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57 山猫は眠らない


 クララ・クレイトンとコブのあいだに、どういう接触があったのかはわからない。

 だが、コブがなりふりかまわず動くことがあるとすれば、アデリーン王女に関連すること以外ありえないはずだった。


「やっぱり、その侍女頭が絡んでると思いやすか」


 目を細めて(うかが)うように視線を向けてきた大将に、カシューはなんと答えるべきか言いよどんだ。


「リストに載ってる連中で明らかに普段とちがう人間っていったら、その女しかおりやせん。調べてみたら、クララ・クレイトンの主のアデリーン王女はノイタンツ公爵家に嫁入りが決まってるってえじゃねえですか。ここまでくりゃ、疑う余地はねえ。どういう因果があるのか知らねえが、司令とノイタンツ公爵はなにかしらの縁でつながってる。そうじゃなきゃ、泡食っていなくなる理由がねえ」


 大将は言いきると強く唇を引き結んだ。

 その顔には、胸の内に渦巻く懊悩がはっきりと刻まれていた。


「裏切られたと思っているのか」


 静かな声でカシューが問いかけると、大将は顔を歪ませてうつむいた。


「旦那、教えてくだせえ。おれには司令がなにを考えてんだかわからねえ」


「それを知れば、命をかけることになる。おれと同じようにな」


 顔を上げた大将がカシューを見た。

 なにかにすがるような眼差しだった。


「ガキの頃、おれがコブをこの世界に引きずり込んだ。生きるためにはそうするしかなかったが、いまになって思う。コブには、もっと日の当たる道を歩んでほしかったってな」


 カシューは大将に顔を向けた。


「大将、あんたもだ。このまま抜けちまえよ。女将を連れて、好きなように生きていけばいい。なにも、好きこのんではきだめを這いずりまわる必要はないんだ」


 強張(こわば)っていた大将の顔が、ふいに緩んだ。

 瞳に沈んでいた(かげ)が消え、透明な光が戻っていた。

 肩の力が抜けたのか、長椅子の背もたれがぎしりと(きし)んだ音をたてた。


「あっしの本名は戎兵衛(じゅうべえ)。ジパニカの殿様のところで、代々、公儀御庭番って忍稼業やってる一族に生まれやした。女将は陽炎(かげろう)って名前で、もとは頭領の娘さんです。いってみりゃあ雲の上のおひいさまでして、本来ならあっしなんぞが口を聞いていいお方じゃない」


 大将が(つむ)ぐ言葉に、カシューは黙って耳をすませた。


「ところが、お嬢は双子の妹として生まれてきやして。いわゆる、()み子ってやつでさ。陽炎って名前もそうだ。幻のように揺らめいて、気がつきゃ消えちまう。ひでえ話だ」


 穏やかな微笑みを浮かべていた大将が、そういって目元に(うれ)いを漂わせた。


「お嬢が七つのとき、元服後は毒味役として殿様に献上されることが決まりやした。幼い頃から、姉のほうはなに不自由なくちやほやされて暮らしてるってのに、妹のお嬢は大人でも血反吐(ちへど)を吐く忍修行を強制されてたんです。そのうえ今度は、身体を慣れさせるって無理矢理毒混じりのメシを食わされた。なんとかしてやりてえと思ったが、ガキのあっしじゃあどうすることもできねえ。せめて毒の入ってない美味いもん食わせてやりてえって、忍の術おぼえるかたわらにメシつくりはじめたのは、それがきっかけです」


「女将はなんと?」


 カシューが訊ねると、大将はあきれるように鼻を鳴らして笑った。


「はじめて食わせたのは塩かけただけの握り飯でした。お嬢のやつ、いまだにあれを越える味を出せてねえってぬかしやがる」


 声を忍ばせたが、カシューの口からは笑いが漏れた。


「あっしが十八のとき、将軍家の当主が交代するお家騒動がありやした。本家と分家が入れかわって幕府の顔ぶれが一変するほどのでけえ騒動で、あっしら御庭番衆もお役御免。一族総出で路頭に迷うどころか、先祖代々公方様の秘密を知りすぎてるってんで仲間がどんどん消されていくありさまだった」


 カシューが真実を明かすべきか逡巡していると、大将が片手をあげて制した。


「わかってやす。ジパニカは負けたんです。この国にね。海の向こうの国と斬った張ったすることしか考えてなかった糞侍(ぶさ)どもは、ダンビラ振りまわす以外にも戦争する方法があることを知らなかった。それだけのことでさ」


 あっさりと言った大将には、なんのわだかまりもないよう見えた。


「闇から闇へ影働きなんて大見得(みえ)を切っていたあっしら一族こそ、いい面の皮です。自分たちになにが起きていたのかすら知らず、新しい将軍家に弓引いて忠義ヅラさらしてやがったんだから。あっしも、屋台かついで時をうかがうよう命じられておりやした」


 ()()を失った空虚さと一族への忠誠心を持て余し、無気力に潜伏生活を続けていた大将は、惰性だけで屋台を広げる日々を送っていたという。

 雪の夜、往来の途絶えた堀沿いで、誰も食わない蕎麦を茹でていたのもそんな理由からだった。


 降り積もった雪を踏みしめる音が近づき、屋台のまえで止まったことに気づいても、戎兵衛は椅子がわりに立てた葛籠(つづら)から動こうとしなかった。


「やあ、やっと見つけたよ。一度夜鳴き蕎麦というのを食べてみたかったんだ」


 思わず顔を上げたのは、客が来たからではなかった。

 耳に届いた自分たちの言葉に奇妙なアクセントをおぼえたからだった。


 のれんを払い立っていたのは、よく()えた丸い身体と、同じように丸い顔いっぱいに福々しい笑いを(たた)えた異国人だった。

 まるで大黒様だなという印象を抱いたが、だからといって愛想を振りまくつもりはなかった。


 新しい将軍に代がわりして以来、多くの異国人が海を渡ってやってくるようになった。

 多くはウルブリッツ人だったが、どの国の人間にも共通しているのは、獣人が作りあげたジパニカを未開の劣等国だと見下していることだった。

 連中は徒党を組んで歩きまわり、自分たちとはあまりにも異なる文化形式で暮らす獣人たちのことを、野生動物かなにかのように観察して喜んでいた。

 屋台で出す蕎麦も、おおかたゲテモノ趣味が高じて興味が湧いただけで、獣のエサだとでも思っているのだろう。

 相手にしたところで腹が立つだけだった。


 懐手(ふところで)のまま首を背けて無視を決め込んだとき、視界のはしで柿渋(かきしぶ)色の番傘が(ひるがえ)るのが見えた。


「旦那、せっかく探してもらって悪いけど、こいつはダメだ。他人様(ひとさま)にメシ食わせて喜ぶ人間の目じゃなくなっちまってる」


 畳んだ傘の影からあらわれたのは、御高祖(おこそ)頭巾で顔を包み、目だけをのぞかせた女だった。

 となりに立つ異国の男よりも頭ひとつ高い長身に、地味な紺絣(こんがすり)(あわせ)藍鼠(あいねず)の羽織りをまとっている。

 帯は黒絹の一面に銀灰の刺繍。

 目を引く華やかさこそないが、生地も縫製も一級品のあつらえだとひと目でわかった。


「お嬢……なのか」


 呟いたまま絶句した戎兵衛にかまわず、異国の男は恵比寿(えびす)顔のまま興味深そうに屋台をのぞきこんだ。


「まあまあ、そういわずに一杯頂戴しようよ。あ、(かん)も一本つけてくれるかい。雪のなか歩いてきたんで、寒くてかなわない」


 女はため息をつくとのれんをくぐり、頭巾をはずした。

 戎兵衛にとって、五年ぶりに見る陽炎の姿だった。


 湯につけた徳利が(ぬく)まるまでのあいだに、戎兵衛は屋台まえの体裁(ていさい)を整えた。

 ひっくり返した桶に一枚板を渡して長椅子と机をつくり、組み合わせた担ぎ棒を柱にして布をかけ、雪よけの屋根にした。


 猪口(ちよこ)をふたつ並べようとしたとき、陽炎が鋭い声を発した。


「いらん。ひとつでいい。旦那、ひとりでかってにやっとくんな」


 肩をすくめて手酌(てじやく)でなめはじめた男とちがい、陽炎は硬い目つきで戎兵衛を睨みすえた。


「わしは毒入りじゃろうとなんでも食えるが、不味いもんは口にせん。おまえ、そんな蕎麦をわしに食わせるつもりか」


 湯気の立つ釜を見れば、沸き立つ湯に沈めたてぼのなかで放置された蕎麦が溶け崩れ、沸騰した泡が粘液のように弾けていた。


 戎兵衛はあわてて釜の中身をうしろの堀に投げ捨てると、雪と荒縄で手早く洗って水を張った。


「しばしお待ちくだせえ。それまで、こちらを」


 戎兵衛がてらてらと光る土塊のような塊をふたつづつ、二枚の小皿にのせて出すと、男は皿を持ちあげて上から横から食い入るように眺めた。


「鼻を刺激するすっぱさと、ふわっと漂う甘い匂いがからんでる。絶対美味しいと思うんだけど、食感が想像つかないな。これはなに?」


 あらかじめ畳んでおいた蕎麦生地を切りながら戎兵衛はちらりと男に目を向けたが、口は開かなかった。

 かわりに陽炎が答えた。


「稲荷寿司だよ。炊いた米に酢で味つけした酢飯を、甘辛く煮つけた油揚げで包んだ食いもんだ。油揚げってのは、薄切りにして油で揚げた豆腐だ。豆腐はこないだ食ったから知ってるだろ」


「トーフ! 大豆から生まれた奇跡だね。あのトーフがこんなふうにもなるのかい。すごいな。無限の可能性を感じる」


 心の底からそう思っているらしい男の声を聞きながら、戎兵衛は胸の内でわけのわからない(もや)がざわめきたつのを感じた。

 奇妙な思いに戸惑いながら淡々と蕎麦を切り分けているうち、あやふやだった靄が形をとりはじめた。

 そして戎兵衛は、腹を満たすためだけの料理をすることに、自分がうんざりしていたことにはじめて気がついた。


「これ、どうやって食えばいいんだい」


「手で食え。あんたらが肉の塊にかぶりつくときと同じだ」


 陽炎は戎兵衛の手元から目を離すことなく、おざなりに言葉を返した。

 その瞳の先で、蕎麦を切る戎兵衛の包丁さばきがはっきりと変わっていた。

 ()を支える指にみずみずしい力強さが(みなぎ)り、手首の動きにしなやかなリズムが生まれていた。


 稲荷を口に入れた男が目を見開き、感嘆に鼻息を荒くした。

 またたく間にふたつたいらげ、隣に座る陽炎が手をつけようとしないのを見ると、こっそりと小皿を手元に引き寄せた。


 戎兵衛は軽く揉んだ蕎麦をてぼに放り込み、沸騰した釜に沈めると、薄皮を剥いだネギと水で戻したわかめを刻んだ。

 湯気に当てて暖めておいたどんぶりを手にとり、(かめ)に入れたかえしを柄杓(ひしやく)で流し込む。

 釜の具合を確かめた。

 湯に踊る蕎麦が透きとおりはじめていた。

 鍋にかけ、もうもうたる湯気をあげていた出汁(だし)を、濃い飴色をしたかえしの上から注ぎ入れた。

 熱せられた鰹節とトビウオの合わせ出汁が、しょうゆをみりんときび砂糖で甘く煮たかえしを包み込んで混じりあい、芳醇な香りを爆発させた。

 名残惜しそうにちまちまと稲荷をついばんでいた男が身を乗りだし、全身を鼻のようにして(かも)し出された湯気を吸いこんでいた。


 てぼを引き上げて素早く湯を切った戎兵衛が菜箸で蕎麦をすくい、ていねいにふたつのどんぶりに(ひた)していった。

 つまみ置いたわかめにネギをちらし、いちょうに切ったかまぼこを一度つゆにくぐらせ、縁にそえた。


「お待たせいたしやした」


 目を輝かせた男が器用な箸さばきを見せてひとくち啜り、何度もうなずいた。


 陽炎は柔らかな蒸気を生みだす蕎麦を束の間見つめていたが、おもむろにどんぶりを持ちあげると唇をつけ、つゆを含んだ。

 静かに息をついた。

 箸で三、四本の蕎麦を持ちあげて口に運び、ゆっくりと噛みしめた。

 降りしきる雪の寒さが全身を凝り固まらせるなかで湯気に当てられたのか、陽炎はわずかに鼻をぐずらせ、赤らんだ瞳をしばたかせた。


 戎兵衛は黙って追加の蕎麦を茹ではじめた。

 男が途方に暮れた(わらし)のような顔で、空になったどんぶりを抱えていたからだった。


 陽炎が食し終わったのは、異国の男が四杯目の蕎麦に箸をつけたときだった。

 つゆのひとしずくまで胃に収めた陽炎は、音もなくどんぶりを置くと戎兵衛に目を向けた。


「戎兵衛、支度せえ。海を越えるぞ」


 理解が追いつかず目を見開いた戎兵衛に、陽炎はにやりと片頬を上げると立ち上がって机に片手をついた。

 空いた拳を腰にそえ、半身になった胸を反らせて戎兵衛に顔を近づける。

 着物に()きしめた香の(かお)りが胸元から立ちのぼり、戎兵衛の鼻をかすめた。


「わしはウルブリッツに渡って(うぬ)(しよう)を生きなおす。おまえも来い」


 茫然と立ち尽くしていた戎兵衛の顔に、ゆっくりと満面の笑みが広がっていった。


「この身ひとつでよろしければ」




今回の章タイトル、◯兵衛忍風帖にするかちょっと迷いました。

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