72 変容する獣
戎兵衛はほどなくして意識を取り戻した。
ひどくぼんやりとした様子で周囲を見渡していたが、ひどい泣き顔をさらしていた陽炎を見つけると、弾かれたように起きあがった。
「お嬢、怪我は!」
張りつめていた緊張感が途切れたのだろう。
肩を掴まれた陽炎が顔を歪め、また嗚咽をはじめた。
狼狽える戎兵衛の肩に、コブが手を置いた。
「怪我をしていたのは君だよ、戎兵衛。あとで詳しく説明するから、とりあえずいまは陽炎といっしょに身体を休めてくれ」
コブにうながされ、陽炎と戎兵衛以外の全員が外に出た。
陽はとうに西に見える山嶺の彼方に没しており、わずかに残った薄明が黒々とした稜線を際立たせている。
夜の静寂がひたひたと忍び寄る気配が、あたりに漂っていた。
馬車の外では、ひと足先に降りていた侍女頭が茶の用意をしていた。
従者の冒険者に手伝わせたのか、石を積み重ねた簡易のかまどに火がつけられ、小ぶりのポットがかけられている。
柔らかな炎の揺らめきと注ぎ口から立ちのぼる湯気が人の営為の暖かさを思い出させ、カシューはようやく肩の重みを手放した気分になった。
他の者たちも同様だったのだろう。
銘々が座りこんだまま口を開くこともなく、虚ろな眼差しを手元に落としていた。
一様に弛緩した空気のなかにあって、ただ一人、メルトだけが眉間に皺を寄せたまま険しい顔を崩そうとしなかった。
「カシューさん、治療の必要な方がもう一人いらっしゃいますわ」
近づいてきたメルトに話しかけられたカシューは、訝しげな視線を返した。
「怪我人を看護なさっていたあの女性です」
「陽炎が? どういうことだ」
詳しく話を聞こうとカシューが腰を上げると同時、馬車の扉が激しく音を立てて開いた。
取り乱した表情の戎兵衛が姿をあらわし、カシューと目があうと叫んだ。
「旦那っ、司令! 来てくれ。お嬢の様子がおかしい!」
カシューを含め、その場にいた全員が理解が追いつかずに硬直するなかにあって、まっさきに行動を取り戻したのも、メルトだった。
馬車に向かって駆け出しながら、アデリーン王女に指を突きつける。
「アデリーンさん、手伝ってください!」
侍女に手渡されたカップを手に、飲むでもなしに湯気を顔にくゆらせていたアデリーン王女は、メルトから切羽詰まった声をかけられて目を丸くしながらも立ちあがってあとを追った。
ひと足遅れてカシューが駆けつけたとき、馬車の内部には四肢をのけぞらせながらガクガクと肉体を痙攣させる陽炎の姿があった。
先ほどまで泣き濡れて火照っていたはずの顔が、いまは土気色に変わり死相の態を成していた。
「お嬢っ、お嬢!」
叫んだ戎兵衛が陽炎の身体を抱きかかえたとき、食いしばった陽炎の口元から年を経た老人のような低い唸りが漏れ、糸が切れたかのごとく全身の力が脱け去った。
戎兵衛を突き飛ばすようにして陽炎の身を横たえさせたメルトが、陽炎の胸元に直接耳をつけた。
「心肺停止。アデリーンさん、除細動の準備を」
慌ただしく動いていたメルトが、ふいに動きを止めて自分の手のひらを見た。
手首から指先までが、べっとりと赤く染まっている。
意識のない陽炎の身体を横にしたとき、腰のあたりを押さえたはずだった。
「メルトさま、これを」
アデリーン王女がかすかに震える声で呼びかけ、陽炎を指さした。
彼女が履いていた黒いズボンから大量の血が滲みだし、馬車の床に血だまりを作ろうとしていた。
「……アデリーンさんはこのまま心肺蘇生を続けてください。わたくしは衣服を脱がせて止血を試みます」
感情の抜け落ちた顔でメルトがカシューを振りかえり、衝撃に目を見開いたまま震えている戎兵衛を顎で示した。
「カシューさん、この方を外へ。治療の邪魔です」
カシューは戎兵衛の背中から腋の下に腕をまわすと、強引に馬車の外に引きずり出した。
「戎兵衛、大丈夫だ。ふたりにまかせよう」
「旦那! いったいどうなってるんで……。お嬢が……、お嬢は!」
動転して掴みかからんばかりにすがりついてくる戎兵衛に揺さぶられながら、カシューは返す言葉を持たなかった。
早朝、陽炎と出会ったときから明らかに具合の悪い様子に驚いてはいた。
馬車を護りながら騎士たちを相手にしていたときや、崖を登攀していたさいも動きに精彩を欠いていると感じていたが、すべては死にゆく蜥蜴の苦痛を治癒魔法で吸収したからだと思っていた。
陽炎自身が強硬に同行を主張したとはいえ、やはりあのとき強引にでもその場に留まらせるべきだった。
いまさらどうにもならないとわかっていながら、カシューは心が後悔に塗りつぶされていくのを止めることができずにいた。
「さあ、おふたりともこれをお飲みになって」
鼻をくすぐるハーブの薫りとともに、目のまえにカップが突きだされた。
「心を落ち着かせるカモミールです。少しは胸が穏やかになるでしょう」
アデリーン王女の侍女頭であるクララ・クレイトンは、そう言って強引にカップを手渡してきた。
柔和そのものの顔と口調ではあったが、有無を言わさぬ迫力に気圧されたカシューと戎兵衛は、毒気を抜かれたようにおとなしく熱いハーブ茶に口をつけた。
緊張から乾いて粘ついていた口内に、潤いが満ちていくのがわかった。
「戎兵衛さんとおっしゃいましたか。大丈夫、アデリーン姫は優秀な治癒魔法の使い手ですし、あのメルト様という方はその姫が奇跡と賞するほどの腕の持ち主です。現にあなただってこうして元気になったではありませんか。その身で奇跡を体験したあなたなら、わかるはずです。いまは信じて待ちましょう」
やや低めの声でゆったりと紡がれた言葉は、焦りと苛立ちで昂ぶっていた男ふたりの耳に入ると、その心を包みこむようにして染みこんでいった。
まるで不安や悲しみを溶かして希釈するように、聞く者の心を安心させる声だった。
「すいやせん、取り乱しちまって」
飲みおえたカップを両のてのひらで包んだまま、戎兵衛が小さな声で呟いた。
「大切な方なんでしょう、あたりまえです。お茶のおかわりはいかがですか」
うなだれていた戎兵衛が返事をするまえに、クララ・クレイトンはカップを取りあげると新しい茶を注ぎ入れた。
頭を下げて受け取った戎兵衛が、口辺をわずかに持ち上げて自嘲気味に笑った。
「お嬢が……陽炎さまがいなけりゃ、あっしは今ここにおりやせん。故郷でとうに野垂れ死んでたはずでさ」
「陽炎さんとおっしゃるのですね、あの方は」
「へえ。あっしを育ててくれた頭領の娘さんでさ」
「まあ。それでは幼なじみの間柄ではありませんか」
目尻に皺を浮かべたクララ・クレイトンが朗らかな声をあげると、戎兵衛は驚いたように目を丸くした。
「幼なじみ……。そんなことは考えたこともありやせんでした。いや……、そんな、おそれおおいことで」
ぽつりぽつりと閊えながらささやくようにしゃべる戎兵衛に、クララ・クレイトンは多くを語りかけることはしなかった。
控えめなあいづちとわずかな問いかけだけで、巧みに会話を引き出していく。
窪みに溜まった水がゆっくりとこぼれ落ちるように語っていた戎兵衛の言葉は、やがてそぼ降る雨粒のようにとめどなく豊かなものになっていた。
あのご婦人にまかせておけば大丈夫だろう。
そう判断したカシューはその場を離れることにした。
湯を沸かしていたかまどのかたわらに、新しく焚き火が起こされていた。
馬車に備えつけられたカンテラがぼんやりと輝いているところからみて、従者をつとめる冒険者の男が明かり取りのために火を起こし、ほうぼうを灯してまわったのだろう。
焚き火の放つ光からほどない場所に、休ませた馬たちの体躯を熱心に拭う冒険者の姿が見えた。
カシューは近づいていくと声をかけた。
「手伝わせてくれるか。こいつにはずいぶん無理をさせた。礼をしたいんだ」
手を止めて振り向いた冒険者に向け、馬の一頭を指さす。
足を畳んで腹を地に着けた姿勢で順番を待っていたらしいその馬は、カシューに気づくと立ちあがって問いかけるような目を向けてきた。
「あとはそいつだけです。私は軽く食べられるものを作っておきたいので、お願いしてもいいですか」
喉を痛めているのか、男はひどく聞き取りづらいくぐもった声で返事をした。
受け取ったブラシで丹念に馬の筋肉をほぐしながら、カシューは焚き火に戻り鍋をかきまわしている冒険者のことを考えた。
先ほど交わした声は、以前に聞いた声とはまるでちがう音を響かせていた。
全身に黒い炎を宿らせ、虎獣人の娘を火炙りにしていたあの男。
ざらついたダミ声は、あの黒い炎が男の肉体もろとも灼いていた証にちがいなかった。
こんがりと焼けた肉を、男の身に宿った蛇が美味そうに牙を突き立て、咀嚼し、飲み込んでいく。
そして失われた肉を補うようにして蛇はいっそう強く絡みつき、その肉体にきつく鱗を食いこませていく。
そうやって少しずつ、男の全身を乗っ取っていくのだ。
そこまで想像して、カシューは戦慄した。
すべての肉体を蛇に食い尽くされたとき、あの男はアッシュでいられるのだろうか。
あの男の魂に棲みついた蛇を、メルトはセフィロトと呼んでいた。
カシューが魔眼で見出した神界の蛇セフィロトは、まちがいなくその身に深い知性を宿していた。
人とは根源からして異なる魂の輝きを、あの蛇は持っていた。
ひとつの体にふたつの魂は必要ない。
弱き者が強き者に喰われるのは必然だと消え去るのか、ふたつが溶け混じって新しいひとつとなるのか。
いずれにせよ、あの男がいまもまだ元のアッシュという人間だと言い切れる保証はない。
ならばあの男は、いったいどのような理でいまを生きているのか。
地を這う生き物を冷徹に観察する神の理か。
それとも、地の底から天を見上げて希望を抱く人の理か。
てのひらに伝わってきたかすかな震えに、カシューは我に返った。
苛立ちを含んだ馬の唸り声だった。
後ろを向いて伏せられた馬の耳が忙しなく動き、鼻に皺が寄っている。
薄く眇められた黒い瞳がカシューの様子をうかがっていた。
「すまない。いまはおまえをねぎらってやることに集中しなくてはな」
再び動きはじめたカシューの手に自分への労りが込められていることを理解すると、馬は満足そうに瞼を閉じて鼻を鳴らした。
カシューは苦笑を漏らしながらも、ブラシが馬の毛をかきわける、その小気味よい音に耳を澄ませた。




