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51 羊虎相食む


 差しだされた右手を握り返したのは、茫然とした精神状態における条件反射だった。


 カシューはすぐに、わずかな時間であろうと自失したことを後悔した。

 本人の自称を信じるならば女神であるはずの女が、細腕に似あわぬ怪力で握りしめてきたからだった。


「ぐぅ!」


 骨が(きし)む痛みにカシューが(うめ)くと同時、女が吐き出した煙に顔面を包まれ、視界が閉ざされた。


「時間がないので、申し訳ありませんが頭のなかを覗かせていただきますわ。リーディングメモリー。検索ワード。魔王、勇者、邪龍、龍脈」


 聞いたこともない呪文を女が唱えると、頭部を覆っていた煙が溶けるようにして晴れていった。

 晴れたのは煙だけではなかった。

 煙を吸いこむと同時に(もや)がかって虚ろになっていた思考が、女の言葉を聞いたとたんクリアになり、国王やコブと話した記憶が鮮明に浮かび上がってきたからだった。


 カシュー自身が思い出そうとしたわけではない。

 明らかに精神魔法によって引きずり出された記憶だった。

 そんな精神魔法があるとすれば。

 しかし、カシューはそんなものを聞いたことがなかった。


「くそっ。脳みそをかきまわされたようだ。二度とおれにその魔法を使うな」


「魔法ではなくて、天界にいるセフィロトの機能ですわ。アストラル体を経由して個体の記憶を照会するんです」


「知らん! わけのわからんことを言うなっ」


 今度こそ怒鳴りつけたが、なにかに心を奪われたように宙空を睨み据えた女に、カシューの声は届いていないようだった。


「なるほど……、五十年前のあのときにそんなことが。あのくそドラゴン、いきなり消えてどこ行きやがったと思ったら、よりにもよってあんなクソガキに吸収されていたとは……」


 ぶつぶつと呟いていた女がうつむき、苛立ちの振り払うように首を振った。

 そのときになって自分が立ったままだったことに気づいたのか、思い出したように椅子に座り、足を組んだ。

 どこかから取りだした煙管をくわえ、たてつづけに紫煙を吐き出す。


 みるみるうちに(かすみ)がかっていく部屋に眉をしかめたカシューは、うんざりとした表情で窓を開いた。


「おおむね事情は理解しました。クソガキが国王になって、性懲りもなく悪さをたくらんだということですわね」


 おれの記憶を読んだにもかかわらず、その理解は薄すぎやしないか。


 なにも言う気にならず虚無の顔つきになったカシューを見て、女が唇を突きだした。


「ちゃんとわかってますわよ」


「ああ、信じるよ。あんたが女神だってことも、全部な」


「絶対信じてませんわよね、それ」


 なだめるように両手をあげたカシューを、女はなおも横目で睨んでいたが、ひとつため息を吐くと口を開いた。


「あの近藤さんが、どうして邪竜と融合した魔王として再転移してきたのか不思議だったんですが、事情がわかりましたわ。やっぱり、倒すのは気が引けますわね」


「近藤さん?」


「あなたたちが元勇者と呼んでいる異世界人ですわ。近藤耕介さん。五十年前の魔王騒動のとき、私が要請して向こうの管理官から送り込まれてきた勇者です。当時、邪龍が消えると同時にいなくなったので、依頼達成契約満了でご帰還なさったと思っていたのですが、まさかこちらの住人ごと元の世界に強制送還されていたとは思いませんでしたわ。タイミングが悪かったとはいえ、わかってやったのだとしたら、完全にシステムのバグをついた管轄権限への悪意ある干渉です。てゆーか、向こうの女神は絶対そう受け止めたでしょうね。どうりでなに聞いても塩対応だし、今回送ってきた三人だってしょーもねー奴らばかりだし……。くそ、そういうことだったのかよ」


 話しているうちに怒りが再燃したのか、女の目つきが据わり、もごもごと悪態をつきはじめた。


「待ってくれ。おれの理解が追いつかん。あんたが女神だというのは信じる。だが、その女神様がなぜ癒やしの勇者とすり替わって旅しているんだ。管理官だのもわからん。そもそも、邪龍っていったいなんなんだ」


 ここぞとばかりに、カシューは胸に押し込んでいた疑問をぶつけた。

 任務としてなすべきことをなすだけだと納得したとはいえ、考えることをやめることはできない。

 それでなくともいまのカシューは単独で行動しており、今後は自由裁量による現場判断が連続するであろうことは予測できていた。

 背後にある因果関係を知らずにいることは、重大な判断を迫られた際に選択をまちがえることにもなりかねなかった。


 女は得体の知れない目でカシューをじろじろと眺めていたが、思い直したように口を開いた。


「現地協力者がひとりというのも、心許(こころもと)ないですわね。あなたを下界のお手伝いさん2号に任命いたしましょう」


 そう言うと、女は大量の煙を吐き出した。

 かすかに銀色に光るその煙は、拡散することなく床を這い、意思ある軟体生物のようにカシューを包みこんでいった。


「くそっ。それは二度とやるなと言っただろうが!」


「すぐ終わりますから我慢なさいな。大丈夫、痛くはしませんわ」


 煙を振り払おうと手を泳がせたカシューは、次の瞬間、落雷の直撃を浴びたように硬直した。

 凝縮した情報の塊が脳に叩きつけられたからだった。

 同時に全身の神経がびりびりと波打ち、血管が拡張していく感覚があった。

 駆け巡った魔力が頭部へと昇りつめ、眼球に集中していく。

 強く(まぶた)を閉じているにもかかわらず、視界に太陽が生まれたようだった。


「カシューさん、すごいですわ! 目からビームが出てますわよ」


 メルトの言葉はカシューの耳には届かなかった。

 脳に焼きつけられた大量の知識に翻弄され、棒を飲んだように立ちすくんだまま肉体の制御を忘れていた。


 カシューはみずからが生まれたこの世界の成り立ちと実相を知った。

 文明レベルの隔絶した高次元の世界に生きる、超越者と呼ばれる生命体。

 彼らが必要とするエネルギー素子であるエーテル。

 そのエーテルの培養地として作られた惑星。

 それこそが自分たちの世界だった。


 膨大な量のエーテルを生みだすためには惑星ひとつでは足りず、広大な宇宙からエーテルを培養可能な惑星を探しだし開発する手間よりも、手っ取り早くコピーする手段を選んだ超越者は、世界線を分岐させることで同一環境にあるいくつもの世界を作りだした。

 そしてそのひとつひとつに、効率よくエーテルを生成し回収する技術管理官を置いた。

 それが創世神であり、女神だった。


 女神が活動する天界は同一惑星上の別次元に存在し、そこでは統合管理官たる女神の監督のもと、多くの作業員たちが日々世界の管理に(いそし)しんでいた。

 作業員はすべてホムンクルスと呼ばれる自立調整型人工生命体で構成されており、彼らはAIによる自由思考と自己判断を認められていたが、行動には厳格な制限が定められていた。

 下界に対する直接干渉の禁止である。


 ホムンクルスたちがおこなうのはあくまでも間接的な環境管理であり、地上への直接介入の必要性が生じた際、実行はすべて女神が当人の職責においておこなう。

 それが超越者の課した作業上の安全管理だった。


「……それであんた自信が降りてきたのか」


 全身を汗で濡らしたカシューが、膝に手をついて呻くように言った。


「そういうことですわ。天界にはホムンクルスたちはたくさんいますけど、最初に派遣された生命体はわたくしひとりです。実質ワンオペですわよ。とんだブラック企業ですわ。これだったら、まだ前線で軍医やってたほうが楽でしたわ」


「癒やしの勇者はどうなったんだ。なにか問題が起きたから、あんたが身代わりをつとめているんだろう」


「出発前日に妊娠が発覚しましたので、産休を取らせました。職務権限規定第十二条五項、次元跳躍協力者の現地における妊娠が判明した場合、人権尊重の観点から母胎の保護を最優先とする。心配しなくとも、いまは天界でなに不自由なく暮らしていますわ」


 カシューは首を振ると、ベッドに腰かけた。

 父親はまずまちがいなく剣の勇者だろう。

 いまにして思えば、あのふたりの親密度は普通ではなかった。


「それで、邪龍ってのはそもそもなんなんだ。国王やコブの話によれば、異世界から勇者を呼ぶのはとどめの一撃に必要だからってだけらしいじゃないか。まだ勇者はふたり残っているんだ。わざわざあんたが着いていって魔王を倒す必要はないはずだ。邪龍が関わっているから、あんた自身が出張(でば)ってくる必要があったんじゃないのか」


 カシューの質問に、メルトは渋い顔をすると煙管を口にくわえた。


「やめろ! 説明するのがめんどくさいからって直接流し込もうとするなっ。頭が破裂する!」


 カシューがとびのくと、メルトは、わたくしもう眠いんですけどと不平をこぼした。


「あのドラゴンが、もともとは地上で龍脈の調整をする現地作業員だったというのはご存じですわよね」


 国王は邪龍のことを、元は龍脈の守神だったと語っていた。

 そしてメルトによって与えられた知識によって、天界のホムンクルスたちによる環境調整とは別に、地上での管理作業を担う実務管理官が下界に存在することも、カシューは知った。


 それら現地作業員は、地上において種族の限界を突破するほどの能力を得た生物が任命され、天界で主要な管理業務を担う階層つきホムンクルスと個別に契約を結ぶことで、代理業務従事者となり、人知を超えた力を(ふる)うことが可能となる。

 すなわち、使徒である。


「地上で長いこと龍脈の管理をまかせていたのですけど、人類がしょっちゅう龍脈の力を得ようとして邪魔してきたものですから、堪忍袋の尾が切れてしまったんでしょうね。闇堕ちして、使徒の役目そっちのけで人類絶滅に乗り出してしまったんですわ。だから邪龍って呼んでます」


 地上に生きる我々からすればたまったもんじゃないが、天界からするとそういうことらしい。

 身も蓋もない話だとカシューは思った。


「五十年前、近藤さんにがんばって倒してもらったあと、もう一度龍脈の管理者に戻す予定だったんですけど、なぜか行方不明になりやがって。おかげでいまじゃ龍脈がめちゃくちゃになってしまって、惑星崩壊の危機ですわ」


「惑星崩壊って、世界が滅ぶってことなのか」


 冷や汗を流したカシューが問いかけると、メルトは気負った様子もなくうなずいた。


「そういうことです。困っておりますのよ」


 いやいやいや。

 困っておりますのよってそういうことじゃないだろう。

 カシューの心に浮かんだ第一声はそれだった。


 ことは魔王の復活などですむ問題ではない。

 すでにウルブリッツ一国の問題ですらない。

 人類存亡、いや、この世界に満ちる生命すべてが存続の瀬戸際にある。

 そもそも五十年ってなんだ。

 そのあいだなにをやっていたんだ。

 問題を放置するにも限度があるだろう。

 まったく管理できてないじゃないか。


 なにかを言ってやらなければならないと思ったが、筋道の立たない思考がばらばらに脳内を駆けめぐり混乱したカシューは、意味もなく口を開け閉めすることを繰り返した。

 結局、出てきた言葉は最初のひと言だった。


「いやいやいや。困っておりますのよってそういうことじゃないだろう」


「だからこうして、わたくしみずから対応するために降臨したんじゃありませんか。この国の王宮から大規模な魔力波が検出されたとき、そこにあの邪龍の魔力紋が混ざっていたって、天界はひっくり返ったような騒ぎになりましたのよ」


 その後メルトが語ったあらましは、おおむねコブの話を裏書きするものだった。


 昨年の夏に国王がおこなった元勇者召喚の儀式。

 天界を揺るがせた騒動もまた、それがはじまりだった。


 行方不明となっていた龍脈の地上管理官の魔力紋が五十年ぶりに観測されたことで、惑星のいたるところで機能不全を起こしていた龍脈をようやく修正できるかもしれないと、天界は色めき立った。


 天界にて管理執行部を運営する十二人の階層つきホムンクルス、通称12天使たちはすぐさま邪龍の所在を確認しようとしたが、地上にて一瞬だけ観測された邪龍はすぐにまた行方をくらましてしまった。


 メルトはカシューの記憶を読み取ったことで、あの儀式のさい、邪龍が実際に姿をあらわしたわけではなく、国王が邪龍の分身(わけみ)として作りだした魔王の卵を誤検知しただけだと知ったが、当時の天界の混乱は筆舌に尽くしがたいものがあった。


 龍脈の機能不全によって惑星が崩壊し、エーテルの培養が不可能となれば、超越者は一切の躊躇なく該当事業支部を廃止する。

 責任者のメルトは左遷程度ですむだろうが、人工生命体であるホムンクルスたちは惑星といっしょに廃棄される運命にあるのだ。

 自然発生したか人為的に作られたかのちがいはあれど、同じように生きている自覚を持ったホムンクルスたちからすれば、まさしく生死に関わる問題だった。


 焦燥感に駆られたホムンクルスたちが、日々メルトにちくちくと嫌味を言う半年間が過ぎたあと、地上にて魔王が復活する。

 それは召喚魔法のバグを利用し、異次元内で元勇者である近藤耕介の肉体と融合した魔王の卵が目覚めた瞬間だった。


 今度こそ邪龍の存在を確認したと喜ぶホムンクルスたちであったが、確認を進めると思いもよらぬ事実が判明する。

 邪龍が魔王となった元勇者と融合してしまっている以上、元勇者を倒せば邪龍もまた消滅する結果になるのは目に見えていた。


 希望と絶望の乱降下が繰り返され、メルトに浴びせられる嫌味がさらに露骨なものになったとき、ホムンクルスたちは決断した。


 なんとかして元勇者と邪龍を分離させなければならないが、地上に干渉できない自分たちでは、もはやどうすることもできない。

 苦渋の選択ではあるが、できるやつにやらせるしかない。


 そう。

 一日に十時間眠り、起きている時間の大半を酒瓶片手に過ごし、この五十年間は超越者からの叱責を恐れて天界に閉じこもっている、この女神に。


「ひどいと思いませんこと。ウリエルさんが突き飛ばして、わたくしをむりやり下界に降臨させたんですのよ。しかも足で。蹴ったんですよ、あいつ、わたくしのことを」


 表情を消したカシューの眼前で、メルトは本気で憤っていた。

 顔面が紅潮し、こめかみに血管が浮き出ていた。


「ホムンクルスたちは統合管理官に危害を加えられないように、プログラムされているはずなんです。なのに蹴ったんですよ。どうやったのかと思ったら、最初の原因となる行動から結果となる次の行動に連鎖して、一八二番目の動作がわたくしに向かって足を突きだすよう、何日もまえからセフィロトに計算させていたんです。これって完全にバタフライエフェクトの悪用ですわよ」


 メルトは口角から泡を飛ばす勢いでまくしたてた。


「なんだかよくわからんが、悪いのはおまえだ」


「あなたっ、わたくしに向かってまたおまえって言いましたわね!」


「何度でも言ってやる。おまえが悪い」


「なぁっ!」


 ムキになったメルトが大声をあげたとき、カシューのうしろから物静かな男の声が聞こえた。


「メルト様。夜も遅いですから、あまり大きな声は」


 これまで第三者の気配にまったく気づいていなかったカシューは、ふいに聞こえてきたその声に総毛立(そうけだ)ち、反射的に右の裏拳を放っていた。


 見えない位置からの神速の一撃だったはずの拳は、しかし、ほとんど衝撃を感じることもなく受け止められた。

 うしろに立った男が、音もなくカシューの右腕を包みこんだからだった。


「申し訳ありません。ドアの外で待機しているつもりだったのですが、うちの女神様が近所迷惑でしたもので」


 ひそやかな声で穏やかに言った男は、目のまえで受け止めたカシューの拳をしげしげと眺めると、怪訝な表情をした。


「手の甲が()れていますね。折れていますよ」


 右手の違和感には、カシューも気づいていた。

 出会い頭にメルトに握りしめられて以来、徐々に熱を持って動かすたびに引っかかりを感じるようになっていた。


 あらためて確認すると、指のつけ根から手首まで、手の甲全体が浮腫(むく)んだように腫れあがっていた。

 もう一方の手で触れると、()みるような疼痛がある。


 痛みを我慢しててのひらを握りこんだ。

 引っかかりを感じていた場所に、明らかな凹凸(おうとつ)があった。


「おまえが握りつぶしたせいで、手が折れた。癒やしの勇者のかわりなんだろう。治してくれ」


 カシューが憮然として右腕を突きだすと、メルトは目を剥きだしてせせら笑った。


「は! やなこった!」


「この野郎!」


 ふたたび騒ぎ出したふたりを見て、気配もなく入ってきた男がため息をついた。


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