半夏生の紙飛行機
半夏生……日本独自の暦日である雑節のひとつ。夏至から11日目の雨ばかりの季節。これまでに田植えは済ませて、一時の体休めとする。
半夏生を過ぎた季節は、例年通り雨ばかりだ。ようやく雨音が遠のき、灰色の空の彼方に隠れた、太陽を懐かしむ余裕ができたのも今しがたのこと。そんな雨の中休みも、夜までは保たないと、ウェザーニュースが自信を持って伝えてきた。
これじゃあ、数日後に控えた七夕も、例年通り川は渡れず終いではないか。不憫な星の二人に同情してか、笑わない空につられて、世界もろともが通夜のように重く沈んでいると言うのに、どう言う訳か目の前の彼だけは、季節などどこ吹く風と知らん顔で、晴れやかな青年と悪戯好きの少年の両方持ち合わせた、なんともずるく、うざったい笑顔で問いかけ、ひどく私を困らせるのだった。
「さて問題です。
俺の赤点紙飛行機と、君の満点紙飛行機、より遠くまで飛んで行くのはどっちでしょう?」
3階にある生徒会室の窓を開放して、6限目の社会で返却されたばかりの2枚の答案用紙を両手に掲げ、彼は無邪気に笑ってみせた。彼が右手に持つ、三分の一ほど破けた答案用紙は、先程私の手から奪ったものだ。悪意はないのだろう。だからこそ彼は厄介だ。眩しいまでの、その笑顔が鬱陶しい。
「本気で飛ばすつもり?」
不快感を露骨に態度にしても、彼の軽薄な態度は変わらなかった。もっとも、断っておくがテスト用紙が惜しいわけじゃない。誰に見せるつもりもなく、今しがた破り捨て、ゴミ箱に捨てようとしたのは私なのだ。捨てるならくれと言われて渡した私も軽率だったが、だからといって、紙飛行機で外に飛ばしたりされるのはあんまりじゃないか。何処の誰が拾うかわからない言うのに。
「先程の騒動の主犯とは思えないほど、随分と気が小さいね。名前の部分は黒く塗り潰すから、誰か拾ったとしても分かりゃしないさ。
それに加えて、濡れたグラウンド。落ちた紙切れを、好き好んで手にするやつなんかあるか?
掃除当番がトングで摘んで、そのままポイに決まってる」
誰も触りたくない不潔なゴミを片付けさせられる、掃除当番に謝れと思う。それに、誰が主犯だ。私こそ事件に巻き込まれた被害者だと、声を大にして言いたい。
「俺の赤点は飛ぶよ。なにせ軽いから。重量だろうが数字だろうが、軽い方がより飛ぶに決まってる」
そう言った彼は、まるで玩具に夢中になる子供のように目を見開いて、せっせと自分の赤点用紙を紙飛行機へと変えていく。
返すという選択肢は最早彼の中にないと諦めて、私の答案は、私が織ることにした。破いた箇所は、セロハンテープで補修する。彼の問題に、少しだけ興味が湧いたのも事実だけど。
彼は知らないのだろう。紙飛行機は、軽ければ飛ぶというものではない。重心を前方に持って行くのが肝心なのだ。私の紙飛行機は、補修したセロハンテープの重量をちゃっかりと利用してやることにした。これが赤点と満点の違いなのだよと、心の中でつぶやく。
「じゃあ私は、私の満点に賭けようかな。どうせ私は浮いた存在ですもの」
うまい事言うと、彼に褒められた。そこは否定して欲しかったので、素直に喜べない。
線が細く、笑顔の可愛らしい中性的な彼は、先の会長選挙を、持ち前の愛嬌のみで勝ち抜いた。
「全校生徒代表である生徒会長が赤点と言うのは、私としては大いに問題だとおもうのだけど」
「じゃあいっその事、入れ替わるか?優秀な書記さま」
嫌なこった。
書記だって誰もやりたがらないものだから、無理やり押し付けられただけだと言うのに。もちろん、先の選挙では、対立候補無しの信任投票、演説で言った言葉は「がんばります」の一言だけ。他にやりたがる奴がいれば、喜んで譲ってあげるのに。
気分を害したのか、わざとらしく口を尖らせる彼だが、笑い顔が災いして全く凄味がない。次の瞬間には憤慨したことなどさっぱりと忘れて、せっせと赤点用紙で紙飛行機を織るのに夢中になっている。
「今更だけど、いいのか?
満点なんて、君でもそうそう取れないだろう?
俺の赤点なんて、このまま世界の裏側、リオネジャネイロあたりまで飛んでいってしまえと思うほど忌々しいだけの存在だけど。
せっかくの満点、回収できなくなっても知らないからな」
「……惜しいと言ったら返してくれたの?別にいいよ。
間違えがないなら、見直す必要もないし。母親に見せる気もなかったし」
「見せないの?」
「うん、見せない」
「なんで?」
「困らせたくないから」
二人だけの生徒会室。全開に開かれた窓から、カーテンを押しのけて、フワリと風が入ってきた。先の雨で少しだけ冷えた南風が髪の隙間を通り過ぎ、僅かに熱を奪っていく心地よさに、久方ぶりの夏の匂いを感じた。
もうすぐ、中学最後の夏休みだ。
私には父親がいない。
いや、正確には世界の何処かにいるのだろうけど、母と私を置いて出て行った日から、私の中ではこの世にいないことになっている。
恋多き身勝手な父と違い、母は偉大だ。女手一つでの子育ての苦悩は、身をもって体験しなければ想像も難しいだろう。
たくさんの自身の幸福を犠牲に、質素でも三食食べさせてくれることに感謝しきれないが、家計の苦しさは子供心にも伝わった。
毎日が働き詰めの母に、わがままなど言えるはずもない。ノートが終わりのページに近づくたびに、くたびれた消しゴムがいよいよ消えゆくその度に、母の懐事情を思えば、言い出せず胃をキリキリさせる毎日が、本当に惨めだ。
だから一刻も早く働きたい。高校はできるだけ近くで、アルバイトを許してくれるところなら何処でもいい。
そんな私がクラスで表彰されるように返された答案用紙になんの感情も抱かず無表情だったのが、どうやら周りからは気に食わなかったらしい。終業のチャイムと同時に、ケアレスミスで満点を取り損ねた優等生が絡んできた。
「嬉しいなら、素直に喜べばいいじゃないか。腹立たしい奴だな」
「別に本当にどうでもいいだけだけど」
「よく言うな!どうせ親に何強請ろうか内心ほくそ笑んでるんだろ?正直羨ましいよ。俺だって本当は……」
聞けば、彼は親と約束をしていたらしい。
5教科で450点以上取れば、喉から手が出るほど欲しくてたまらない高価なスニーカーを買ってくれると。
途中4教科のテスト結果で350点。厳しいが、最後は最も手応えのあった社会。しかも、クラスに一人だけ、100点が出たことは、事前に情報があった。
先ほどの社会の授業は、祈るような気持ちで結果を待ったが、ケアレスミスで満点ではなかったらしい。
「馬鹿みたい」
ぽつりと呟いた一言が、彼を激昂させた。と言っても、机を強く叩いて、何かを怒鳴っただけだけど。
父親を知らない私は、男という生き物が生理的に苦手だ。彼の暴力的な行動が、純粋に怖かった。それを悟られるのが悔しくて、教室を飛び出て生徒会室へと逃げ込んだのだ。幸いにも避難所とした生徒会室には誰もいなかったが、ドアを閉めるのを待たずに、息を切らした彼が踏み込んできたのだった。
そうか、あの場にいた中で、私の家庭事情に明るい幼馴染の彼なら、『馬鹿みたい』が彼に発した言葉じゃないことを見透せたのだろう。私の左手が震えていたことに、彼は気づいていたのかが気がかりだ。
そして、話は今に至る。
「モノの価値って不思議よね。
誰かにとっては数万もするスニーカーに化けるテスト用紙が、誰かにとっては紙飛行機か」
「満点も赤点も、役目を果たしたら、あとは所詮紙切れ。
それに『誰か』の中の価値も、普遍的とは限らないさ。昨日の誉は、今日の紙飛行機。
ところで、何賭ける?」
「変態。これだから男子は」
「俺が何望むと思ってんだよ。もっと健全な学生っぽいものでいいよ」
「物は賭けられないよ。私お金ないもん」
「じゃあマックのセットで」
「話聞いてた?」
「今じゃなくてもいいよ。有効期間なしで。
雨が止んでから、そのときに」
私の返事も聞かずに、遅れて完成させた彼が、勢いよく紙飛行機を窓の外へと飛ばす。一時は急降下したように見えた紙飛行機は、途中思いのほか風をとらえて、前へ前へと進んでいく。一呼吸置いた後、私も、風に合わせてふわりと手放した。雨上がりの上昇気流を捕まえて大空を駆け上がる。淀んだ雲の切れ目から、太陽も紙飛行機を覗いていた。久方の光に、思わず目を細める。
ああ、もうすぐ夏休みだ。
マックゲット。
(お久しぶりです)