〈10〉現代文明の恩恵
車の3列目の小さな窓から、外の流れる景色を見る。乗り慣れない車に乗って、行ったことの無い場所へ向かう。ボクは内心ワクワクしていた。自転車か歩きぐらいしか移動手段の無い子供の身には、車での遠出はとても特別なことだった。
車内に、公開されたばかりの映画の主題歌が流れ出した。TVで予告編が流れていたのを見たことがあり、その時にこの曲の存在を知った。流れる音楽につられて、運転席に座る吉成さんが鼻歌を歌いだした。
「ら、らら らららーらーららたららー」
音程は合っているのだが、歌詞を歌ってない。
「うーん。ムズムズする…。ねえ、真桜、もっとお父さんの知ってそうな曲ない?」
ゆみさんが助手席から後ろを振り返る。
「今はコレが聴きたい気分なの。お父さんもそのうち覚えるでしょ。」
「えー……。」
ゆみさんが残念そうにしながら前を向く。車内のBGMは、真桜さんのスマホから流しているらしい。
「「ららーららー」」
矢野くんが、わざとらしく鼻歌を被せてくる。
「やめてー!」
ゆみさんが耳をふさぐ仕草をしていた。しかし、なんだか楽しげに見えた。車はまだ、ボクが知っている街並みの中にいた。
「ちょっとコンビニ寄るね。」
そう言うと、吉成さんは車を駐車スペースに滑り込ませた。矢野くんと真桜さんが2列目から降りたので、ボクもつられて外に出た。
ーーーーー
「好きなの選んでいいよ。」
吉成さんが飲み物が並んだガラスの扉の前で言った。
「え、良いんですか?」
「いいよいいよ。道中長いから。」
「じゃあ、オレはコレ。」
横から手が伸びてきて、矢野くんが冷蔵棚の扉を開けた。そして黄金に透き通ったレモンティーを手に取った。
「じゃあ私も。」
真桜さんが矢野君の後に続き、同じ紅茶を取った。ボクは慌てて二人と同じものを取った。
「ありがとうございます」
「いえいえ。」
吉成さんはボクがとったペットボトルをカゴに入れると、お菓子コーナーで何やら迷っているゆみさんの所へ行った。
「あれ、矢野くんのお父さんは飲み物買わないの?」
「コーヒーでも買うんじゃね?」
矢野くんが応えた。矢野くん、真桜さんの後に続いてボクはお菓子コーナーの方に向かおうとした。ちょうどその時だった。
「あ、居た。永二、もう行くよ。」
ふいに後ろから聞き慣れた声がした。つい振り向いてしまった。そしてボクはゾッとした。
目の前に、母がいた。ちょうどトイレから出てきた所だったらしい。この店に母が来ていたなんて、全く気付かなかった。ほんの数秒間、ボクは固まった。ボクの中の時が止まった。
(どうして……?今ボクは別人になっているハズじゃ……?)
「あら、ごめんなさい。人違いでした。あハハッ!」
ボクは動けなかった。
母はボクに会釈した。ちょうどそのとき、トイレの方から僕の姿をした三四郎さんが出てきた。
「お待たせ。」
「なんだ。まだ中にいたの。」
母がその場を去る。三四郎さんはさりげなく親指を立てて、胸のあたりをトントン叩いた。任せなさい、と言ってくれてるみたいだった。母と影武者の三四郎さんは店を出た。
「つばきちゃん?どしたの?」
真桜さんに声を掛けられて我に返った。
「なんでもないです。大丈夫です。」
言葉とは裏腹に、ボクの指先は震えていた。
―――――
買い物を終えて、再びボクは車の3列目に乗り込んだ。吉成さんとゆみさんの買ったコーヒーの香りが、車内にうっすら広がっていた。車が再び動き出す。
しばらく走っていると、外の街並みがだんだん馴染みのない景色に変わっていく。ついには高速道路のインターチェンジの中に入っていった。
(きっと遠い場所に行くんだ。)
ボクはとてもワクワクした。あの大昔のSFの世界みたいな大きなゲートをくぐったのは、学校の遠足でバスに乗った時ぐらいだった。普段両親が運転する車に同乗しているときには体験できないような、いつもよりハイスピードな世界が、あの向こうには広がっているのだ。
「夢はいつか、日常になる。」そんなキャッチコピーが書かれたポスターを、どこかで見たような記憶がある。ハイウェイという世界は、現実になるまではきっと人々にとって夢のようなものだったのだろうと思う。その夢の景色が、すぐ目の前に迫っていた。ボクたちを乗せた車は、「ETC」と書かれたゲートに進入した。ゲートが開く。分かれ道を右に進む。大きなカーブを描いた上り坂をぐんぐん登っていく。体が遠心力で横に引っ張られそうになり、シートの上で踏ん張って耐えた。道が真っすぐになるとその力はスッと無くなり、今度は力強く前へ前へと加速していく。やがて車は本線の流れに乗っていった。
「さて、何流そうかなー。」
車の揺れが落ち着いてしばらくすると、真桜さんは下を向いてスマホをいじりだした。横のスピーカーから、アップテンポなイントロが掛かる。この曲をボクはこの時初めて聴いた。そして今この瞬間にとてもピッタリな曲だと思った。吉成さんが再び鼻歌を歌いだす。相変わらず歌詞を飛ばしていて全部「ららら」だった。
ボクはついさっきまで感じていた恐怖をすっかり忘れて、車内のにぎやかな音の数々を聞き流しながら外の景色を眺めていた。そして時々レモンティーを飲んだ。
―――――
ふと気が付くと、車は速度を落としていた。窓の外の景色が、流れるガードレールから駐車場に変わっていた。どうやらボクは寝落ちしていたらしい。夢は見なかった。
斜めにずれた四角いラインに、車が滑り込む。どこかのサービスエリアに到着した。
「みんな、ちょっと休憩しよー。」
ゆみさんが助手席からこちらの方へ振り返り、呼び掛けた。吉成さんがシートベルトを外し、外へ降りていく。2列目の矢野くんと真桜さんが降りた後、ボクも外に出た。
矢野家の人々の後に付いて行き、トイレを済ませた。入口まで戻った時、矢野くんと吉成さんが外で待機していた。ボクはハッとして、後ろを振り返った。
(今自分はどっちから出てきた?)
直前までほぼ無意識に行動していた。間違った方に入っていなかったか、急に不安になった。直前の記憶を必死に思い出す。確かに女子トイレから出てきたはず……。
「お待たせ―。」
真桜さんとゆみさんが戻ってきた。ボクはホッとした。この2人と同じ方へ歩いたのを思い出した。矢野家の人々に付いて再び歩き出す。歩きながら、首をかしげた。何の抵抗も感じなかったことが不思議だった。真桜さんが何かを察したのか、こっそり耳打ちしてきた。
「ちゃんとタクの術、効いてるみたいね。入る方、間違えなかったでしょ?」
「え、術のせいだったんですか?というか、術ってそんなこともできるんですか?」
「そりゃそうよ。見た目だけ変えたって別人にはなれないもの。たぶんだけど、タクはつばきちゃんに他にもいろんな術重ね掛けしてると思うよ。」
どうやらあの夜、矢野くんにはいろんな化け術をまとめて掛けられていたらしかった。後で本人に色々聞かなくては、と思った。
矢野くん家の人たちは、自動ドアをくぐりSAの売店の中へ向かった。ボクもその後ろに続いた。
夏休みに入って間もないせいか、中はたくさんの人でにぎわっていた。行き交う人々の光景を眺めているうちに、ボクはまたちょっとずつ怖くなってきた。矢野くんがすたすたと前を歩いてお土産コーナーの方へ向かう。ボクは慌ててその肩を掴んだ。
「ちょっと待って!」
「何?どした?」
「ボク今、誰に見える?」
「誰って……、須藤つばき」
「いや、そうなんだけど、そうじゃなくて!」
「なんだよ」
「ホントに違う人になってる?変身する前の僕に見えたりしない?」
「しないよ。大丈夫だって。急にどうしたんだよ。」
矢野くんは少しめんどくさそうな顔をした。ボクは思わず目を下にそらした。
「さっきコンビニ寄ったとき、母さんに話しかけられた。」
「………バレたんか?」
「いや。バレてはなかったと思う。後ろから声がして振り返ったら、『人違いでしたハハハ』って言ってどっか行った。そのあと三四郎さんもそこに来たし。」
「なんだ。じゃあまぐれだろ。あんま気にすんなって。」
矢野くんはまた歩き出した。ボクもその後ろをついていく。矢野くんはお土産コーナーを物色している。
「でも、一回あんなことがあると、見つかるんじゃないかって思えて怖い……。」
「誰に見つかるんだよ。かくれんぼのオニか?」
「ボクの知り合いがここに居たらどうしよう……。」
「いるじゃん」
「えっ!?どこ!?」
ボクは慌ててあたりを見回した。
「me」
矢野くんは真顔で二つの親指を自分の顔に向けていた。
「なんだよ……。脅かさないでよ。」
ボクは思わずうなだれた。
「そんなに心配ならキャラ変えたらどうだ?せっかく見た目は別人にしてやったんだからよ。自分で隠れる努力でもしてみろよ。」
「努力って……何すれば……」
「そうだなぁ、とりあえずその『ボク』って言い方、やめれば?少しは『永二』っぽさ消えるんじゃない?」
「……なるほど。じゃあ『私』って言ってみようかな。」
「お、『つばき』っぽいじゃん。」
矢野くんと一緒に、SAの売店を歩いた。吉成さんとゆみさんはいつの間にか箱のお菓子をいくつか買い、真桜さんはご当地キャラか何かの被り物をした犬のキーホルダーを買っていた。矢野くんはどこからか見つけてきた花火セットを買ってもらっていた。
買い物が終わると、中に入るときに通った入り口とは別の自動ドアの方へ皆でぞろぞろと歩いて行った。通路の壁沿いには、何台もの自動販売機が並んでいた。ふと見ると、飲み物がコップに注がれた写真がいくつもタイルのように並べられたものがあった。
(こんな自販機あるんだ)
矢野くん家の人たちと一緒に歩きながら、なんとなく壁に並ぶ飲み物たちを眺めていた。
「何か飲みたいの?」
「ふぇ?」
後ろからふいに真桜さんに話しかけられた。
「あっ、抹茶ラテある!」
真桜さんは身を乗り出して自販機の前に立った。左上の方に貼ってある鮮やかな緑色の飲み物の写真を見ていた。
「さっきコンビニで紅茶買ったじゃん。」
弟に突っ込まれても、真桜さんは気にしなかった。
「ココの抹茶ラテはスイーツなの。飲み物じゃないの。別物なの。」
微笑みに静かな圧を感じた。
(コワイコワイ!)
「最近はスルーしてたけど、たまにはこの自販機のヤツ買おっかなー。ねー、お父さーん。ちょっと待ってー。」
「ん?」
前の方へ歩いていた吉成さんが振り返り、ゆみさんと一緒に戻ってきた。真桜さんが小銭を入れて自販機のボタンを押すと、右上のディスプレイの映像が切り替わって音楽が流れ始めた。上から紙コップが落ちてきて、そこに何かの液体が注がれていく。ガラガラと音がして、氷?が入れられていく。
「これってもしかして、中で作ってるんですか?」
「そ。つばきちゃんはこの自販機初めて?」
「はい。見たことないです。」
「そうなのかー。じゃあさ、せっかくだし好きなの選びなよ。お姉さんがおごっちゃうぞ!」
「ボ…、私なら大丈夫です。紅茶まだありますし……。」
「ほんとにいいのぉ?帰りは寄らないかもよぉ?これはチャンスだよぉ?」
微笑みながら圧をかけてきた。ボクが軽く固まっていると、自販機の真ん中あたりの小さな扉が開いて中から飲み物の入った紙コップが現れた。真桜さんが手を伸ばして取り出した。
「ちょっと持ってて」
真桜さんにコップを渡される。手に冷たさが伝わってくる。そして甘い匂いがした。真桜さんが財布から小銭を出して自販機に入れた。何枚か返却口にチャリンと落ちた。
「なんだよ。君お金要らないのー?しょうがないなー。小銭減らしたかったのに。」
落ちてきた小銭を財布に戻した。
「好きなのえらんでいいよ。とりあえずボタン押しちゃって。」
「え、お金は?」
「いいからいいから。」
言われるがままにボクはボタンを押した。ミルクココアの写真の下のボタンが光った。
「えっと、好きなのとは言ったけど、それでいいの?」
「?」
「いや、なんでもない。」
真桜さんは自販機にスマホをかざした。ピッ!っと音が鳴り、また映像と音楽が始まった。
(ああ、なるほど。キャッシュレス……)
扉が開いてココアが現れた。ボクは抹茶ラテを真桜さんに返し、ココアを取り出した。
「私も何か買おうかな。」
ボクらの様子を見ていたゆみさんが、つられるように飲み物を買った。カフェラテだった。扉がウィーンと開き、うっすらコーヒーの香りが広がる。
「あれ?さっきコンビニで買ったのもコーヒーじゃなかった?」
「もう全部飲んじゃった。お父さんも何か飲む?」
「僕はいいや。まださっきのコーヒー残ってる。拓馬は?」
「俺も大丈夫。」
「そっか。」
皆再び通路を歩きだし、外へ出た。
むわっと暖かい空気に全身が包まれる。知らず知らずのうちに体の芯までエアコンに冷やされていたことに気が付いた。手に持っているココアは、熱い。買う方を間違えたかもしれない……。
「あったか~い。」
真桜さんが両腕を広げて陽を浴びている。冷やされてしまっていたのは、ボクだけではなかったらしい。
「いや、暑いだろ」
矢野くんがうだるように言った。
売店から駐車場までの間にはちょっとした広場があった。ベンチとテーブルがいくつか並べられていて、その一角に高校生くらいのお姉さんが2人座ってソフトクリームを食べていた。
「お、今日は店開いてる。」
吉成さんが立ち止まり、小さな出店の建物を見ていた。そして、そのまま吸い込まれるようにそちらへ歩いて行った……。
―――――
車に戻った我々は、みな片手に何か持っていた。真桜さんは抹茶ラテを、ゆみさんはカフェラテを、ボクは熱々のココアを……。しかし、吉成さんが車のエンジンをかけて冷房を入れてくれたので、その熱さがむしろちょうどよかった。そして矢野くんとそのお父さんはというと、2人そろって白いソフトクリームを持っていた。
「ハーイ!カフェターイム!」
吉成さんのテンションが妙に高かった。
「のんびりしてると時間ピッタ逃すわよ」
「ハッ!そうだ!こうしちゃいられない!40秒で味わうわ。っあ!1滴垂れた!」
あまりにも騒がしいので、3列目から前を覗いた。ゆみさんがあきれた様子で吉成さんにティッシュを手渡していた。吉成さんのソフトクリームはちょうどエアコンの吹き出し口の前にあり、風をもろにくらっていた。
(なんでそんなところで手に垂れたやつ拭いてるんだろう。)
ボクは3列目シートの背もたれに戻り、ちょうどよく冷めてきたココアを一口飲んだ。
「たまに食うとうまいな。」
「ねー。あのコンビニできてからあんまり買わなくなったよね。」
矢野くんと真桜さんは前の席で「うま、うま」言いながらそれぞれのスイーツを味わっている。こんなに感情が漏れ出ている人たちを、ボクは初めて見たような気がした。ボク自身「うまい」の一言も、どんなにあふれたって一回くらいしか言わない。食事は無言でするのが当たり前だと思っていた。もう一度ココアを一口すする。
「うまっ」
みんなを真似して、ちょっとつぶやいてみた。
描いているうちに、気がつくとどういうわけか何かを食するシーンに段々と流れ着いてしまう。登場人物たちはそんなに良いもの食べてるわけじゃないし、時々行儀も悪い。内容を見返すたびに自分がいかに文化水準の低い人間なのかを思い知らされるような心地がする。