〈11〉みんなでプール
矢野くんのおばあちゃんの家に着いたのは、夕方の6時くらいだった。夏休みに入ったばかりの頃で陽も長く、まだ外は明るかった。砂利が敷き詰められた場所に車が停まり、車から降りるとボクたちは大荷物を抱えながら草木の生い茂る庭の中へ歩いた。
玄関の扉には表札が掛かっていた。この時のボクには漢字が難しくて読めなかったけど、後になってから「芝浦」さんと読むのだと知った。吉成さんが壁のインターホンを押した。おとなしい電子音が二度響いた。
「はーい。」
扉が開き、中からキレイで上品そうなおばあちゃんが出てきた。おばあさんというよりも、おばあちゃん、という感じの人だった。
「あら、いらっしゃい。今日だったのね。」
「こんばんは。ご無沙汰してます。」
大人が挨拶をしている後ろで、ボクはなんとなく庭の方を見ていた。草がたくさん茂っていて薄暗かったけど、不思議と怖さを感じなかった。むしろ草木が通り路を包んで見守ってくれているような、暖かい感じがした。
「あら?こんばんわ。タクのお友達かな?」
タキさん?と目が合った。
「あ、はい。……こんばんわ。」
ボクはおそるおそるあいさつをした。
「コイツはオレの友達のつばき。智沙姉さんに会わせようと思って連れてきた。」
「そうなの。今日と明日は憩いの家が開かないから、会うなら明後日になるわね。」
「そっか。じゃあ あさって行くわ。」
「とりあえず上がって?中へどうぞ。」
「あざーす!おじゃましま〜す。」
ボクは矢野くんの後ろからついていった。
「…おじゃまします。」
タキさんの住む家は、とても古そうな建物だった。壁や柱の木材が、黒っぽくてちょっと光っていた。矢野くんの家も和風で古そうだったけど、この家ほどじゃなかった。前にテレビでこんなふうな家が紹介されていたのを思い出した。
(古民家って言うんだっけ?)
皆で奥の方の和室まで荷物を置きにいった後、ダイニングに行って夕飯を食べた。吉成さんがいつの間にかお寿司をテイクアウトしていたらしい。「テイクアウト」とか「ダイニング」とかいう言葉は、この時タキさんから教わった。
夕飯の後になってゆみさんに風呂をすすめられたけど、さすがに遠慮した。ボクはこの人たちとは家族でもなんでもないのだ。他の全員が入り終わってから、最後に入った。身体の形がいつもと違うから、洗うときに変な感じがした。
用意されていたジャージを着て奥の和室の方に行くと、布団が隙間なく一直線に並んで敷いてあった。列が長すぎて、ふすまを外して二部屋いっぱいに伸びていた。
「おかえりつばきちゃん。お先〜。」
真桜さんが真ん中くらいの布団に入ってスマホをいじっていた。ボクは入り口から一番遠い部屋の端の布団に入って横になった。他の部屋から、テレビの音と大人たちの会話の声が遠くに聴こえた。かすかな雑音にボクは心地よくなって、そのまま眠りについた。その日の夜、ボクは生まれて初めて誰かと川の字で寝た。
〜〜〜〜〜
僕は肩まで水に浸かっていた。うっすら塩素の匂いがする。回転する赤と白の円盤が並んだロープに右手で触れながら、水の中を歩く。前と後ろに人がいた。列が少しずつ前へ進む。プールのふちの壁まで来ると列がUの字に折り返して、一人ずつクロールで出発していく。
ボクの番が来た。両腕を前に出して手を重ねる。顔の前に三角を作った。不意に下を向くと、スクール水着の生地が上下全てを覆っていることに気づく。
(アレ?この水着……)
前の人が遠ざかって行くのに気付き、慌ててクロールを始めた。向こう岸に着いた時、自分の身体を確認した。鎖骨の下あたりが、やはり明らかに少し膨らんでいた。
(これは一体……?)
状況を飲み込もうと思考を巡らせようとした時、またすぐ自分の番が来る。また慌ててクロールで出発する。泳ぎに集中しているうち、いつの間にかボクは意識を手放していた。
気がついたときには、ボクはサウナの中にいた。体の芯が冷えていて、部屋にこもった熱気を「あったかい」と思った。ボクはいまだに、さっき泳いでいた時と同じ水着を着ていた。ボクはサウナの部屋の段差に座りながら、どれだけ長くこの部屋の中に居続けられるか試したくなった。
そして外に出たら、このプールの自販機のサイダーを飲むんだ……。
〜〜〜〜〜
(ハッ)
ボクを包み込んでいたのはサウナの熱気ではなく、ちょっと中が熱くなった布団だった。
(ああ……。サイダー、飲みたかった……。)
現実の世界に戻ってきて、ちょっと残念な気持ちになった。
(熱いな。)
あお向けになったまま布団の首元を持ち上げて、バフバフと熱気を逃した。
ふにっ ふにっ
腕を上下に動かすたび、手の甲に独特の感触が断続的にやってきた。
(そういえば、変身してるんだっけ。)
布団の中が涼しくなった。そして持ち上げていた右腕がちょっと疲れてきた。
(重い……)
ふにっ
右手の甲が着地した。そのまま動かしたくなくなった。わずかに残っていた眠気が少しずつ広がり、また意識が遠のいた。ボクは二度寝した。
―――――
吉成さんの運転する車に乗せてもらい、プールにやってきた。駅のロータリーみたいなところに横付けして車が止まった。降り立った場所は日陰だったけど、それでもモワッと暑さが全身を包んだ。建物の外なのに、辺りにはうっすら塩素の香りが漂っていた。
荷物を取りに車の後ろへ回ると、ディーゼルの独特の排気の匂いがした。矢野くんと真桜さんが荷物を取った。それに続いて、朝早くにボクたちと合流した、矢野くんたちのいとこの豊さんが荷物を取っていった。真桜さんと豊さんはボックス型のリュックを背負っていた。
「つばきちゃんはコレね。」
ボクは真桜さんからナップサックを渡された。
(地味に重いな。)
腕の力が弱まっていたボクには、小さな荷物でさえズッシリと重たい感じがした。
「じゃあ、車停めてくるから、先行ってて。」
「「「はーい」」」
吉成さんは車を出発させ、駐車場へ向かった。
夏休みということもあってか、プールのロビーは家族連れの人たちでいっぱいだった。浮き輪を肩にかけた男の子や、でっかいビニール製のイルカを抱えて歩く女の子などがいた。券売機の前にジグザグに進む人の列ができていて、僕たちは最後尾に並んだ。
ゆみさんが全員分の入場券を買って、カウンターの中のお姉さんに渡した。お姉さんはニコニコしながら「行ってらっしゃい!」と声をかけてくれた。こんなに楽しげに働いている大人っているんだな、と子供ながらに思った。
更衣室へ入る通路の入り口には石の床とカーペットの境があって、先に中へ入っていたお客さんはそこで靴を脱いでいた。大きな下駄箱のようなものが置かれていたけど今は使われていないらしく、横に用意されたビニール袋にみんな靴を入れて持ち込んでいた。ゆみさんと真桜さんの後に続いて、ボクも靴を脱いだ。矢野くんと豊さんの姿がいつの間にか見当たらなくなっていた。
プシュー
何か風船をふくらませるような音がすぐ近くから聞こえた。下駄箱の横に置かれたポンプで豊さんが浮き輪を膨らませていた。
「お先ね〜」
「おう」
真桜さんが二人に声をかけ、矢野くんが応えた。ボクたちは更衣室へと向かった。
―――――
着替えを終えてプールまでの通路を歩いていると、突然目の前に雨が降っていた。雨の中に、人がいる。壁についている赤いボタンを押すと、細い通路いっぱいにシャワーが出るらしい。真桜さんがボタンに手をかける。ボクは思わず身を縮めた。
「ふふふ。可愛い。そんなに身構えなくても大丈夫だよ。ここのシャワー、あったかいやつだから。」
そう言って、真桜さんがシャワーを起動した。全身が暖かい雨に包まれた。目に水が入らないように、下を向いた。水着の生地が、上下全てを覆っていた。朝の夢で見た景色だった。ただ、着ていた水着の種類は違った。スポーティなつるつるの水着ではなく、学校の授業で使うようなジャージみたいな形のやつだった。
「それ私の中学の時のだけど気にしないで使ってね」
と、更衣室で着替えてるときに真桜さんに言われた。言わなきゃ分からないのに、と思った。そして「中学の時の」と言われ、そこから真桜さんが高校生であることを知った。この時まではてっきり真桜さんは中学生なのだと思っていた。ボクはそれを正直に告白した。
「えー、ショックだなー。でもよく言われる」
と返された。真桜さんは笑っていた。言葉とは裏腹に、あまり気にしていないようだった。
シャワーが止んで、ボクは顔を拭った。真桜さんも前髪をかきあげていた。
「よしっ。じゃあ行こう。」
前を歩く真桜さんは明るい黄色の水着を着ていた。ひまわりが歩いてるみたいだった。
四角いトンネルみたいな通路を抜けると、視界がひらけた。そこは体育館のような天井の高い空間だった。右の方には25mプール、その奥にはウォータースライダー、左の方には泡がぶくぶく出る迷路みたいなプールがあった。そして正面いっぱいに巨大なガラス窓があり、外の明るい日差しをたっぷり取り込んでいた。窓の外にもいろいろな形のプールが広がっているのが見えた。
目に映る一つひとつのプールに、まんべんなく人がいた。クロールでひたすら25mを泳いでいるお兄さんに、その隣のコースをゆっくり歩くおばあさん。浅くて平たいプールめがけて、小さな滑り台から降りてくるちびっ子たち。泡がぶくぶくしているプールの階段をきゃあきゃあ燥ぎながらゆっくり降りていくカップルっぽい二人組。
ここは明らかに人混みと呼べる場所だった。でも不思議と、怖さや緊張を感じなかった。「須藤つばき」という仮面がここではしっかりと機能していて、自分の身を守ってくれているような気がした。
「さて、どこから行こうかなー。あ、なんだ、もう先越されてるじゃん。」
真桜さんは25mプールの方を見て、何かに気づいた様子だった。
「タクと豊くんもう泳いでるから、私らも合流しよ?男子っていいよねー。準備が早くて」
真桜さんはプールの淵に立つと、飛び込みの姿勢に入った。
「あー!だめだめ!真桜ちゃん、ここ飛び込み禁止でしょ?」
ちょうど泳ぎながらこっちの岸に戻ってきた豊さんが真桜さんの姿に気付き、慌てて止めに入った。豊さんはどこかを指さしていて、その先には「飛び込み禁止」の文字がデカデカと書かれた看板があった。
「あ、そうなの?前はOKだったのにな。つまらん」
真桜さんはおとなしく階段のほうに回って、プールの中に降りた。
「全く。いつもいつも……」
豊さんは再び向こう岸に向かってクロールをし始めた。そこへ入れ違うように、矢野くんがクロールで戻ってきた。ボクも水面がチャプチャプ動く階段に片足を入れた。思っていたほど冷たくなかった。
泳ぐためのコースはプールの淵と一本のロープで1コースだけ区切られていて、残りのエリアにはロープはなく広く自由に泳ぎ回れるようになっていた。
矢野くんは細い一本のコースの中で姿勢を整えると、今度は平泳ぎを始めた。ゆらゆらと、のんびりとした泳ぎだった。ロープを1本隔てた隣の広いスペースに、真桜さんが並んだ。
「負けるもんか!」
矢野くんの少し後ろから真桜さんが追いかけるように平泳ぎを始めた。ボクは階段を降りてプールの水の中に肩まで浸かって、突然始まった2人の対決を眺めた。
矢野くんは手足をのんびりひと掻きするたび大きく前に進んでいるように見えた。真桜さんはその後ろで小刻みにたくさん手足を動かしていたけど、その割にあまり速度が出ていないように見えた。それどころか、心無しかちょっとずつ左ナナメに曲がり始めているみたいだった。矢野くんはたぶん、後ろから何かに追いかけられていることに気づいてなかった。
ボクはおでこにかけていたゴーグルを目まで降ろして、水の中に潜った。たくさんの人の手や足が、ワカメみたいにゆらゆら並んでいた。ボクはイルカのように全身をうねらせながら、その隙間を縫うようにして水中を進んだ。水面を必死にもがくひまわりを見つけると、ボクはその進路の少し先のあたりをめがけてゆっくり浮上した。
「真桜さん、曲がってますよ!」
真桜さんは顔を上げながら平泳ぎを続けている。
「ハッ、し、知ってるけど?」
真桜さんは軌道を修正し、矢野くんがいる方へ泳ぎ始めた。その姿が少しずつ遠ざかってゆく。
(あれ、ていうかコレ、クロールすれば追いつくんじゃね?)
真桜さんが本来のルートに戻る頃には、矢野くんは向こう岸で腕を組みながら微笑んでいて、真桜さんの頑張りを温かく(?)見届けていた。
真桜さんがそろそろゴールしそうだったから、ボクも潜水で追いかけて向こう岸に合流した。
「はい、おつかれー。」
矢野くんはパン、パン、パン、と軽く拍手した。
「あー。また勝てなかったー。」
真桜さんは泳ぎ終えてプールの底に足をつくと、顔を軽く拭った。
「いつの間に追いかけてきてたんだよ。」
「タクがスタートしたとき」
「今日はズルしなかったんだな」
「そうよ。正々堂々よ。」
「ズルって?」
ボクは気になって矢野くんに聞いた。
「オレが平泳ぎすると、いつもこの時とばかりクロールで追いかけてくるんだよ。」
やっぱりいつもはズルしてたらしい。真桜さんならやりそうだった。想像しやすい。
「勝てると思った?」
「思った。」
「そんなスペックをオシャレに全振りしたような水着で、オレに勝てると思うなよ!」
「何よ!くそー、大人になったらレーザーレーサー買ってやる!」
「ようし、最弱装備で受けて立とう。」
なんだか本気なのかふざけてるのか分からないやりとりだった。そしてボクはふと気になったことをつい聞いてしまった。
「大人になってもやるんですか?この戦い……。」
真桜さんはおだやかに微笑みながら、ボクの右肩にポンと手を置いた。
「つばきちゃん、それは野暮ってモンよ。」
―――――
「ねえ、みんな揃ったし、ウォータースライダー行かない?」
豊さんの一言で、ボクたちは屋外へ出た。
「いいね〜。兄さん、序盤からアクティブだね〜。」
「えー……。いつもタクから誘ってくるじゃない。」
「そうだっけ?」
ボクたちはタワー型の らせん階段の入り口をくぐった。階段を登る間、矢野くんはずっと豊さんをからかっていた。そう高く登らないうちに、ウォータースライダーの順番待ちの最後尾に並んだ。ちょっとずつは前に進むものの、列が長すぎて時間がかかりそうだった。
「ねえ、どうする?他行かない?」
ボクより一つ下の段にいた真桜さんが上を向いて声を掛けた。
「んー、そうだね。今はやめようか。」
豊さんが応えた。ボクたちは一旦ウォータースライダーを諦め、階段を降りた。
視界が強い日差しに覆われる。明るすぎて良く見えなかった。目が慣れてきた頃、すぐ目の前をイルカに乗った女の子が横切った。プールの水流に乗って移動してきたらしい。流れるプールにはイルカの女の子とその両親、一人で立ち泳ぎをする男の子がいるくらいで、人がほとんど見当たらなかった。
「流れるプールもいいな。」
ボクは小さくつぶやいた。
「次コレ入る?なら、浮き輪取ってくるね。ちょっと待ってて」
豊さんは吉成さんとゆみさんが休んでいるベンチの所へ向かった。
「暑いからちょっと入ってようよ。」
「そうだな。」
真桜さんと矢野くんが流れるプールに入る。ボクも二人の後に続いた。肩まで冷たい水に浸かり、ゆるゆるとした水圧を全身で感じた。ボクと真桜さんはプールサイドにつかまり、矢野くんは平泳ぎで水流に逆らいながらその場にとどまっていた。しばらくすると、豊さんが浮き輪を持って戻ってきた。
「お待たせ。あの二人メロンソーダ飲んでたよ。」
「えー、いいなー。私も後で買お。」
真桜さんが豊さんから浮き輪を受け取った。そしてプールサイドから手を放し、浮き輪に飛び乗った。ソファーに座ってくつろいでる見たいな格好で、漂流し始めた。
「いつもやるよな、ソレ」
矢野くんは苦笑しながら、流される浮き輪の後ろを平泳ぎしながらついていった。豊さんも水の中に入り、二人の後を歩いて行った。ボクもプールサイドから手を離した。水の中で軽くジャンプすると、水圧が背中を押してくれた。肩まで水に浸かったまま何度もジャンプして、プールの流れに身を任せ、みんなのあとに付いていった。
AoiことはAoiうちに終わらせておきたいと思ってたけど、だんだん自分のAoさが失われつつあって焦ってる。