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38 羊の皮をかぶった狼


 ひと月ぶりに自宅に戻ったカシューは、母屋周辺の地面に残る魔力の痕跡を見て足を止めた。

 淡く紫色に光る足跡が建物を観察するように家屋を一周し、扉のまえで消えている。


 自分が不在のあいだ、週に一度作業小屋の管理を頼んでいる隣家の母娘のうち、娘のほうも紫色の足跡を残すが、あの娘の魔力残滓はもっと色が濃い。

 なにより、五歳の娘の足の大きさではなかった。


 カシューは胸元から手ぬぐいを取りだすふりをしながら、周囲からは見えないように手首におさめていたナイフを引き出した。

 中指と薬指の合間から第二関節ほどの長さをした両刃の刃先が突きだすよう、凸型ハンドルを握りしめる。

 プッシュダガーと呼ばれる暗器だった。


 広げた手ぬぐいで額の汗を拭きながらナイフを隠し、無造作な仕草で扉を開いた。

 目に映った光景を瞬時に頭に刻みこんだ。


 中途半端に蓋の開いた水瓶、(かまど)にかけられたケトル、テーブルの上に置かれたカップ、不自然に移動している椅子。


 頭のなかでそれらを確認しているあいだも、肉体は何万回とくりかえしたルーチンにそって動いた。

 右手で扉を押さえたまま二歩進んで振り向き、左手で扉を閉めながら、あとをつけてくるものがいないか素早く視線を走らせる。


 扉を閉めると同時、上半身をひねって背負っていた背嚢(はいのう)を隠れていた男に叩きつけた。


 潰れたカエルのように悲鳴をあげた男の胸ぐらを左手でつかんで壁に押しつけ、喉元に右の拳を突きつけた。

 相手が逃げようと身体を動かせば、拳から突き出た刃先が柔らかい肉に潜りこむことになる。


 針金のように痩せた男だった。

 三十そこそことおぼしき顔のなかで、吊り上がった糸目を必死に見開いて恐怖の表情を浮かべているが、視界の外ではゆっくりと両手を持ち上げていた。


 カシューは握ったナイフを男の顎下に軽く押し当てた。

 わずかに刃先が刺さった。

 逃げようとした男が背中ごと首をのけぞらせ、反撃の隙をうかがって落としていた腰と膝が棒のように伸びた。


 食いしばった男の口からくぐもった声が漏れた。


「はじまりの雷鳴は……」


「……ささやかに」


 答えるとカシューはナイフをおさめ、押さえつけていた左腕を離した。


 三十余年ぶりに接触をはかってきたウルブリッツ王家直属の諜報員の男は、首元を押さえながらもいぶかしげな視線をよこしてきた。


「あんた、先代から引き継ぎしてないのか? いまの王家に代わってから接触の暗号も変わってるぜ。いまはとどろくだ。はじまりの雷鳴はとどろく」


 カシューはわずかに目を細めただけで口を開かなかった。


 男はカシューの態度に舌打ちをひとつ立てると、荒々しい仕草で戸棚を開け、なかに入っていた瓶を手に取った。

 この家にある一番強い酒の入った瓶だった。

 行動に迷いがない。

 いつからここにいるのかわからないが、かなり入念に家捜しをされていることをカシューは悟った。


「くそっ、血が出てるじゃねえか」


 首元から流れた血を手のひらで雑に拭うと、男は瓶の蓋をはずして中身を首に振りかけた。

 濃い酒精のにおいが部屋のなかに立ちこめた。


 首の傷を洗った男は、足で蹴り出した椅子に腰掛けると、持っていた瓶をラッパ飲みに口をつけた。


「この国はどこ行っても魔物が混じった出来そこないばかりでむかつくが、ウイスキーだけは一級品だな」


 口のはしからこぼれた酒を拳で拭いながら、男が強い目つきを向けてきた。

 だらしなく浅く腰掛けて背にもたれた上半身に、大きく開いた足。

 なにも恐れるものなどないといわんばかりの横柄な態度だったが、カシューからみれば虚勢なのが明らかだった。


「そいつはヴェルトバウムウイスキーでも二級品だ。おれの稼ぎじゃ一級は買えんよ」


 目を見据えたままカシューが言うと、怯んだように目を逸らせた男は床につばを吐き捨てた。


「ちっ。羊だなんて暗号名だからちんけな情報屋ていどかと思ってたが、むかつく野郎だぜ」


「あんたは」


 薬の素材の詰まった背嚢をおろし、長旅でほこりまみれになった外套(がいとう)を脱ぎながらカシューは聞いた。


「ワイバーン。コードネーム・ワイバーンだ」


 片頬を持ちあげた男がもったいつけるようにゆっくりと名乗った。


「組織じゃ、もう家畜の暗号名は使ってねえ。実力に応じて強え魔物の名前があてられんのよ。羊は食い殺されねえように気をつけろよ」


 中身を整理しようと開いていた背嚢のかぶせを、カシューはそっと戻した。

 今回の行程ではワイバーンを一体倒した。

 背嚢にはその(きも)や、血を煮詰めてつくったペーストがおさめられている。

 見てわかるとも思えないが、説明を求められれば面倒なことになりそうだった。


「で、そのワイバーンさんがおれになんのようだ」


 期待した反応が得られなかったのか、男はまた舌打ちをすると、ふところから紙束を取りだした。


「あんたが前回送ってきた報告書の写しだ」


 カシューはテーブルの上に広げられた二枚の紙に視線を送った。

 一枚は自分が書いた文書を転写したもの。

 もう一枚は暗号を解読して書き出したものだった。


 冒頭に、ヴェルトバウム長期潜入工作員羊より定期報告・第一五三という文字が見えた。

 回数はあっているが、自分はヴェルトバウム長期潜入工作員などと署名したことはないとカシューは思った。

 おおかた、書き写した文官がわかりやすいように分類したのだろう。


 黙っているカシューに、男が()れたように声をかけてきた。


「読まねえのか」


「自分が書いて送ったものだ。頭のなかに入っている。三カ月前に規定の通信手順にそって送付した暗号報告書にまちがいない」


 内容は、ヴェルトバウムの物価変動記録と政府が備蓄している医薬品の種類と量の目安。

 それから旅の途中で薬草を売った婆さんから聞いた世界樹の噂話だった。


 カシュー自身、たいした情報ではないという自覚があった。

 ウルブリッツは公式にはヴェルトバウムを独立国家として承認していないが、官民まじえて商売のやりとりをしている以上、物価など調べるまでもなくわかることだった。

 医薬品なども、それがどうしたと問われれば返す言葉に窮する。

 武器や防具の生産流通量のほうがよほど重要な価値を持つだろう。

 噂話にいたっては、聞かされた愚痴の合間にこぼれた与太話もいいところだった。


 こんなものをいったい誰が読むというのか。

 徒労感からくる無気力に苛まれながら、ただ長年の習慣というだけで書き送ったものだった。

 だが、ワイバーンと名乗った男の口から出てきた言葉はちがった。


「組織のお偉いさんが、この報告書を読んで目の色変えやがってな。もっと詳細な情報を手に入れてこいってんで、おれが派遣されたってわけよ。まったく、なんでおれがこんな魔物くせえとこになんぞ来なきゃならねえんだ。むかつくぜ」


「まさか、世界樹の噂話を真に受けたんじゃあるまいな」


 あぜんとした口調でカシューが言うと、ワイバーンが声を荒げた。


「おい、いまさらガセだったなんてぬかすつもりじゃねえだろうな」


「ガセじゃない。じっさいに聞いた話だ。しかし、不老不死をもたらす世界樹の種子の話なんて、それこそゴートに世界樹が生えた三十五年前から、さんざんくりかえされてきた話だろう。多少目新しい情報が出てきたところで、誰が本気にするんだ」


 カシューの言葉に、ワイバーンが椅子に座りなおした。


「国王だ」


「は? 剣の勇者が?」


「様をつけろよ、デコ助野郎」


 ワイバーンは前のめりにテーブルに肘をつくと、声をひそめて薄ら笑いを浮かべた。


「本国じゃ極秘だが、ここなら誰も聞いてねえからおまえにゃ教えてやる。国王は不予だ。なんでも、二、三年前から急激に老いはじめて、いまじゃまともに歩くことすらできなくて寝たきりって噂だ」


「まさか。まだ六十のはずだ。あれだけ魔力を秘めていた人間が、老いたとはいえ、そうそう衰えるとは思えん」


「なんだ、会ったことあんのか?」


 いぶかしげな視線を送ってくるワイバーンを無視し、カシューは記憶にある剣の勇者ことタナカイチロウの姿を思い浮かべた。


 最後に彼を見たのは、三十五年前。

 ゴート紛争の救援隊を率いる隊長としての姿だった。


 二十三歳にして召喚されたタナカイチロウは、一年後、魔王を討伐した頃から恐るべき成長を遂げていた。

 横溢する魔力で強化された肉体と、歴戦による艱難(かんなん)で研ぎ澄まされた精神は、柔と剛をあわせもつ抜き身の剣のような人間性を彼に与えていた。

 それでいて笑顔を絶やすことなく周囲に気を配り、戦闘となればおのれが傷つくことなどまったく考慮に入れず、まっさきに切り込んでいく。


 つねに集団の中心にいる剣の勇者を、ときに人だかりにまぎれながら、ときに遠目に観察しながら、名もなき冒険者に身を(やつ)していたカシューは、本物のカリスマの姿に圧倒される思いで見ていた。


 三十五年前、その彼が率いる救援隊の一員として、カシューもまた、ゴートに足を踏み入れた。

 そこで見た、変わり果てたゴートの街並みと、信じられないほどに巨大な樹木。


 ウルブリッツ王家に世界樹顕現の第一報を伝えた人物こそ、異世界召喚された勇者一行による魔王討伐戦を隠密裡に監視していた、王家に直属する諜報組織の秘密工作員、羊の暗号名をもつカシューだった。



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