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68 闇に潜む獣


 馬の全身から絶え間なく立ちのぼる湯気が顔を包み、息を吸いこむたびに濃厚な獣臭が喉の奥に染みこんでいくのをカシューは感じていた。

 激しく上下する足並みによって、したたり落ちるカシューの汗と飛び散る馬の汗が入りまじり、(つぶて)のように打ちかかって全身を濡らしていく。

 早鐘のような馬の鼓動が馬体を締めつける(もも)から伝わり、カシューの身体を痙攣したように震わせた。


 (あぶみ)の上に立ったままなりふりかまわずに急ぐカシューの意図を読み取った馬は、嫌がる素振りもみせずに全力で駆けつづけていた。


 蒼穹(そうきゆう)へとつづく傾斜を猛烈な勢いで駆け登ったとき、突如として開けた視界の先、伸びてゆく街道の一角に霧のようにわだかまる(ほの)かな光が見えた。


「行け! もう少しだ」


 カシューの叫びにこたえた馬が後脚で立ち上がって激しく(いなな)き、脚さばきに勢いをつけると矢のような速さで坂道を駆け下りていった。




 目的地が近いことを確認したカシューは、手綱を引き絞って停止を命じた。

 惰性のままに何歩か進んだ馬が(くずお)れるように足を折った。


 受け身を取りながら飛び降りたカシューは、横たわって引きつけのような呼吸を繰り返す馬に飛びつくと、(くら)につけられたサドルバッグから水筒とポーションを取りだした。

 激しくあえぐ口元にポーションを流し込み、水筒を添えて傾ける。

 目を剥きだしてカシューを見つめていた馬は、舌を巻きこむような勢いで水を飲みこんでいった。


 倒れた馬の脇腹にかぶせた両手を、一定のリズムを保って押しつけた。

 しばらくすると、不規則に脈打っていた鼓動が柔らかく穏やかなものにかわっていくのがわかった。


「よくやってくれた、ありがとう。しばらくしたら戻る。ゆっくり休め」


 カシューが首をさすってやると、耳をぴくつかせた馬が低く鼻を鳴らした。


 立ちあがったカシューは街道脇の林に足を踏み入れると、光の見えた方向へと進んでいった。

 向かう先には丘に毛が生えたような山が盛り上がり、むきだしになった岩肌が急な斜面をさらけだしている。

 岩壁のどこかに洞窟でも開いているのはまちがいなかった。


 丈高く繁った下草に足を取られながらも、小走りに急いだ。

 獣道すらない山道を、本当にあのメルトが進んできたのかという疑問は浮かんだが、道に迷う心配はなかった。

 魔眼を使うまでもなく、肌でわかるほどに濃密な瘴気が流れてくる。

 それを辿っていけば彼らがいる。

 その確信があった。


 時間にすれば四半刻(しはんとき)もたっていないが、とにかく(やぶ)が濃い。

 そのくせ、周辺に生き物の気配をまったく感じないのが異常だった。

 木々を飛び交う鳥の鳴き声ひとつなく、繁みを跳ねる羽虫の姿ひとつない。

 照りつけてくる西日に(あぶ)られた草いきれだけが、むっとする森林のにおいを立ちのぼらせていた。


 額から流れる汗が頬を伝って顎からしたたりはじめたころ、そこを見つけた。


 洞窟などというたいそうなものですらなかった。

 人ひとりがくぐり抜けられる程度の亀裂が岩肌に開いているだけの場所だった。

 だが、さして奥行きがありそうには見えない外見にもかかわらず、闇が張りついたように内側をうかがい知ることができない。

 底知れぬ不気味さが漂っていた。


 入り口の脇には、茶でも沸かしたのか枯れ枝を(たきぎ)にして火を焚いた跡があった。

 近づいたカシューが確認してみると、焼け跡の周囲に細かな木の削りカスがいくつも散らばっていた。

 人数分の松明(たいまつ)を作ったのだろう。


 三人の勇者一行のうち、従者をつとめる一人は年若くして経験豊富な熟練冒険者であり、カシューが見たところかなり生真面目な男でもあった。

 用が済んで立ち去るにしても焚き火跡をそのままにするはずがなく、光のない洞窟内から松明を持たずに出てくるとも考えられない。

 連中はまだなかにいる。


「メルト! カシューだ。聞こえているなら返事をしてくれ!」


 入り口から大声で呼びかけてみたが、あたりまえのように声が返ってくることはなかった。

 それどころか、カシューの声すら吸いこまれるように消えてゆき、わずかな反響すら戻ってこない。


 カシューは舌打ちをすると、焚き火跡から手頃な薪を手にとり、暗闇に足を踏み入れた。


 身体を横にして亀裂にもぐりこむと、進むにつれて空間が広がっていく気配にカシューは驚いた。

 わずかな光が残っているうちに松明に火をつけて頭上にかざすと、両手を広げてもあまりある横穴が灯りの届かぬ先まで延々と伸びていた。

 そして奥から流れてくる、濃い瘴気。

 物理的な圧迫感を感じさせるほどだった。


「くそ、いったいなにが起きているんだ」


 肌に絡みついてくるような粘液質の瘴気に口元を押さえ、カシューは思わず悪態を漏らした。


 気持ちを(はや)らせながらしばらく歩くと、湿った岩肌がふた股に分岐しているのが見えた。

 眉をしかめながら松明をかざすと、一方の横穴から炎の赤色とはちがう光が目に入った。

 カシューの胸ほど高さの岩肌に、女のものとおぼしき手の跡がつけられ、かすかに光を放っている。

 一本だけ突きだした指先が、洞窟の奥を指していた。

 メルトによる目印だった。


「……やるじゃないか」


 わずかに口元を緩ませたカシューが魔眼を発動させて行く先に目を向けると、松明の明かりが届かない闇の奥まで指先跡が点々と浮かんでいる光景が目に写った。

 はっきりと口元に笑みを浮かべたカシューが、声に出して言った。


「やるじゃないか」


 カシューはその場で軽く飛び跳ねて関節をほぐすと、わずかに前傾姿勢をとった。


「よし、いくぞ」


 暗闇が支配する細長い洞窟のなかを、長く尾を引く松明の炎が疾走していった。




 幾重にも枝分かれした横穴を奥へ奥へと駆け抜けていくうち、魔物の死体が目につくようになった。

 浅い部分に放置されていた死体にはスカベンジャーと呼ばれるダンジョン特有の虫がたかり、半ば分解されていたものも多かった。


 スカベンジャーがいる以上、この洞窟がダンジョンであることにまちがいはないが、通常であれば森の奥地に潜んでいるような四つ脚の魔獣型ばかり見かけることに、カシューは首をかしげた。


 いくらダンジョンの生態系が謎とはいえ、こんな洞窟であればゴブリンやスケルトン、巨大な蟲型の魔物で構成されているはずだった。

 スカベンジャーによる吸収具合を見るかぎり、カシューが入ってきた亀裂とは別の大きな入り口からさまよい込んできたとも考えづらい。

 ダンジョンの最深部から湧いてきた魔獣を、先行しているメルトたちが倒しながら進んだと考えるほうが自然だった。


 そして魔獣たちの死体についた傷にも特徴があった。

 鋭利な刃物による切創(せつそう)と鈍器による挫滅(ざめつ)あとが剣の勇者とメイスを持ったメルトによるものなのはまちがいないにしても、焼け焦げた死体の多さが奇妙だった。

 しかも強く素早い強力な魔獣ほど、なすすべもなく激しく焼き尽くされた様子がうかがえる。

 こんな狭い密閉空間で、魔獣の全身を焼き尽くすほど威力の高い火魔法を使う危険性を、あの冒険者が考慮しないとは思えなかった。


 そろそろ最奥部だと見当をつけたカシューが足を速めると、思ったとおり、曲がり角を抜けた先に大きな洞穴が広がっているのが目に入った。

 松明による赤い炎の揺らめきとは異なる、緑がかった白い光が内側から洞穴全体を照らしだしているようだった。


 近づいていったカシューが呼びかけるために大声を出そうとしたとき、刀剣を打ち交わす激しい金属音が耳に入ってきた。


 戎兵衛(じゆうべえ)を助けるためにも、加勢して早く戦闘を終わらせるべきだ。

 そう考えたカシューが全身に魔力を(みなぎ)らせ、戦闘態勢に入った瞬間、ありえない声が聞こえた。


「お兄ちゃん。熱いよ、助けて」


 幼い少女の悲鳴だった。


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