〈15〉コバルトメダルの高校生
僕は自転車を漕ぎ出した。今となっては日常と化した、隣町への長いサイクリングだ。高校に入学するまでは、遠出をするときは親が運転する車に乗るしかなかった。
初めてこの通学路を自分一人で走った時は、このような自由を自分が享受してしまって本当に良いのだろうか?という戸惑いと、大きな解放感を同時に味わった。川を渡るまでは大きな建物にめったに出会わないような田んぼだらけの田舎道を通っていたことも、その感覚に拍車をかけた。
僕は監獄に閉じ込められたような小学生時代、自らの手で居場所を消したあの中学生時代をやっと抜け出して、ついに新天地へとたどり着くのだ。入学したての頃はそんなことも考えた。そしてこの小さな旅のような時間を過ごせる日もいつか終わりが来て、単なる通過点になっていくのだろう。
まだ全力を出さない朝日が真正面に居座り、温もりも冷えも感じさせない空気らしさをまとう風が頬を掠めていく。二年生になってから、胸の真ん中に重黒い雲のような何かが居座り続けているような感覚が日に日に大きくなっていて、毎日寝ても醒めても消えないでいる。これはたぶん、大学受験という決戦の日を過ぎるその時まで、晴れることは無いような気がする。
小学生の頃に感じた、学校で予防接種の注射の日を一週間後に控えた夜の緊張感に似ている。強烈なストレスを未来に約束された、あの感じ。ただ、いざその瞬間を体験する時にはきっと想像しているほどの大きな苦痛がやって来ることはあまり無い。この歳まで生きれば頭で理解できるようにはなるけど、もし必要性が無いのなら回避したいくらいの痛みを、ずっと待ち続けなければならないことへの苦痛は変わらなかった。
僕はこの類の試練が襲ってくるといつも、「その瞬間が過ぎた後の世界」にタイムスリップする妄想をした。疑似的な安心感を得ようとするけど長くは続かず、いつもその場しのぎに終わった。人生なんて所詮強制参加の修行のようなものだから、「耐える」「我慢する」という選択肢しか自分には用意されていないのだ、と思い込むほかなかった。
僕は気を紛らわせるかのように、毎日通学路で自転車を漕ぎながら考え事をした。移動の他に義務付けられた仕事の無いこの時間は、誰にも邪魔されずに正当な理由のもと、罪悪感なしにひとりで自分の内側の世界に潜れるとても貴重なものだった。
誰かに連れていかれるわけでもなく、自分の意思、自分のタイミング、自分のペース、自分の足で道を進むとは、何と自由なことだろう。結局向かう先は「学校」という自分を縛る空間ではあるけれど、そこに行くまでの道程はある程度自分で選ぶことができた。あとは雨風をしのげるような快適性さえあれば完璧なのに。そう思っていた時、すぐ横の車道を一台の小さなSUVが駆けて来て、僕を追い抜いていった。
―――あ、アレ気になってるやつだ。
僕は自転車を漕ぎながら、遠ざかる後姿を眺める。
―――早く免許欲しいな。……その前に受験か。
地元の峰大という大学に受かったら車を買ってやると、高校に入る前から父に言われていた。それから僕は自分の車を手に入れたい一心で勉強に身を入れるようになった。今通っている高校も、峰大に入れるくらいのレベルかつ自分の力でなんとか手が届きそう、という理由で選んだ。全ては車のため、いや、自由を得るためだった。高校には入れた。次は大学だ。
急な下り坂に差し掛かる。他の車がいないのを確かめてから、歩道を降りて車道の左端に出た。両足を高速回転させて、重力による加速にさらにペダルの力を加えていく。それでも空気を切り裂くには力が足りなくて、少し先に見える自動車には全く追い付かない。
やがて道は平らになった。僕は勢いを殺さないように、なおもペダルを全力で踏みつけた。すると今度はさっきの下り坂と同じくらいの勾配の上り坂に差し掛かった。頂上は見上げる程高い。下り坂で作った速度の貯金が徐々に減ってゆく。ペダルが足の裏を押し返してくる。足に疲れが溜まり始めるのも構わずペダルに全力をぶつける。僕はサドルに座ったまま、足をやや前に蹴るようにして力づくでペダルを回し続けた。
頂上に近付き坂が緩むと、途端にペダルが軽くなった。頂上にある交差点の信号が赤になるのが見えた。僕は息を止めていたことに気が付き、交差点に止まってからちょっとずつ呼吸を再開した。空気の流れが止まり、全身が汗でうっすら湿っているのを感じた。
キィ
僕の真後ろで自転車のブレーキの鳴く音がした。誰かが一緒に信号待ちをしている。左の方から一台の古びたトラックが野太いエンジン音を響かせながら近づいてきて、そのまま交差点を右に通り過ぎてゆく。最近では珍しくなった、薄煙いススの臭いが鼻に届いた。
その瞬間、突然フッと、しかしぼんやりと、トランクから大量の荷物を誰かと一緒に降ろしている場面が脳裏に浮かんだ。
(…なんだっけ、コレ。あったような、無かったような。それとも前にこんな夢でも見たのかな。)
一体何の景色だったのかを思い出したくてもう一度脳内にさっきの映像を思い浮かべようとするも、深いところに沈んでいくみたいに遠ざかってしまった。一つ確かだったのは、目の前を横切ったディーゼルの香りが記憶を引き出してくれたということだった。
そういえば、鼻の奥で臭いを感じ取る部分と脳の記憶を司る部分は近い場所にあって、臭いは記憶に強い影響を与えるという話を、何かのテレビ番組で見たことがあった。頭で知っている知識と実体験が結びつく瞬間は、なかなかの快楽である。
目の前の信号が青に変わったので、僕は再びペダルを踏みこんだ。その一瞬あと、後ろからかすかに地面を蹴るような音がした。車道との間を街路樹で仕切られた誰もいない歩道を選び、のんびり進んだ。後ろから時々カラカラとした車輪の音がする。信号を2つくらい越えてもなお、一定の距離を保ちながら僕の後ろを自転車が付いてきた。次の信号は青だったが、この交差点を右に曲がるため、一時停止して待機した。
自転車の向きを変えてふと元来た道の方を見ると、黒っぽいセーラー服を着た女子学生が一瞬目に入った。トク、と胸のあたりに甘い波紋が広がるのを感じた。
僕はあの人を知っている。気付いた時には青信号を通り過ぎてその場を走り去っていた。
「浜野さん……」
遠ざかる後姿をついぼーっと眺めてしまった。
信号待ちしていた自動車が走り出す音がして、目の前の信号が青に変わったことに気が付いた。一瞬前の自分自身が我ながら気持ち悪い存在に思えてきた。
「盛りの付いた猿かよ……。」
あの人と会話した時間はもはや遠い過去のことだ。いまはそれぞれ別の場所で生きている。あの時の心地よさは、もう訪れることは無いのだ。僕は残り少ない通学路をたどり、学校へ向けて自転車を漕いだ。
―――――
自転車の荷台にくくりついた教科書入りのバッグを取り外し、背中に運動着などが入ったリュックを背負って歩き出した。どこかのクラスの先生の車が目の前を横切る。かすかに排ガスの臭いがした。また何か思い出してしまいそうだ。
昇降口の下駄箱の前で靴を脱ごうとしたとき、ふとついさっき目撃した自転車の後姿が頭をよぎった。再び甘い動悸が戻ってきそうな気配がして、慌ててそれを振り払う。すると今度はかつてあの時に見せてくれた、楽しそうな笑顔が蘇ってくる。
(今日は一体何なんだ。朝から。)
心を無にしたかった。でも、スキマを作ると流れ込んでくる。僕は靴を下駄箱に入れながら、目の前に並ぶ箱に貼られた同級生たちの番号を見た。教室まで行って黒い制服の大群に囲まれれば少しは落ち着くだろうか。幸い、ここに女の子はいない。
僕は教室のある3階へ向けて階段を上がった。左手に教科書入りのバッグと、背中にのしかかるリュックの中の弁当と水筒の重みが重力の存在を強く感じさせた。教室に入って自分の席に到着すると、机の両端のフックに荷物を掛けた。右にバッグ、左にリュック。2つのおもりが机を床に縛り付けて安定させる。机の下のパイプに足を蹴り出すように置いてもびくともしなかった。
僕はバッグから通信講座のテキストを取り出して机に広げた。小さいころから望む望まざるに関係なく手渡されて、訳も分からぬうちに「やらなきゃいけないこと」に組み込まれて自分を苦しめていたこの講座が、今では成績を高めて夢に近づくための良き相棒となっている。
「頼る理由」が出来たからかもしれない。大学へ行けば車が手に入る。自由が手に入る。そのためなら0.1歩でも前に進みたい。掛ける数字が0でなければ、たとえ微量でも蓄積する。1時限目が始まるまでのわずかな時であっても、余すことなく知識を摂取するのだ。
もはや中毒。しかし、自由のためなら出来る事はなんでもしたかった。周りの同級生たちの中には同じように勉強に励む者もいれば、一つの机に集まって会話に興じる者たちもいた。僕に話しかけてくる者は一人としておらず、周辺の人影は全て背景のようで、話し声も単なるBGMのようだった。とても心地よかった。これなら目の前の仕事に全力で集中することができる。何ページ進めたのかさえ忘れるくらい一心不乱にテキストの解答欄を埋めていると、教室に先生が入ってきた。今朝はここまでだ。
―――――
一時間目の現代文が終わり、短い休み時間に入った。僕は着席したまま教科書とノートをバッグに仕舞い、次の科目の物と取り換えた。次の時間は化学だ。僕が机の上でゴソゴソしている間、周囲の机からガタガタ人が立ち上がる音がした。ある者は親しい友人のもとへ集まり、またある者は教室の外へ出ていった。教室の中を均等に埋め尽くしていた黒い影が、ランダムな斑模様に変化した。
僕は授業で疲れた脳を少しでも休めるため、机の上に突っ伏して目を閉じた。人間の脳はリソースの多くを視覚情報の処理に割いているらしく、それを遮断するだけで7割寝ているのと同じである、と先日見たテレビで知った。視覚を閉じたら聴覚が主張を強め始めた。2mくらい先の机の方から、ポツポツと断続的な笑い声が聞こえる。
「はぁ~。オレも早くひとり暮らししてぇな。」
「じゃあお前、あの鉄塔に小屋建てろよ。」
「オレ電気のビリビリ触るの嫌いなんだよ。」
「あの鉄塔、線来て無さそうだよ?」
「ホントだ。お前、良かったな。近所に優良物件あったぞ。」
「あの足元ウサギ釣れるかな。食料は欲しいぞ。」
「「www」」
周りの生徒よりやや声が大きい分言葉が鮮明に届くのだが、一体何の話をしているのかさっぱりわからなかった。ただ、本人たちにとってはきっと楽しい時間を過ごしているのであろうことは伝わってきた。
その後も彼らは「3人でウサギ鍋パーティを開く」とか「盗んだ電気で茶を沸かす」とか、フィクションの上にフィクションを塗り重ねながら休み時間が終わるまでゲラゲラ笑っていた。最後は3人そろって地面に激突することでフィニッシュを迎えたようだ。静かに脳を休ませたかったのに、結局即興おとぎ話のゲリラライブに聞き入ってしまった。化学の先生が教室に入ってきて、開け放たれていた扉は閉められた。
―――――
僕は教科書に描かれた周期表を眺めていた。先生が金属の酸に対する溶けやすさの違いについて語っていた。どの順番で溶けやすくなるのかを覚えるための語呂合わせがあるらしい。先生が早口で何度か繰り返した。
「……にすんな、酷過ぎる借金」
先生の言葉が、手元の教科書の中に見つからない。とりあえず、自分の耳を頼りにしてノートにメモする。
「……、酷過ぎる借金」
早すぎてどうしても前半が聞き取れない。いやむしろ、後半のワードのインパクトが強すぎて、そっちに気を取られてしまう。その後も先生が何度かつぶやいてくれたので、かろうじて全てメモすることができた。
それにしても、こういう語呂合わせって誰が考えたんだろう。あまりにも文章が出来過ぎている気がする。周期表の覚え方にしたって、「僕の船」の後に「シップはすぐ来る」とか、都合が良すぎだろう。語呂合わせに対するモヤモヤに気を取られているうちに、先生は授業を前に進めていった。僕ははっと我に返り、慌てて教科書の中を追いかけた。
―――――
短めの休み時間が始まり、僕は教室を出て階段を降りていた。歩いている間ずっと、語呂合わせのパワーワードが何度も頭をよぎった。
「リッチに貸そうかな、まああてにすんな、酷過ぎる借金。」
「白金」と「金」で、「しゃっきん」。とても希少な存在と、ナンバーワンの象徴。なのに、組み合わせたら「しゃっきん」。とてもミスマッチに思えた。それとも、実力以上に背伸びした挙句、奈落行きとなる様でも表しているのだろうか。投資する側(?)も「あてにすんな」と言ってるし、あまり信用されていないようだ。
僕自身はきっと、こんなレベルの高い世界とは無縁に生きていくのだ、という予感がした。「一番」とか、「金メダル」とか、それらはどこか激しさを伴う人生を生きる人が掴むものなのだろう。リッチになってみたり酷い借金を負ったり、僕はそんなに激しく生きられる気がしなかった。平凡に生きることすら怪しい。学校の行事で表彰されたことも小学生の頃に一度や二度あったかどうかだ。取り柄が無い。
だったならば、人とは違う生き方を目指すしかないのだろう。金メダルや銀メダルではない、一切誰も見向きもしなさそうな、「コバルトメダル」でもこっそり獲りに行けばいいのだ。
僕は1階まで降りると、隣の校舎との間の渡り廊下に設置された自販機コーナーにたどり着いた。頭を無駄に動かし過ぎたせいか、甘いものが欲しかった。
かつて小説を初めて書いてみようかなと思い始めたころ、今回題したものと同じタイトルで小説を書こうとしていました。しかし書き始めたはいいもののその後のあらすじが思いつかず、お蔵入りになって眠っていました。今作を構想した時、なんとなく使えそうだなと思ったので引っ張り出して流用してみました。今回の冒頭部分と初回「プロローグ」は、実は10年以上前に書かれた文章が使われていたりします。やっと旧題回収できた。長かった。




