71 駆ける獣
メルトを背に担いだ従者の男は、ダンジョン内を滑るように駆け抜けた。
火をつけた松明をメルトに持たせていたが、揺らめく炎が進行方向を照らしだすことはなく、もっぱら後続するカシューたちの足元に向けられていた。
それは従者の男ひとりだけならば、松明など必要のないことをあらわしていた。
一度も立ち止まることのないまま疾走をつづけ、ダンジョンの入り口に戻ってきた。
カシューも剣の勇者も、膝に手をついたまま荒い呼吸を繰り返し、しばらくは口を聞くこともできなかった。
すでに日は大きく傾き、燃え立つような夕日が周囲いちめんを赤く染めあげている。
空に闇が滲みだし、夜の帷が落ちるまでわずかな時間しかないはずだった。
水袋に口をつけたカシューは、せり上がってくる胸の焦りを水とともに飲み下しながらメルトに顔を向けた。
「軍用街道を東に出て、最初の野営広場で待たせてある。丘をみっつほど越えた先だ」
そのとき、聞き覚えのある嘶きがカシューの耳に届いた。
街道に置いてきたはずの馬が物陰から姿をあらわし、カシューに首を寄せてきた。
「おまえ、どうやってここまで来たんだ」
耳裏を掻いてやりながら訊くカシューに答えたのは、メルトだった。
「カシューさん、もしかして藪のなかを突っ切ってきたんですか」
あきれた様子で口を開いたメルトに聞けば、早朝に街を出発した一行は山道を登り、山頂を大きく迂回して裏山からこのダンジョンに辿りついたという。
ダンジョンへ侵入するまえに休憩を取ろうと入り口周辺を探索したとき、自分たちが進んできた山道がさらに延びていることに気づき、辿ってみれば明らかに人為的な道が延々と続いているさまを発見して驚いたらしかった。
「あの大きな道はなんだろうと不思議に思っていたんですが、軍用の秘匿連絡道だったんですわね」
蜥蜴との会話によって、勇者たち一行もこの隠し街道を利用しているはずだと早合点したのはカシューであり、最短距離に焦るあまり、ダンジョン入り口に直接つながる脇道の存在を失念したのもカシューだったが、徒労感に浸っている暇はなかった。
馬がいるなら、それだけ早く戎兵衛のもとにたどりつくことができる。
「この馬を使ってくれ。あんたたちだけでも先に着いてほしい」
カシューが手綱を渡そうとすると、従者の男が首を横に振り、その背に乗ったメルトが言葉を返した。
「わたくしたちはこのまま走りますから、カシューさんはタナカさんを馬に同乗させてあげてくださいな。それが一番早く到着するはずですわ」
メルトの言う人物が誰のことか思いいたるまで、一拍かかった。
タナカイチロウ。
剣の勇者の本名だった。
本人が書いたサインも見たことがある。
彼らが用いる文字によれば、田中一郎と表記するらしい。
ダンジョンを駆け抜けたときと同様、メルトを背負った従者を先頭にして走りだした。
鞍にまたがったカシューは、鐙を踏みしめながら前を走る冒険者を驚嘆の思いで凝視していた。
背負った背負子にメルトを座らせた前傾姿勢のまま、体躯をほとんど揺らすことなく駆けつづけている。
男ふたりを乗せているとはいえ、歩幅の広い馬の駈歩に生身の人間が着いていくのは容易ではない。
身体強化をかけつづけるにも限界があるはずだった。
男の足元に目をやって気づいた。
刻一刻と沈む太陽によって残照の欠片がくっきりと陰翳を刻む景色にあって、男の影だけが深更の闇夜のように黒く塗りつぶされていた。
おそらく、あれは影ではない。
液体のように物質化させた闇魔法の一種であるはずだった。
大地に張りつかせた闇を滑らせ、その表面におのれが浮くことで文字通り滑走しているのだろう。
光ひとつない闇夜に身を置いたとき、この男がどれだけの力を発揮することができるのか。
それを想像したカシューは、背に震えが走ることを止められなかった。
ひとつめの丘の頂点を越えたとき、はるか前方から二頭の馬に曳かれ、ゆっくりと進んでくる馬車の姿を見出した。
あのときカシューが呼んだ馬以外にも、森に逃げ込んでいた馬がいたのだろう。
西の彼方に消え去りゆく太陽から伸びた最後の曙光が、御者台で手を振るコブのシルエットをはっきりと照らしだしていた。
「カシュー! 馬車に乗せて連れてきた。急いでくれっ。もうもたない!」
かすかに聞こえてきたコブの叫びにあわせ、前を走っていた男が爆発的な加速をみせた。
地をこすらんばかりに上体を倒した体勢を維持したまま、放たれた矢のように馬車に向かって突進していく。
背負ったメルトの金髪が風にたなびいて一本の房のように尾を引き、さながら彼方へと流れ去っていく流星のように見えた。
カシューが必死になって馬を走らせる視線の先、またたく間に馬車にたどりついた男が倒れこむようにして膝をついた。
すぐさまその背から飛び降りたメルトが、キャビンの扉を開き、内部へ飛びこんでいった。
ようやく追いついたカシューが転がり落ちるように馬から降りたとき、馬車の内部から耳をつんざく陽炎の叫びが響いた。
「戎兵衛っ、戎兵衛!」
頭から血の気が引いていく音を、カシューは聞いた気がした。
全身から湯気を発するほど体表に熱がこもっているにもかかわらず、胸の芯が凍りついたように冷えて凝り固まっていく。
膝に力が入らず、よろよろとおぼつかない足取りで馬車に近づいていった。
額から流れた汗が瞼に入ってひどく目にしみたが、カシューは拭うことすら忘れて充血した瞳を見開いていた。
横たわる戎兵衛にしがみついて泣きじゃくる陽炎の姿があった。
戎兵衛は一切反応を返すことなく、穏やかな顔つきで目を閉じていた。
その顔はどこも焼け爛れてはおらず、熱波と炎に炙られてところどころが炭化していた肉体も、生まれたばかりの赤子のように瑞々しい皮膚を取り戻していた。
規則正しくゆっくりと上下する胸が、新鮮な空気を体内に循環させている。
戎兵衛は生きていた。
容態でも確認しているのか、戎兵衛のかたわらに膝をついたメルトが、空中にいくつもの魔法陣を浮かびあがらせて真剣な表情で操作していた。
カシューと目があうと、目元を柔和な色にかえて頷いてみせた。
カシューは全身が萎むほど大量の息を吐き出すと、キャビンの扉をつかんだままずるずると座りこんだ。
馬車のなかでは、額に珠の汗を浮かべたアデリーン王女が、カシュー同様、青褪めた顔に茫然とした表情を張りつかせてへたりこんでいた。
口元がかすかに動き、わずかな囁きが漏れた。
「奇跡が……。わたくしの眼前で生命の秘儀が……」
瞬きすら忘れた瞳が朧に濡れ、盛りあがった水滴が揺れて流れた。
頬に一筋の涙を伝わせながら、彼女は神に感謝の祈りを捧げた。




