45 徘徊する牙
戦時体制が宣言されてから三カ月を越え、誰もが勇者たち三人の存在を忘れかけていた頃、唐突にカシューの待機期間は終わりを遂げた。
暗号による呼び出しもなにもなく、息せき切って直接カシューの住まいを訪ねてきた組織の職員によって、明朝出発の辞令を下されたからだった。
突然の状況ではあったが、カシューは慌てることなく任務出発の準備を整えた。
そもそもが破壊工作でも潜入任務でもない監視任務であり、連絡要員などの後方支援態勢が整っている以上、用意するものはせいぜいが長旅に出る程度の荷物だけだった。
勇者たち三人と冒険者ギルドがつけた従者ひとりの四人パーティーは、翌未明、夜明けとともに王都西門から出発するという。
窓の外にはすでに宵闇が落ち、近隣の長屋からは夕餉を囲む家族の声が届いてくる。
最後にコブの顔を拝むため、庁舎に顔を出しておくべきだったか。
そう考えたとき、扉をノックする音が響いた。
疑問を感じるまでもなく、誰だかわかった。
「開いてる」
立てつけの悪い扉をがたつかせながら押し開けたコブが、いつものように微笑んだ顔をのぞかせた。
「飲みにいこう。ジパニカの大将の店だ」
「ちょうどいい。ミソとショーユは用意したんだが、味つけがまだ心許なくてな。しっかりおぼえておきたかった」
部屋に足を踏み入れたコブは、テーブルの上に準備してあった背嚢を目敏く見つけると手にとり、カシューにさしだした。
今夜はここに帰ってくることはなく、そのまま出発になるということだろう。
日が暮れると、王都の寂れ具合は一目瞭然となる。
不夜城と謳われた歓楽街に酔客の姿はなく、なにかに追い立てられるように背を丸め、足早に急ぐ人の姿ばかりが目立った。
いたるところに軒先を広げていた屋台はどこにもない。
いまだ営業を続けている店すらも、窓に戸板をおろし、かすかに漏れる細い光だけが内部に人の存在する気配をうかがわせている。
いくどか、コブは不自然に足をゆるめた。
そうかと思えば、唐突にカシューに顔を向け、どうでもいいことを話しかけた。
魔眼を使うまでもない。
路地の暗がりの奥、灯りがついていないのに開かれた家の窓。
そこかしこから向けられる視線があった。
行き止まりの路地に足を踏み入れ、地下へとつづく階段を降りているとき、振りかえることなくコブが言った。
「さきに謝っておく。だまし討ちのようなまねをした」
「気にするな。最初からなにかあるのはわかっていたよ。それに、言っておくが、だませてなかったぞ」
肩を落としたコブが、ため息とともに口を動かした。
「向いてないんだよ……」
店には先客がいた。
コブに誘われて何度か食事に来たが、自分たち以外の客を見たことがない。
まちがいなく、これまでは人払いをしていたのだろう。
今日にかぎって通常の営業をしているとは思えなかった。
コブがここまでして会わせたい人物に興味が湧いたカシューは、軒先をくぐろうとして足を止めた。
入り口に背を向けてカウンターに座っていた男が、振りむいたからだった。
「前言撤回する。ひどいな、コブ。こんなだまし討ちをするなんて」
「その者を責めんでやってくれ。儂がどうしてもと無理を言ってな」
さして大きな声でもないのに、その老人の声はよく響いた。
自分が話している最中は決して口をはさむものはいないことを知っている、鷹揚な口調だった。
「陛下……」
絶句したカシューが慌てて片膝をついた。
「よせよせ、カシュー。そんなたいしたもんじゃない。ふんぞり返ってないときはいつも酔っ払ってる、たんなる飲んだくれのじいさんだよ」
「お、おいっ、コブ」
あまりに不敬な口ぶりにカシューが顔を向けると、コブはなんの気負いもなく国王の右となりに腰かけるところだった。
「ほっほっほ。いつもながら手厳しいが、自覚があるから反論することもできん。カシューといったか。おぬしもまあ、座れ。今日はクエのいいのがはいっているらしい。儂は待ちきれんのじゃ」
国王みずからが引いてみせた左となりの椅子を断るわけにもいかず、カシューはおそるおそるの態で腰かけた。
コブとカシューでやんごとなき身分の男をはさんで座ると、カウンターはじでいつものようにグラスを磨いていた女将が音もなく前に立った。
老人のまえに置かれていたグラスをつまみあげようとしたとき、グラスを使っていた主が威厳に満ちた声をあげた。
「待て。まだ少し残っておる」
女将の指をさえぎるようにして国王はカウンターに身を乗り出すと、グラスをつかみ、顎を突きだしながら飲み干した。
カシューが見たところ、グラスの中身は底に小指の幅ほども残っていなかったはずだ。
満足げにうなずいた老人が、女将にグラスを手渡した。
手を伸ばした姿勢のまま硬直していた女将が、あきれたように首を振った。
「な。意地汚いんだ」
国王を指さしながら、コブがカシューに向かって言った。
場末の酒場でもめったに見ないほど未練がましい酒への執着ぶりだと思ったものの、表だって同意するわけにもいかないカシューは、酸っぱいものでも食べたように眉を下げ、呻き声をもらした。
「ジパニカのジュンマイダイギンジョーじゃぞ。次はいつ飲めるかわからん」
「どこぞのご隠居が毎日来なけりゃ、そうそう切らすこともありませんよ」
女将が言いながら、三人のまえに新しいグラスを置いた。
銅製の片口から国王、カシュー、コブと冷酒を注いでまわると、いつものように、あとはご自由にと言い置いて厨房へと入っていった。
「まずは一献」
グラスを額の辺りに掲げた国王が、カシューに目を向けた。
カシューは慌ててグラスをつまむと、同じように掲げた。
黙っていると、片眉を上げた表情のままのぞきこんでくる国王と目があった。
もはやどうにでもなれと、勢いのままにカシューは口を開いた。
「美味い酒に」
コブがグラスを掲げた。
「美味いメシに」
「乾杯」
楽しげに目を細めた国王が、杯を呷った。
厨房から、からからという油の爆ぜる音が聞こえてくる。最初はテンプラだな、とカシューは思った。
印象どおり、国王はよく食べ、よく飲んだ。
そしてよくしゃべった。
料理が出てくるたび、素材から調理法、食べ方をコブに尋ね、じつに美味そうに咀嚼した。
厨房に立つ大将の手際にため息をついて感嘆し、漂ってくる香りに鼻孔をひくつかせては相好を崩した。
手ずからグラスに酒をそそいで飲み、両脇に座るふたりに酌までしてみせた。
さすがにカシューが畏れ多いと固辞すると、「はよう空にせねば、女将に次の酒を頼めんではないか」と拗ねたような顔をした。
恐ろしいことに、どうやら本気で言っているようだった。
もともと蘊蓄を聞かせるのが好きだったコブは、最初こそ国王の質問に丁寧に受け答えをしていたが、自分も舌鼓を打ちはじめると「食えばわかります」、「美味いですよ」の二語しか言わなくなった。
おざなりな応対にカシューは肝を冷やしたが、国王は国王で「なるほど」、「たしかに」と繰り返すばかりだった。
「カシュー。美味いもののまえでは、人は平等なんだ」
したり顔でのたまうコブに、国王はうなずいた。
「さよう。生きとし生けるもの、すべて食わねば生きていけん。じゃが、ただ食うだけでは野生の獣と変わらん。食うという行為を豊かな幸福へと昇華させた。それこそが人の身につけた賢さよ。美味いメシこそが正義じゃ。むしろ、いまこの席においては、美味いメシを儂に教授してくれたコブのほうが偉いといってもいい」
国王はしかつめらしい顔で宣言すると、「ささ、師匠。もう一杯」と言ってコブのグラスに酒をそそいだ。
「その理屈でいけば、この料理をつくった大将がもっとも偉大だということになりますが」
あきれたカシューがつぶやくと、国王は目を見開き、コブは深くうなずいた。
「神じゃな」
「陛下、拝んでおきましょう」
「うむ。カシュー、おぬしも拝め」
三人は息を合わせたように手を合わせると唱和した。
「よっ、大将!」
苦笑した大将が厨房から顔をのぞかせた。
「鍋のしめですが、うどんと雑炊、どっちにしやすか」
コブが答えた。
「ウドン」
国王が声をかぶせた。
「雑炊」
ぴりついた視線を交わすふたりを無視して、カシューが言った。
「両方頼む。卵でとじてくれ」
ひたすら食ってるとか、ひたすら殴ってる描写が続くときは、ストーリーが思い浮かばずに苦労しているんだなとご察しいただけると助かります。
広げた風呂敷を畳むのに非常に難儀しており、なんにも考えず、その場のノリだけで執筆してきた過去の自分に怒りを覚えつつ、日々、あぶら汗を流しております。
完結までいましばらくお付き合いいただけますと、これにまさる幸いはありません。




