三 別離
論争の終結から三年後、陸子静は五十四歳で没した。長江上流域の荊門軍に知事として赴任していたが、異郷の厳しい冬に、宿痾の結核が再発した。十一月末に体調を崩し、十二月に入って大量の血を吐いた子静は、新年を待たずに逝った。
年が明けて訃報を受け取った元晦は、門人たちを引き連れ、寺へ行って哭した。子静を孟子の論敵になぞらえ、「惜しいことに、告子を死なせた」と嘆いた。
朱元晦と陸子静。朱子学と陸王学―――明代に子静の学を顕彰した王陽明の名と合わせてこう呼ばれることになる―――として受け継がれていく二つの学が、同じ場所に至ることはついになかった。むしろ後に「正学」とされた朱子学の徒の多くは、陸子の学を異端として排斥した。
だが元晦は子静を共に歩む同志とし、子静は元晦を聖なる山、泰山に喩えた。対面したのはわずかに二回だが、その生涯で多くの書簡を交し、学問の話のみならず、政治上の議論や人物評、互いの近況や体調の話まで、二人の交流は長く深く続いた。朱陸と並び称される二人の個性のぶつかり合いを通して、儒の学は更に深化し、磨き上げられてゆくのである。
参考文献(敬称略)
〇『中国古典新書 朱子文集』友枝龍太郎(明徳出版社)
〇『中国古典新書 陸象山文集』福田殖(明徳出版社)
〇『朱子伝』三浦國雄(平凡社)
〇『南宋道学の展開』福谷彬(京都大学学術出版界)