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54 うなだれた犬



賀正。




 世界樹。

 メルトから得た知識を探るまでもなく、カシューはその名を知っていた。

 大地を貫いて世界に根づき、天界と地上、冥界を支えているという巨木だった。

 三つの世界が(まじ)わらないよう(へだ)て、あるべき姿に保つ役割を持つことから世界樹と呼ばれている。

 誰もが教会で聞かされる神話の話だ。


「もちろん、お伽噺(とぎばなし)のことではないんだろうな」


 あきれたような顔で訊いてきたカシューに、メルトは心外そうに眉根を寄せた。


「あたりまえですわ。世界樹は地上に生きるものたちが、独力で世界を管理するにいたってはじめて存在を許されるものです。どの世界線にも必ず現れるものではありません。いわば、その世界がランクアップしたことをしめすステータスなんですのよ」


 興奮した様子でまくしたてるメルトとは対照的に、カシューの頭は()めていた。

 世界樹の素晴らしさをいくら熱弁されても、カシューのなかに根づいている常識が彼女の興奮に同調することを阻んでいた。

 想像の産物である神話を崇めるのは狂信者のおこないであって、徹底した現実主義者であることを強いられる諜報員は目のまえにあるものしか信じない。


「その世界樹と龍脈が、どうつながるんだ」


 カシューが冷静な口調を崩さずに尋ねると、感動に水を差されたメルトが肩を落として話を戻した。


「世界樹の生成には、莫大なエネルギーを必要とします。本来ならば精製済みの純粋エーテルを使って天界で生成したあと地上に降臨させるのですが、今回は敢えて地上にあるもののみで生成し、直接顕現させます」


 話が見えてきたカシューが、にやりと片頬をあげた。


「そのエネルギー源に龍脈を使うということか」


「そのとおりですわ。それに世界樹を生成する目的はもうひとつ。天界のホムンクルスたちを直接降臨させて、龍脈の機能不全修復にあたらせます。カシューさんの脳にインストールした情報のなかに、人造生命体の安全労働管理原則例外事項があるはずです。それを思い出してくださいな」


 思い出そうと頭を巡らせることもなく、カシューの脳に必要な知識が流れた。


 超越者が定めた安全規則によって、ホムンクルスの活動範囲は天界のみに限定されているが、地上で行動するための例外がふたつだけ設定されている。


 ひとつは契約した使徒によって地上に召喚される方法。


 使徒がホムンクルスを召喚する目的は、下界では考え得るべくもない強力な能力を行使するためだが、その代償として、使徒はみずからの肉体をホムンクルスに捧げることを求められた。

 一の力が必要ならば一の肉体を、十なら十の肉体を。

 そして使徒が肉体のすべてを捧げたとき、ホムンクルスは地上で活動する肉体を手に入れることになる。

 いわば使徒の身体を乗っ取って肉体を得ることになるため、ホムンクルスの召喚は受肉のための儀式と同義であるともいえた。


 すべてを捧げた契約者は当然にように命を失うので、めったにホムンクルスが召喚されることはないが、皆無であったわけではない。

 地上の伝説にときおり語られる、突然姿を消した英雄などが実は天界の使徒であったりするのは、歴史上語られざる真実だった。


 そしてもうひとつが、世界樹を経由して地上に降臨する方法だった。


 世界樹はそもそもが次元の異なる世界間を直接つなぐ役割を果たす存在なので、代償行為などの手続きの必要なく、ホムンクルスたちは地上と天界を行き来することが可能になる。

 しかしこの場合、行動範囲は世界樹の結界範囲内という制限がついた。


 「なるほど。それで中継基地ってわけか」


 メルトはうなずくとカシューをうながして、座りこんでいる剣の勇者とアッシュから離れた。

 ふたりの目が向いていないのを確認したあと、なにやら口のなかで呟いて片腕で宙を振り払うような仕草をする。


 自分の周囲を取り巻く空気が質感を変えたことに、カシューは気づいた。

 肌に圧迫感が増し、耳に痛いほどの静寂に包まれていた。

 おそらくは防音を目的とした結界だった。


「聞かれるとまずいことでもあるのか」


 響きも反響もしない自分の声は、ひどく頼りないものに聞こえると思いながら、カシューはメルトに声をかけた。


「地上に世界樹を生成するということは、セフィロトの本体を地上に召喚するということになります。これがなにを意味するか、おわかりになりますわね」


 一拍考えたのち、その必要性に思いいたったカシューは振り向いた。

 その視線の先に、生命のない彫像のように立ち尽くす男の背中があった。

 全身に絡みついた蛇の紋様は、いま、その背でなかで微睡(まどろ)むように目を閉じていた。


 カシューが見つめるなか、ゆっくりと瞼を開いた蛇が赤く光る瞳を向けてきた。

 その瞳に込められた歓喜と渇望を、カシューは理解した。


「供物……」


「龍脈の巨大結節点である魔の森にダンジョンを作り、そこに邪龍を封印する。それがコブさんが立てた計画でした」


 メルトは感情の底知れない声で語りはじめた。


「コブさんの目的は国王を倒すことらしいですが、それはこちらには関係ありません。お好きになさってください。わたくしたちはコブさんが使い終わったあとのダンジョンを利用して、世界樹を生成し、惑星全土に広がっている龍脈の修復にとりかかります」


「あの従者が所属しているのは、魔の森に接したゴートの街にある冒険者ギルドだ。世界樹があらわれたあと、その土地はどうなるんだ」


 カシューの問いかけにメルトは目を逸らした。

 その沈鬱な表情が、のちに待ち受ける現実を物語っていた。


 コブは魔の森の地下にダンジョンを作るにあたり、ゴートの街から地下トンネルを掘り進めて龍脈と接続させるつもりだと、カシューに説明した。

 魔の森はその名のとおり危険性が高すぎ、地上からの開発は不可能に近い。

 そのための地下トンネル掘削であり、それゆえに強大な力を秘めたダンジョンコアが必要になると。


 コブの目論みどおりにダンジョンが完成すれば、周辺の土地に与える影響は計り知れないものになるだろう。

 まちがいなく、魔の森の生態系は激変するはずだった。

 いま以上に魔物が溢れる土地になるか、反対に魔物たちがダンジョンに吸収されるかは予想がつかない。


 メルトはそのうえでさらに、世界樹を生やすという。

 そうなれば、生態系どころではない。

 地形すらもが変わるであろうことはたやすく想像できた。


「あんたの思い通りにことが運ぶなら、あの男は故郷へ帰り、自分の身を犠牲にしてそこを壊滅させることになる。本人はそれを了承しているのか」


 メルトは黙ったまま、形のよい唇を噛みしめた。


「おれは協力するとは言ったが、仲間を騙す手伝いはせん」


 カシューは従者の男に目を向けながら言った。

 男は先ほどと同じ姿勢のまま、うつむいて微動だにしていなかった。


「この世界を救う方法は、これしかないのです」


「ああ。女神のあんたが言うんだ。きっとそうなんだろう」


「ならば――」


 すがるような表情で言い(つの)ったメルトを遮って、カシューは言葉をつづけた。


「ああいう男は何度も見てきた。黙って自分のやるべきことをやればいいと思っている人間だ。たいてい死ぬがな」


 絶句したメルトが、立ち尽くすアッシュに目を向けた。


「飼い主の言うことを聞く従順な犬ほど、扱いづらいんだ。世界のためとか正義のためとかいっても、聞く耳持たん。そのくせ、命令されればいつでも飛びかかれるように、牙だけは研いでる」


(あるじ)の命令を待つ、従順な猟犬……」


 茫然と呟いたメルトに、カシューは目を据えた。


「そうだ。心配しなくても、飼い主の身に危険が迫れば、かってに飛び出していくさ。そして、どんな敵であろうと食らいついたら離れない。死ぬまでな」


 メルトの視線の先にいる男の姿は、(つか)えるべき飼い主を見失って途方に暮れているように見えた。



不退転の決意を込めて、今年こそ完結させると宣言いたします。


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