〈1〉冷たいところ
久しぶりにマンガを買ってきた。半年に一巻くらいのペースで新刊が出るマンガだ。クラスの中でほぼ全員が知っているようなRPGのストーリーをコミカライズしたものだった。夕飯を食べ終わると僕は自分の部屋に急いで戻り、扇風機をつけてベッドの上に座った。そして買ってきたばかりのマンガを開いた。
『いいかい、みんな。僕は3日後、この家を出る。みんなは前に渡した計画書の通りに動くんだ。』
『ねえ、本当に行っちゃうの?お兄ちゃん。』『いやだよ、行かないでよ』
『心配かけてごめんよ。でもこれは僕の夢のためなんだ。父さんは僕の夢を認めてくれない。それなら、父さんの知らないうちに叶えてしまえばいいんだ。自分の力で夢を叶えて、父さんを見返してやるんだ。しばらくこの家を離れるけど、みんなを忘れたりはしないよ。だから少しだけ、力を貸してほしいんだ。』
『うん…分かった。』
その少年の手には、「家出計画書」と書かれた小さな紙があった。弟妹達がリビングに戻って両親と談笑する声が聴こえてくると、少年は裏口から外の世界へ飛び出していった…
――――――
家出か……
そうか、そんな方法もあったのか。
まあ、自分にはできないだろうと思うけど。
再び、夢追う一人の少年の冒険譚を読み進める。
『○○巻へ続く!!』
少年が森の中の崖で足を踏み外し、全身を緑の葉で覆った謎の人物に受け止められたところで巻が終わった。きっと次巻はこの謎の人物の話だ。
(ふう。)
ずっと下を向いたまま集中して読んでいたせいか、少し肩がこる。僕はマンガを閉じて伸びをした。
(それにしても、家出か……。家出ねぇ……。僕にはできないだろうけど。でも、うーん、家出ねぇ……。)
僕はマンガを本棚に収めた。ふと学習机の下に置いていたランドセルを見る。この日は計算ドリルの宿題が出ていた。前に出された分の提出を忘れていたせいで、やるべきことが倍増していた。先生が「忘れた分は次に出してくれればいい」と、おまけしてくれていたのだった。
(……風呂上がってからやるか。)
あの量を片付けるには少々気合がいる。一度風呂に入って一息つくことにした。
風呂から上がってパジャマに着替えると、僕は学習机のイスに座った。何も考えずにノートさえ開いてしまえば、嫌でも作業を始められる。学校から与えられる課題には、いつもそうやって向き合ってきた。ランドセルからドリルとノートを取り出し、机に広げる。単純な計算問題が目の前に並んでいる。ため込んでいる分を含めると、この日やらなければならないのはおよそ20問くらいあった。
授業で習ったばかりのやり方で、一問目を解き始める。素直に手順通りにすれば、ちゃんと答えの数字が出てきてくれる。ただ、細かな暗算をするとき、かなり頭が疲れる。二問めも何とか答えにたどり着くが、明らかにペースダウンしていた。目を通して紙の上の数字たちを脳みそに流し込もうとするが、だんだんその文字の意味を感じ取れなくなっていき、いつしかただの模様として眺めているだけになっている。
気が付くと、頭の中には今日買ったマンガのシーンばかりがぽつりぽつりと浮かんでいた。あの主人公もまだ子供だから、外へ出るにしても歩くしかなかった。もし車を運転できる歳なら、車に乗ってどこまでも好きな場所に行けるのに。雨風さえ気にすることなく、どこまでも駆けて行けるのに。……こんな所から今すぐ逃げ出して、自由になれるのに。
頭の中の世界を漂ううち、あのマンガの主人公に同情しているのか、あるいは自分自身のことを考えているのか、だんだんわからなくなっていった。ふと、目の前の時計が目に入る。シャーペンを握ったまま、何もせずに15分くらい経ってしまっていた。
(ダメだ。問題解かなきゃ…。)
目の前の模様に一層の集中力をかけて、再び文字としての意味を拾い始める。問われていることは分かったが、足したり引いたりするための数字を頭にとどめようとすると、その数字を増やすたびにその容れ物が重くなって、耐えきれずにこぼれて行ってしまう。浮かべては消え、浮かべては消え。時々あのファンタジー世界に迷い込んでは、また我に返り。五問目を解き終わるころには、もう寝る時間になっていた。
(…明日朝早く起きてからやるか。)
僕はドリルとノートを閉じると、洗面所に行って歯を磨いた。
(明日起きられるかな……。)
頭は重くなり、強い睡魔にさらされていた。水を飲んだりトイレに行ったり、寝る前のいつものルーティンを終えると、僕はベッドに横になった。
(明日は早く起きなきゃ。ドリルやらなきゃ。)
何かつっかえるものが取れないまま、僕は眠りについた。
~~~~~
気が付くと僕は壁に背をつけながら座っていた。さっきまで走っていたのだろうか、息が上がっている。遠くで誰かが駆け抜けていく気配がする。ここに居ては捕まってしまう。……誰に?分からないけど、走らなきゃ。僕は立ち上がり、気配がした方向と逆の方へ走り出す。
が、走っているはずなのに、明らかに進むのが遅い。全身にはありったけの力を込めている。足を前に出せと、脳が筋肉に指令を出し続けている。それなのに、意識に流れる時間よりも、体の動きがはるかに遅い。足が重いわけではない。後ろから糸で引っ張られているわけでも、向かい風の抵抗を受けているわけでもない。まるで処理が追い付かない重い動画の世界に入り込んだかのように、足が前に出ない。
(はやく逃げなきゃ。足!前に出ろ!もっと早く!)
気配が後ろから近づいてくる。
(見つかる……!)
僕は思わずその場にしゃがみこんだ。そのままこの身が透明になってくれはしないかと願った。夢の中なら、何だってできるだろ?!
僕はその場でじっと耐えた。体が透明になることはなかったが、気配はそのまま僕のすぐ脇を素通りしてどこかへ消えていった。全身の緊張が解けた。立ち上がってあたりを見渡すと、僕はいつの間にか校庭の隅に立っていた。雲はないけど、曇りの日のような薄暗さだ。まるで灰色の世界。だけど、かすかに色がある。ふと上を見上げると、大きな飛行機が3機ほどこちらに飛んできているのが見えた。翼の両端に大きなプロペラがあり、前を向いて回っていたそれは少しづつ上に角度を変え始める。
あれは……。外国で飛行試験中に墜落したっていうニュースがテレビでよく流れていたあの機体じゃないか?
空中でスピードを緩めるその機体たちを眺めていると、その中の一つが姿勢を崩し始めた。つばさが右へ傾き、ゆっくりと降下する。そのまま10mくらい離れた所に落下した。
機体は校庭の砂の中にめり込み、まるで砂漠にのみこまれたような格好になった。砂煙が上がり、こちらへ飛んでくる。とっさに両腕を前に出して身を守った。一機目のすぐ後ろに、二機目が落下する。砂嵐の第二波に耐えきれず、その場に倒れてしまった。そしてそのまま、僕は意識を手放した。
~~~~~
目が開いた。でも、体が暗くて柔らかいところに横たわっていて、何も見えなかった。起きているという感覚は何となくわかった。眠気とだるさが全身を包んでいた。さっきまで見ていた映像が脳裏に浮かぶ。ただそれだけ。このまま脱力に抗わなければ、そのまま深いところに落ちていきそうだった。僕は、何もしなかった。
~~~~~
ふと気が付くと、僕はうつ伏せに倒れていた。これは……、地面じゃない。木の床……?顔を上げると、どうやら僕は体育館の舞台袖の扉の近くに寝そべっていたようだ。
(…?あれ?さっきまでどこにいたんだっけ?)
倒れたまま、なんとなく木の床に顔を伏せた。
「おい!●●●が倒れてるぞ!」
声が聴こえた。
まずい。見つかってしまう。来るな。近づくな。
思いに反して気配は容赦なく近づいてくる。左の二の腕を掴まれた。こうなったらいっそ、死んだフリをしてやる。
「オイ、大丈夫か!」
そのまま上体を持ち上げられる。目をつぶっているから、視覚以外の身体の感覚しかない。
「あれ…?コイツ●●●じゃないぞ…?」
「というか、なんか体小さくねえか?」
頭の先の方からもう一人の声が聴こえる。
「ほんとだ。確かに小さいな。ん?コイツ女の子じゃねーか?いや、誰だ?」
(女の子?いったい何の話をしているんだ?というか、僕であることは気付かれていないのか?)
「とにかく、このままじゃ何かヤバそうだから、連れてこうぜ。」
もう片方の腕を持ち上げられた。二人の誰かが両側に付いて、肩に担がれる。まるで倒れたケガ人を運ぶかのように引っ張られる。
(ヤメろ。連れて行くな。)
しかし、今更死んだふりを止めるわけにはいかず、脱力したままゆっくりと引きずられてしまう。
(ヤめろ……。ヤメろ……。ヤメロ……!)
僕は心の中で必死に叫びながら、再び意識を手放していった……。
~~~~~
気が付くと、僕は布団の中にいた。部屋の中が朝日で少しだけ明るくなっている。体の力が抜け切っていて、全身が重い。
帰ってきた、そんな気がした。
何か夢を見ていたような気がする。輪郭のはっきりしない灰色の景色が、ぼんやりと頭に浮かぶ。何か嫌な夢だったと思う。あと少しで思い出せそう。そんなとき、薄明るい部屋の壁に浮かぶ時計の針が目に入った。…そういえば、今何時だ?目が慣れる。時計は7時6分くらいを指していた。普段通りの起床時間だった。しかし、自分が思い描いていた時間ではなかった。
(……もう宿題やってるヒマ無いじゃん。)
起きる気が失せた。そのまま目を閉じ、まだ体中を覆う眠気が自然に消えるくらいまで眠ろうと思った。
「7時過ぎたぞー!」
ふすまの向こうの叫び声で、体感的には1秒にも満たない眠りから突然覚めた。
「おーい、7時過ぎたよー、7時過ぎたよー!」
部屋の外から半ば発狂とも取れるような大声がした。
ぴしゃ!!
部屋のふすまが開く音がする。
「7時過ぎたよー!7時過ぎたよー!」
布団の上から全身を激しく揺すられる。頭上からパニックめいた単語が何度も何度も降ってくる。……不快だ。この状況は僕が起き上がらない限り、永遠に続いてしまうような気がした。仕方なく腰と腕になけなしの力を集中させる。発狂は、止まった。
「もう!7時過ぎてるよー!遅刻しちゃうよ!早く起きな!」
念を押すかのように言い放つと、母は部屋を出て行った。壁の時計は7時半を過ぎていた。
(……はあ。いそがなきゃ。)
身体にまとわりつく眠気を引きずりながら、僕は立ち上がった。
今思えば、母はなぜあそこまで必死になっていたんだろうかと思う。まるで僕の遅刻が母自身の死につながるのかと思うほどの乱れぶりだった。あんなものを間近で見せつけられたら、もしかしてこちらの身にも何か危険が迫っているのではないかと怖くなってくる。もはやトラウマだ。
僕は自室を出てトイレを済ませると、茶の間のいつもの位置に座った。父もまた、いつもの位置に座って、新聞を読んでいた。
「おはよう。」
「…おはよう。」
いつものように「おはよう」を投げかけられ、僕は力無く応える。テーブルの上に用意されていた朝食を流し込むように身体に取り込み、急いで出発の支度をする。姉はもうすでに家から出発していたようだ。中学生は登校時間が異なる。僕が玄関で靴を履いていると、母が台所から出て見送りに来た。
「慌てないで行きなね。」
「……行ってきます。」
イラっとした。
あれだけ人のことを死に物狂いで急かしておきながら、いざ本人が急ごうとしたら「慌てるな」だ?一体この人は何を考えているんだろう。僕のことをどうしたいんだろう。
……いちいち相手にするのも面倒で、僕はさっさと家を出た。宿題のことなんかもう諦めていた。
いつものように登校班の列に紛れ、湿ったアスファルトの上を歩く。宿題を終えることのできなかった後ろめたさと、またあの教師に詰められるかもしれないという不安と恐怖に、脳が焼かれるような思いがした。遠くからでもよく見える大きな校舎が近づくたび、頭に重くのしかかる不快感は強まっていった。下駄箱の前に立ったころにはピークに達した。胸から脳にかけて何か不快な熱のようなうねりが湧いて登ってくる。
今思えば、あの気の重さはもはや仮病を装えるくらいのレベルだったんじゃないかと思う。実際に学校をサボって休んでしまっても良かったのかもしれないが、当時の僕にはそんな知恵も度胸も持ち合わせてはいなかった。
僕はこれから処刑に向かう囚人のような気持ちで階段を上った。
形にするって、とても時間のかかる作業だなって思う。