二 武夷精舎(一)
武夷山は、「碧水丹山」と称えられる福建路の名山である。
朱元晦が営む学び舎は、その麓、崇安の町にある。武夷精舎と呼ばれ、数十人の門人が集まって共同生活をしている。
山麓の閑雅の地に、元晦の怒鳴り声が響く。
「お前たちは、学問がしたいとここへ来たのではないのか!」
持病の腰痛に苦しむ元晦は、朝の挨拶を受けてから私室に引っ込んでいた。師の身の回りの世話をするため、数人の若い門人が部屋に詰めていたのだが、無駄話をしていて元晦の逆鱗に触れた。
元晦は書物には並外れた忍耐で取り組むが、性格は短気で癇癪持ちである。
「師の前で書も読まず質問もせず無駄口ばかりとは! 学ぶ気がないなら出て行け!」
「先生」
古参の門人である陳が入ってきて、若者たちを下がらせた。師の癇癪にもすっかり慣れた三十代の門人は、枕を直しながら苦笑する。
「腰に障りますよ」
「好きで怒鳴っておる訳ではない」
元晦は憤然と言った。
「先生を疲れさせてはと思ったのでしょう」
「師の腰の具合より、考えるべき事は他にある」
「先生」
陳は胸元から一通の書簡を取り出す。それを返すためにここに来たらしい。
「子静どのに、何と書き送られたのですか」
元晦は書簡を受け取る。
「随分落胆のご様子です」
学問上の書簡のやりとりは、共有されるのが普通だ。特に子静については、元晦は日頃「当世着実に学問をする者は、私と、金谿の陸子静の二人だけだ」とまで言っているので、門人たちは皆が読みたがる。
元晦は書簡を眺めた。文字の向こうに、肩を落とした姿がありありと見える。彼の言は、いつも率直だ。
書き送った詩経の一節を、元晦は呟いた。
「「我は日に斯く邁き、而は月に斯く征かん」」
小さく息を吐き出す。
「日に月に、昼に夜に、お互い己れの信じるところを行こう―――そう書いた。これ以上言葉を重ねても、我々が同じ場所に至ることはない」
陳は寝台の傍らの椅子に掛けた。
「「小宛」は、兄弟共に日夜励もうという詩ですね」
さすがによく勉強していると、機嫌を直して元晦は微笑する。
「我々はいつまでも向き合って論を戦わせているよりも、それぞれの場所で歩み続ける方が良い」
武夷山の彼方を思う。
最後に会ったのは、八年前だ。
どう過ごしているだろう。あの生意気な男は。