕飯の後に再び宿題に向き合おうという気は起きず、残り9問を残したまま、その日は布団に入ってしまった。この日もまた、何者かに追われながら走ることができない夢を見た。
セリフが録音された目覚まし時計って、電池交換の前と後で声のテンションが違ってたりする。エネルギーマックスの時はハイテンションで起してくれる。ビクッっと起きてた。