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69 地を舐める天馬

 カシューはとっさに物陰に飛びこむと、手にしていた松明に砂をかけて火を消した。

 追いかけてきた一行が勇者パーティーではなかったのかもしれないという焦りもあったが、なによりも、届いてきた不穏な雰囲気に対する危機感が上まわった。


 身を潜めた岩の隙間から首を出したカシューは、様子をうかがおうと目を凝らした。

 加勢に出るつもりで全身に巡らせていた魔力は五感を鋭敏にさせ、魔眼は肉眼であれば確認しえない魔力の流れをも詳細に映しだす。

 その目に入ってきたのは、戦いなどと呼べるものではない異常な光景だった。


 悲鳴の主であろう虎獣人の女を羽交い締めにした冒険者が、おのれの身もろとも炎上し、激しく舞い踊る炎を立ちのぼらせていた。


 それを炎と言っていいのか、カシューにはわからなかった。

 先の尖った爬虫類の舌のような揺らめきが何百何千と凝り固まり、一瞬たりとも静止することなく閃いては消えてゆく様相はまさしく炎としか思えなかったが、ただ一点、断じてあり得ないと認識を阻むことは、その炎は黒かった。


 あらゆる光を吸い尽くしながら、なお周囲を激しく明滅させる闇色の炎。

 そうとしか呼べないなにかを、冒険者の男は全身から発していた。


 カシューが発動させていた魔眼が捉えた男の姿は、ただ人の形をした黒い塊にすぎなかった。

 その体内から這い出てきた黒い蛇が虎獣人の女に絡みつき、闇色の炎で焼き尽くしているさまが見えた。


 やはりあの男は人間であることをやめたか。

 頭のなかで理解を拒絶していた理性を押しのけて、感傷にも似たあきらめが湧きあがってきた。

 胸に落ちたその感情がため息のように広がり、重苦しく全身を浸していくように思えた。

 ひどく悲しかった。


「熱い。熱いよ、お兄ちゃん。助けて、苦しいよ」


 羽交い締めにしていた男は、もがき苦しむ虎獣人の足を払って組み伏せると馬乗りに覆い被さり、身にまとう炎の火力をさらに上げた。

 虎獣人のあげる悲鳴が弱々しく意味をなさない断末魔にかわり、暴れまわっていた手足から徐々に力が抜けていった。


「トーカ!」


 虎獣人の名前であろう叫びをあげたのは、剣の勇者を翻弄していた熊獣人の男だった。


 剣の勇者が振りおろす剣にもかまわず背中を見せた熊獣人は、妹を襲う冒険者に飛びかかり、その巨体で弾きとばした。


「トーカ、トーカ!」


 なんとかして火を消し止めようと半狂乱の態をなす熊獣人に向かい、ばたばたと足音を立てながら追いかけてきた剣の勇者が背後から斬りかかった。


 振りかぶった剣が光を反射して振りおろされ、突き込まれるたび、熊獣人の背中から赤い飛沫が飛び散った。

 全身を覆う剛毛を伝って流れ落ちた血が妹に降りそそぎ、その身を包む炎の勢いを弱めさせた。

 蒸発した血液から上がる煙が周囲に充満し、燃えた肉と強烈な鉄さびのにおいがカシューのもとにまで届いてきた。


 どれだけ斬りつけようとも妹を抱きしめたまま動こうとしない熊獣人に業を煮やしたのか、剣の勇者が執拗に首元を狙いはじめた。

 技もなにもなく、金属の塊が持つ重みだけを利用して何度も叩きつけられた剣は、やがて熊獣人の肉を深く穿ち、その首を切り落とした。


 息を荒げ、したたり落ちる汗と返り血で顔面を斑に染めた剣の勇者が、頭を失ってなお妹を離さない熊獣人の肉体に手をかけて引きずり倒した。

 見開き血走ったその瞳のなかに、狂気があった。


 横倒しになったことで、熊獣人の首の切断面から大量の血液が溢れだした。

 自分の足元に広がっていく赤黒い染みを茫然と見おろしていた剣の勇者は、全身の力が抜けたように剣を取り落とすと、その身が汚れるのもかまわず血だまりのなかにしゃがみこんだ。

 抱えた膝に埋めた顔から、くぐもった嗚咽が漏れ響いた。


「お兄ちゃん……、お兄ちゃん」


 虎獣人の娘は、もはや指一本動かす力も残っていないようだった。

 見えているのかもわからない瞳をさまよわせながら涙を流し、か細い声で兄を呼びつづけていた。


 熊獣人の体当たりによって吹き飛ばされていた冒険者の男は、起き上がろうとして膝をつき、四つん這いで砂を握りしめた姿勢のまま硬直していた。

 なにかに耐えるように、背中が細かく震えているのが見えた。

 カシューの魔眼は、男の全身に絡みついた長大な蛇が激しく身をくねらせながら皮膚の表面を這いまわり、牙を突き立てて彼の肉を貪っている姿を捉えていた。


 生きながら食われる痛みに(さいな)まれる冒険者。

 胎児のように身を丸めたまま調子のはずれた嗚咽を漏らす剣の勇者。

 忍び寄る死という圧倒的な恐怖に助けを求めて泣く瀕死の虎獣人。

 その場で立っているのは、女神であるメルトだけだった。


 メルトは沈鬱な表情で周囲を見渡していたが、おもむろに虎獣人に近づくと手にしたメイスをその眉間めがけて振りおろした。

 幼い声を断ち切って鈍い破砕音が響いた。


 なにもかもが静止したような一瞬ののち、なにかを振り払うように首を振ったメルトが強く息を吐き出した。


「いつまで隠れているおつもりですか、カシューさん。ご用件がおありなら、姿を見せなさいな」


 メルトの声に我に返ったカシューは、身を潜めていた岩陰から出ようとして苦痛に顔をしかめた。

 意識しないうちに力を込めていたのか全身が強ばり、関節が硬直していたからだった。


 石を砕くようにぎこちない動きで立ちあがったカシューは、他意がないことをしめすために両手を持ちあげると、洞穴のなかへと足を踏み入れた。


「すまん。隠れて盗み見るつもりはなかったんだが、戦闘中に声をかけるわけにもいかなかった」


 あらためて眺め渡した洞穴の全景は、ダンジョン最奥部のボス部屋というよりも、儀式のために構築された広間といったほうが正しい空間だった。


 十人程度の人数ならば余裕をもって野営ができそうな広い洞穴のいたるところに、ひと抱えほどある大きさの石版がいくつも立てられていた。

 大理石製とおぼしき石版には、表と裏の両面に精緻な魔法陣が刻まれている。


 かつて国王とコブが行った元勇者召喚の儀式を垣間見たことがあるカシューは、その魔法陣が転移を目的とした空間魔法に似ていることを見抜いたが、本来ならば古代魔法文字が書かれている部分には、見たこともない複雑な紋様が描かれていた。

 それは異世界の漢字と呼ばれる表意文字であったが、カシューには理解すべくもなかった。


 よく見れば、地面には直線と円で構成された複雑な幾何学模様が描かれており、石版はそのライン上にさまざまな角度で配置されていた。

 なんらかの法則をもっているのはまちがいないが、それがなにを生みだすのか、想像もつかない。

 カシューにできることは、ただ記憶することだけだった。


「魔王の腹心である四天王が設置しようとしていた転移魔法陣ですわ。本来ならばスタンピードなど起こるはずのない管理された人里周辺で、突如として凶暴化した魔物が集団発生する。その原因がこれです。知る人のないまま各地に点在している小規模ダンジョンに、高性能の小型魔法陣を設置して強化された魔物を転移させる。いままで痕跡ばかりを追ってきましたが、ようやく大元を断つことができました」


 いままで、勇者一行が危険性が少ないとされる小さなダンジョンばかりを選んで潜っていた目的が明かされたが、カシューの注意を惹いたのはそこではなかった。


「四天王ということは、やはりあのふたりの獣人は元勇者の――」


 手を伸ばしてきたメルトに口を塞がれ、カシューは続けようとした言葉を飲み込んだ。


 顔を近づけてきたメルトが、声をひそめて囁いた。


「言ったはずです。勇者の彼にとっては、同じ世界の同胞だと。いずれは魔王の正体を知ることになるでしょうが、いまはまだそのときではありません。それに……」


 目元を険しくしたメルトの視線を追って、カシューも首を動かした。

 そしてそこにあるものを見たとき、息を飲んだまま呼吸を忘れた。


 焼け焦げた虎獣人と首を失った熊獣人の姿が光の粒子を放って輪郭を小さくかえていき、かわりに現れたのは、同じ獣人ではあったが幼い少女と少年の物言わぬ(むくろ)だった。


「魔人の身体強化が解けて、本来の姿に戻ったんですわ。わたくしたちが手にかけたのは、年端もいかぬ子どもです」


 しゃくりあげていた剣の勇者が顔をあげ、カシューと同じものを見て目を見開いた。

 狼狽に震えた悲鳴のような呻きが喉から漏れ、すぐにそれは長い慟哭へとかわっていった。


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