64 鶏の気持ち
カシューはダンジョンのある場所を指さしてふたりに教えると、山肌を覆う木々を東に向かって目を凝らした。
アデリーン王女を護衛した一行は王都から向かってくるはずだが、軍用街道が山並みのどこから続いているかはわからない。
さいわいなことに、岩壁を強引に登ってきたことで、ダンジョンまでの距離をかなり縮めることができた。
眼下に見下ろす低い丘陵地帯を三つも超えれば、ダンジョンの入り口にたどりつくことができるだろう。
一度そこまで向かい、道を発見したあと辿っていくのが確実だろうが、蜥蜴の話を思い出すかぎり、そんな悠長なことをしている余裕があるとも思えなかった。
焦りに汗を滲ませながら木々を睨みつけるカシューのとなりで、周囲に視線を巡らせていた陽炎が口を開いた。
「この地形ならばいけるじゃろう。戎兵衛、飛花青嵐の術を使う。おまえは柏手を打って耳を凝らせ」
「なにをするつもりだ」
訝しんだカシューがふたりに声をかけると、近寄ってきた戎兵衛がなだめるようにカシューの肩を叩いた。
「大丈夫でさ。あっしらにまかせてくだせえ」
山頂の切れ目、足元から広がる景色を見渡せる崖の先端に進んだ陽炎は、深く息を吸うと羽ばたくように大きく両腕を上げてみせた。
目を閉じて軽くうつむいた陽炎の顔は、極度の集中をうかがわせて表情が抜けおち、人形めいた美貌だけが冴え冴えと光っているように見えた。
彫像のように身動ぎしない陽炎の全身に対し、広げた腕が包みこんだ空間のなかで濃密な魔力が凝り固まっていくのを、カシューは感じとっていた。
魔眼で見る陽炎の姿は、ガラスでできた球体を抱いているようだった。
内部では魔力の嵐が吹き荒れ、無数の雪片のようなものが赤く色づきながら猛烈な勢いで攪拌されていた。
聞こえるはずもない突風の唸りが、確かに耳元で響いているようにカシューは錯覚した。
内圧の高まった魔力が限界を超えて破裂するかと思えたとき、顎を上げた陽炎が爛々と光る瞳を開き、広げていた両腕を胸元に向かって振り抜いた。
瞬間、カシューの視界が赤い花びらの乱舞によって染めあげられた。
魔力による奔流が無限に湧く花びらを天高く巻き上げ、吹雪が流れていくようにして山あい全体に広がっていった。
「いまじゃ、戎兵衛っ。柏手を打て!」
足を肩幅に開いて腰を落とした戎兵衛が、大地を引き絞るようにして両手を叩きあわせた。
手のひらを打ちあわせたとも思えない硬質な響きが、虚空を押しのけるようにして遙か彼方へと突き進んでいく。
戎兵衛は一定間隔の間を置いて、都合三度、手を鳴らした。
そのたび、宙空を舞う一枚一枚の花びらが一瞬だけ舞い上がり、複雑な反響を山々に轟かせた。
まるで山そのものが打ち据えられているようだった。
せわしなく耳を震わせていた戎兵衛が、鋭い声を発した。
「左手、西南西より駆け抜けてくる馬が多数。鍔なりの音からして得物は剣と弓。槍はなし。右手、北東より二頭立ての馬車が一台。騎乗の馬が二匹。重武装だが、重く遅い」
戎兵衛はカシューに顔を向けた。
その目に、焦りが宿っていた。
「間にあわねえ。獣人のおれとお嬢でも、ぎりぎり接敵までに追いつけるかどうか」
カシューは口を開くことなく、奥歯を噛みしめた。
どれほど強く身体強化をかけようと、空を駆けることはできない。
「このなかでいちばん身が軽いのはわしじゃ。先行して、花弁に混ぜた痺れ毒で敵を足止めする」
そう言い残すなり、陽炎は崖の上から身を躍らせた。
斜面を滑るようにして駆け下り、繁った大木の枝に飛びつくと、次々と樹冠のあいだを跳ね進んでいった。
「お嬢! おれが追いつくまで無理をするな!」
叫んだ戎兵衛があとを追って飛び降り、姿を消した。
ひとり取り残されたカシューは、崖の下をのぞきこむと髪をかきむしった。
「くそっ。おれのまわりにはまともな奴がいないのか!」
その場でうろうろと二度ほどまわったあと、崖の縁から五歩ほど下がった。
「跳んで、滑り降りて、また跳んだら、枝を掴む。動作はたった四つ。それだけだ。なんてことはない。おれならできる」
身体を前後に揺らして勢いをつけると、カシューは走り出した。
「やってやる! おれはやってやるぞ! うおおぉぉ!」
そういえば、陽炎と戎兵衛のふたりはまっすぐ飛び降りて斜面に着地していた。
カシューがそれを思い出したのは、崖から全力で飛び出した自分の肉体が放物線を描きながら落下していく、むやみやたらと長い滞空時間の最中だった。
「やばいっ。なんてこった!」
割れた石片が積み重なる斜面に激突する寸前、カシューは全身に身体強化を漲らせた。
「むんっ。がっ! ごほっ。ぐぇ!」
なんとか足から着地に成功した束の間、体重を支えていた石片が滑り、もんどり打って倒れこんだ。
傾斜した崖を丸太のように転がり落ちたカシューの肉体は、突きだしていた岩塊に乗りあげ、天に向かって足を伸ばしたまま宙空に放り出された。
再びの自由落下が全身を襲ったが、今度は尻から着地することで転倒を回避することができた。
踵で滑り落ちる速度を殺しながら身体を起こし、傾斜に逆らうことなく小刻みに足を動かす。
もつれる足にバランスを崩すたび、つまずかないよう大きく一歩を踏みださなければならず、垂直を維持していたカシューの姿勢は少しずつ前傾に倒れこんでいった。
目にもとまらぬ勢いで両脚を交互に突きだしながら、カシューは眼下に迫り来る木に飛び移るタイミングをはかった。
踏みだした右足が斜面に接地すると同時、膝と腰を丸め、戻る反動で全身の関節を思い切り伸ばす。
日射しを背に受けて跳躍したカシューは、豊かに生い茂った梢のなかに吸いこまれていき、そのまま枝をへし折って根元へと落下していった。
両手両足を大きく広げたうつ伏せの状態で大地に叩きつけられたカシューは、呻きながら身体を起こすと頭上を見上げた。
自分が強引に通過したことで、刳りぬかれたような大きな穴が樹冠に開き、のどかな空と太陽の光が見えていた。
背後に目をやれば、絶壁のような岩肌が天を衝いて聳えたっている。
自分たちがいた山頂付近のわずかな平地は、垣間見ることさえできなかった。
「二度と崖は登らん。二度とだ」
太陽と崖の位置から目指す方向を割り出すと、カシューは軋む全身に鞭打って走りだした。




