Laugh it up
―――せっかく美人なのに、どうして笑わないんだろう?
それが彼女に対する第一印象だった。
真新しい制服に身を包んだクロイツ学園の一年生が、中学生気分の抜けきらないまま教室を出入りしている。中学校が同じだった友達と会話を楽しんだり、新しい友達を探したりと忙しい日々が数日続く。
オレは幼稚園のときからの幼馴染である真柴ひろみと話しているか、新しく話しかけてきたヤツらとふざけ合いをするかして、次第に交流の輪も広がっていった。
新しい人間関係の変化の中でも、ひと際異彩を放つ人物がいた。オレの斜め後ろの席にいる女の子で、名前は水無月樹木という。柔らかそうな茶色い髪の毛に同じく茶色い瞳、睫毛なんかがとても長くて、顔のパーツが整っている、つまりすごい美人だ。
可愛い女の子は見渡せば何人も目に入るけれど、彼女は特に人の目を引く何かがあった。そこだけ空気が違って見えたのだ。ついこの間まで中学生だったというのに、『可愛い』よりも『美人』の方がしっくりくる容姿であることも、目を引く要因の一つなのだろう。
とにかく、女としての容姿にはかなりコンプレックスを抱いているオレから見れば、憧れるほど綺麗な女の子だった。
「ズリーよ真柴ぁ~。あの子の隣の席なんて」
一週間も経たないうちに4組のアイドル的存在になった水無月樹木。幼馴染のひろみは、そんなことないだろ…とか言いながらも嬉しそうだ。
「古関ってあーいう女の子が好みなのか?」
ひろみを突いていた古関というクラスメイトに尋ねてみる。
「え?そういうわけじゃね~けどさぁ。どうせなら可愛い子と席近いほうがいいじゃん」
別に好みとかいうわけではないらしい。
やはり美人というのはそれだけで価値のあるものなんだなと思う。隣に座るだけで人を喜ばせることができるのだから。
しかし、周りの反応は無視して、水無月はいっこうに笑顔を見せようとはしなかった。
昼休みには席に座っている水無月に、何人かの女の子が話しかけたが、一言二言話して女の子はどこかへ行ってしまった。その数分後にオレと同じ中学だった男子が水無月に親しげに声をかけたが、無視されて玉砕した。その反応が元で(オレはこれが原因に思える)女子の彼女への反応が冷たくなった。
移動教室も、昼休みも、水無月は一人でいた。そんな様子をひろみはしきりに気にしていたし、もちろんオレも気にかけていた。
なぜか彼女を放っておくことが出来なかった。
「おはよう、水無月」
「…………おはよう」
彼女とのあいさつは少々居心地が悪い。なんで話しかけるんだという無言の主張が、返事を返されるまでの数秒の中に感じるのだ。ただ、鈴のような良く通る声だけが心地よかった。
目が合ったことなど一度も無い。
笑顔を見たことも、ない。笑えば可愛いんだろうに。
彼女の笑顔が見たいのに。きっとあの声のように可憐な笑顔なのだろうに。
人付き合いが苦手な人間というのは、どこにでもいるものだ。オレは対人関係に関しては比較的苦労せずに生きてきたつもりでいる。友達は多い方だったし、困ったときなどはひろみが助けてくれた。恵まれた環境だった自覚はある。
だからこそ、人付き合いの苦手なヤツに対して、人一倍気を使っていた。何故なら、中学校の時に「何もしなくても人気のあるお前になんかわかるもんか」と言われたことがあるからだ。
それはオレにとって理不尽な言い分に違いなかった。人気があるかどうかは別として、オレは対人関係に必要なことは出来るだけ実行しているし、それだからこそ、友人もたくさんできたのだ。何の努力もしないで人に好かれようなんて無理な話なのだから。
その言葉に怒りを覚えたのは確かだが、そのときオレは初めて自分以外の考えを持つ、オレの理解の範囲外の思考を持つ人間がいるということに気づいたのだ。
この経験が無ければ、オレは彼女をただの嫌なヤツだとしか認識しなかったと思う。
ともあれ、彼女の笑顔を見たいと思ったからには、努力は怠らないつもりでいる。
笑顔であいさつをすれば笑顔であいさつを返してくれる、そんなやりとりが大切だと思うから、オレは毎朝彼女に話しかけた。彼女の無言の主張に気づかないフリをして。
―――ねぇ笑って?
きっと綺麗だから。
容姿を差別するわけではないけれど、彼女のような美人に笑顔で挨拶をされたら、男女問わず嬉しいだろうに。
もったいない、と思わずにはいられない。
その笑顔だけで誰かを幸せに出来るって、すごいことなのだから。
水無月は相変わらずの無愛想だったけれど、返してくれるだけで満足だった。
他のヤツらはもうあきらめて声をかけなくなっていく。
男子たちは冷たくあしらわれるのを恐れて、遠巻きに眺めるだけになった。
オレは普通の『男』とはちょっと異なっていたし、普通の『女』でもなかったから、恋愛感情もなければ無愛想にされて自尊心を傷つけられるでもなかったので、話しかけ続けられたのだと思う。
人と交われない彼女への同情と
誰よりも美しい彼女への憧れ。
オレはこの二つの感情に身を任せて、先の見えない道に足を踏み入れたのだ。
あれから一週間後。
いつも通りに声をかけたが、目を合わせてくれないので言葉に詰まる。オレは毎朝これを繰り返していた。毎日声をかけて返事をもらって、次の会話が生まれるのを待っている。当分生まれなさそうだけれど。
ツンと首を背けている水無月に視線をやると、目を伏せている姿が睫毛の長さを強調していて綺麗だった。オレは素直に「今日も綺麗だね」と言った。
そうすると水無月は一瞬固まってオレを見た。まともに目が合ったのはこれが初めてだった。しかし、訝しげな表情をして、すぐに顔を背けてしまう。
それからしばらくは、視線が交差することはなかった。
* * *
守りたくなるというのとは少し違う。
拒絶しているようで、助けを求めている。
そんな気がした。
次第に機械的にではあったけれど、慣れたのか挨拶をしてくれるまでの間が短くなり、おはよう、程度はなんの違和感も無く出来るようになった。ひろみは彼女を気にかけているくせに、冷たくされるのがつらいらしくて、あまり近づかなかった。
そのうち、質問すれば一言で返ってくる。
答えたくないことは無言が返ってくる。
そんな会話が増えていった。
笑ってこそくれなかったけれど、少しでも心を開いてくれたことが何よりも嬉しかった。
「お高くとまってる女って、かわいくないわよね」
高らかな声に、教室が一瞬静まる。
それは、いつものように、イスの向きを水無月の方へ向けて短い会話を繰り返していたときだった。
席の向こうで最近グループを形成した女子が声高に言う。噂話にしては声が不自然に大きかった。
水無月はチロリと彼女らを一瞥して、すぐに視線をあさってに向けて頬杖をつきなおす。
自分のことを言われているのは分かっているのだろうが、まるで相手にしていなかった。
そうなってしまうと、彼女達の立場は途端に滑稽なものへと変化する。陰口を言う側は精神的優位に立っていなくては意味が無いものだ。
彼女達はたじろいで、何事も無かったかのように話題をかえて話し始めた。
滑稽に見えた理由のひとつとして、水無月の容姿のせいもあるように思う。10人中10人が認める『綺麗な人』に対する、先ほどのような陰口は、妬み以外に聞こえない。
あの女の子たちだって、オレから見ればとてもかわいいのに、あんなことを言ってはその可愛さも半減だ。そして人としての価値も貶めてしまっているように思う。
生来の万人に共通の『身分』などは存在しないけれど、自分の中の『特別』は確かに存在する。自分は彼女の存在には敵わない、といった自己暗示だ。
自分にそういった自己暗示をかけておきながら、それに逆らうのはとても滑稽に見える。
オレも、水無月を同性としてみれば嫉妬してしまう可能性があった。
だから、その特別の名前を『憧れ』にかえた。
「ふふっ」
あんな一言に対して深く考え込んでしまう自分がおかしくなって、つい鼻で笑ってしまう。
水無月が変な顔をしてオレを見たから、不審に思われないように言い訳をした。
「ごめん、だってさ、彼女達も大変だな~と思ってさ。な?」
おそらく彼女達も水無月を前にして葛藤しているのだろうから。
「私に聞かないで。かわいくない女だってことは承知してるんじゃないの?」
毎回のごとく冷たく言い放たれた。水無月はこういった自虐的な言葉を言いなれているように思える。
「彼女達は水無月が綺麗だって認めてるんじゃん?じゃなきゃあんなこと言わないしさ、それに」
「それに?」
「水無月にかわいくないって言っても説得力ないよ」
「ほめているの?」
「うん。容姿はね」
水無月の顔色が変化したように見えた。
「・・・・・」
沈黙が降りたことで、オレは自分の失言に気づく。
「あ、別に含みがあるとかいうんじゃないんだ。誤解しないで。もうちょっと笑ってくれたら、もっといいのになって思ってたのは事実だけど」
「・・・含みがあるじゃないの」
「あれ?そっか。うん。あったね」
本音というのは意識しないところで表出してしまうものらしい。
今さらごまかすこともできないが、悪気が無かったことを示すために笑ってみた。
「・・・・・・・」
そうしているうちに、水無月はおれの顔を見てため息をついた。
「へんな人ね、アナタって」
水無月に呼ばれたのはこれが初めてだった。
初めて存在を認められたような、この世に生まれて初めて鏡を見た気がした。
「そう?水無月も変なやつだよ」
「アナタのほうがヘンだわ。私なんかに声をかけるし」
「美人を見たら、声をかけたくなるもんじゃない?」
水無月はまたため息をついた。
「それは口説いているの?」
「まさか!」
そんなつもりはなかったので、おもいきり否定したが、よく考えれば失礼な話だ。オレは男なのだから。
水無月は否定されてきょとんとした。こんなに否定されると思っていなかったにちがいない。怒らせるだろうか?女の自尊心とは天より高い、と誰かが…ひろみが言っていた。男も似たようなもんだと思うが。
先ほどのように悪気がなかった、だけでは済まされないかもしれない。傷つけてしまっていたらどうしようとハラハラしていたら、ぷっと笑われた。
「そこまで否定しなくてもいいんじゃない?傷つくわ」
傷ついている様子は見えなかったが、さきほどのは自分が悪い。
「ごめん!そんなつもりはなかったんだ」
合掌して頭を下げて素直に謝った。
「女はたたるわよ、気をつけないと、野村くん」
名前を呼ばれたことにびっくりして頭をあげる。
苦笑いだったけれど、水無月が笑っていたのだ。
きれいな笑顔。
笑顔を見て感動するなんて後から考えたら恥ずかしいけれど、オレはこのとき本当に感動した。
あぁ、かわいいな、って。
この日からオレたちは仲良くなった。