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31 問題はない。なにも問題はない


いささか長くなったので分割しようかとも思ったのですが、いちおう物語上のクライマックスなので駆け抜けることにしました。

主人公の旅の終着地点を皆様の目で見極めていただければ幸甚です。




「しとめたか!」


「わからん! とにかく刺しつづけろ」


「なんなんだ、こいつ! こんな魔物みたことがないぞ」


「外でオーガが死んでる! ひでえ殺されかただ。本当にこんな弱そうなやつがやったのか」


 物陰からあらわれた男たちが、口々に(わめ)きながら私の身に槍を突き刺していった。

 全員が統一された意匠の美しい鎧に身を包んでいるが、皆いちように汗と塵埃にまみれていた。

 強い緊張に晒されていたことを想像させる引きつった表情と極度の興奮状態をうかがわせる血走り硬く尖った瞳孔は、狂気にとらわれる寸前にも見える。

 そして振り乱した髪の合間から突き出した、エルフの特徴である長い耳。

 ただのエルフたちではない。

 アルカード子爵の奇襲に対抗してギリアムが呼び込んだという、ハイエルフにちがいなかった。


 人数は多くない。

 旧市街地に展開していた軍人たちと比べても三分の一にも満たないだろう。


「静まれ」


 しわがれた低い声が響くと、私の周囲にあった人垣が割れた。

 あらわれたのは、ほかの者たちと同じ軽鎧のうえにさらに重厚なローブをまとったエルフだった。

 その声と同様、顔に刻まれた幾重もの深い皺が長い年月を生きてきたことを物語っている。

 だが、ひきしまった動作と重いながらも張りのある足音からは、老人特有の衰えを感じることはできなかった。


「先ほどから外を騒がしくしておったは、こやつか」


 近づいてきた老エルフが幾竿もの槍によって縫い止められた私を見下ろして言った。

 浮き足だったほかのエルフたちとは異なり、その瞳にはいまだ強い気迫が漲っているようだった。


「は。変異種とみられるオーガが一匹、内側から食い破られるようにして死んでいます。おそらくはこの魔物のしわざかと。たむろしていた雑魚たちは、爆発と戦闘の余波を受けてすべて散ったようです」


 側近格と思われる年かさのエルフの報告に耳を傾けている最中も、老エルフの視線は私に据えられたたままだった。

 その目に、苛立ちと侮蔑があった。


 聞き終えた老エルフが片手を差し出すと、周囲にいた者がその手に槍を握らせた。

 振りかぶることもせずに突き出した穂先が、深々と私の腹に刺さった。


「いずれ劣らぬ下等な魔物風情が、我らハイエルフが悲願の成就を邪魔しおって」


 老エルフが腕をひねり、刃で腹のなかをかきまわした。

 灼熱の痛みが突き抜けると同時、槍の柄と刀身を通じて痺れるような魔力が流れ込んでくるのを感じた。

 直後、体内で破裂音が響き、腹腔が爆発した。

 血とも肉片ともつかない黒い粘液状の塊が周囲に飛び散り、正面に立っていた老エルフの顔を黒く染めた。


 老エルフは顔にかかった液体を乱暴にぬぐうと、黒く汚れたてのひらを見つめた。


 その顔に訪れた変化は劇的だった。

 食いしばった歯をぎちぎちと鳴らしながら首筋を強張らせ、強く歪んだ眉根と引きつるほどにつり上がった(まなじり)が眼球をなかば裏返らせた。

 憤怒にまみれた表情は、エルフとは思えぬほど醜悪な顔貌をしていた。


「荒ぶるしか能のない化け物が、このわしを愚弄するか!」


 狂ったように振りまわされる槍が刺さるたび、私の身体が爆ぜた。

 老エルフが感情を落ち着かせるころには両脚が吹き飛び、下半身のなくなった私の身体は半分ほどの大きさになっていた。


 もはや自分の意思で動かせる肉体は頭しか残っていなかった。

 私は顔をあげると口を開いた。

 声を作ろうとして息を吐いたとたん、体内から熱い塊がせりあがり、顎を伝ってしたたった。


「まだ生きておるか。卑しき生物ほど浅ましく死にづらいというはまことであったな。いくばく力をたくわえようと、畢竟(ひっきょう)きさまらなんぞは龍脈にたかる蠅のようなものよ。蠅は蠅らしく叩き潰されておればよいものを」


「……なにをした」


 老エルフが目を見開いた。


「きさま、しゃべれるのか」


「エレノアになにをした。ギルドマスターはどこだ」


 周囲にいたエルフたちが一斉に槍を振りあげるのを、老エルフが片手を上げて制した。


「エレノア……。あの娘のことか?」


 怪訝な表情を浮かべた老エルフが、なにかを思い出したように首を伸ばした。


「そういえば、あの娘がなにか男の名を叫んでおったが。なんといったか……」


「アッシュ」


 さきほどと同じ年かさのエルフが近づき、老エルフの耳元に口を寄せて言った。


「そうそう、それじゃ」


 まじまじと私を見つめていた老エルフが、肩をすくめるようにして吹き出した。


「よもやとは思うが、おぬし、もとは人間だったなどとぬかすつもりではあるまいな」


 喉の奥から漏れ出た笑い声が、徐々に大きくなっていった。


「たまらん。さすがは人間じゃ。魔王とやらを倒すために、魔物のごとき畜生になりはてるとはな。きさまら人間はいつだってわしらの想像もつかぬまねをして肚をくすぐりよる。やることなすことすべてが愚かで下賤きわまりないわ」


 腹を抱えて笑う老エルフに追従するように、周囲のエルフたちが笑いはじめた。


「あの娘ならば、ほれ、あのとおりダンジョンコアの(にえ)に捧げてやったわ。アンデッド化させたのち、心の臓を刳りぬいてコアを埋めこむことでダンジョンコアを意のままに操る、我らハイエルフの秘技よ」


 老エルフは目尻に浮かんだ涙をぬぐうと、なおもおかしそうに唇をゆがめた。


「あの娘、人間にしては体内魔力が高かったゆえ贄に選んでやったが、不足分の魔力を底上げするため、わしらの精をそそぎこんでやろうとしたら抵抗しおって(のう)。隠し持っていた短剣でみずから胸を突きおった。まったく往生したわ」


 その言葉を聞いた若いエルフたちの笑い声に、下卑た色が混じった。


「しかたがないので、アンデッド化させたあとは、龍脈に漬けこんで全身に魔素をたっぷり吸いこませたあのギルドマスターを食わせた。いらぬ手間をかけさせおったことは業腹(ごうはら)じゃが、おかげであの男に天誅を下すこともできたで、一石二鳥であろう。卑しき人間の分際で我らハイエルフを(たばか)ろうなど、万死に値する。下衆にふさわしい死に様であったわ。おまえたちもそう思うであろう」


 肩を震わせて笑う老エルフが背後に目を向けた。


「しかり」


「よいざまでありました」


「龍脈まみれになって光り輝くあの姿。思い出すだけで笑いがこみあげてきますな」


 若いエルフたちが口々に賛同の声をあげる。満足げにうなずいた老エルフが私に向きなおった。


「あの娘が胸を突くまえ、最後に叫んだのがきさまの名よ。……なんといったか」


 年かさのエルフが近づき、老エルフの耳元に口を寄せて言った。


「アッシュ」


「そうそう、それじゃ。きさまも惜しかった喃。あと半日も早ければ娘とまみえることができたものを。もっとも、その穢らわしい姿では、たとえ愛するものであろうと逃げ出したかもしれんがな」


 そう言うと、老エルフは喉の奥が見えるほど口を大きく開き、身をのけぞらせて大笑した。


「案ずることはないぞ。あの娘は死んではおらん。我らハイエルフが悲願、新たな千年王国の礎となるのじゃ。満願成就のあかつきには、世界に君臨した我らの手によって、千年、いや万年でも生きのびさせてやろう。人間などという卑賤の身に生まれながら、神にも等しい扱いをうけるのだ。天上の誉れであろう!」


 (たが)が外れたようなエルフたちの笑声が渦を巻くなか、小さく異音が響いた。

 鋭い突起によって肉が穿たれる音。

 そして溢れ出た血液が勢いよく地面を打つ音。


 哄笑が引きつった悲鳴によって途絶え、かわりに苦悶に満ちた呻き声と助けを求める泣き声が空間を満たすまで、そう時間はかからなかった。


「な、なんじゃっ。なにがどうなっておる!」


 いまや室内で五体満足な身体を保っているのは老エルフだけった。


 ほかのエルフたちは、足元に不自然に広がった影から突き出す、闇よりもなお黒く鋭い杭によって串刺しにされていた。


 全員、死んではいない。

 四肢に穴を開けられ、腹から背中までを貫かれているが、まだ生きている。

 一撃で死なせるだけの慈悲を、私は持ちあわせていなかった。


「おのれ、きさまのしわざか。下郎!」


 老エルフが腰から抜いた剣は、しかし振りあげられることなく腕から抜け、乾いた音を立てて床に落ちた。


 愕然とした老エルフが見たものは、肉が溶け落ち、骨が露出したおのれのてのひらだった。


「ヒ、ヒィっ」


 老エルフが金切り声をあげて腕を振ると、骨格はそのままに手首から肘にかけての肉がずるりと抜け落ちた。


「なんじゃっ、これはなんじゃ! なぜ動く。なぜ痛みを感じぬ!」


 老エルフが呆然と見つめるあいだにも両腕の肉は溶けてゆき、組み合わさった手根骨から橈骨と尺骨、上腕骨が露わになっていった。

 筋肉も靱帯も失われたにもかかわらず、骨格は崩れることなく保たれ、指先が動いているさまは奇怪というほかなかった。


「身体が……、身体が溶けてゆく。きさま、まさかわしにアンデッド化の呪いを――」


 その言葉が最後まで発せられることはなかった。

 先刻、私の肉体の残滓を浴びた老エルフの顔面が溶け落ちていく。

 その口から漏れるのは、ごぼごぼと泡だったような唸り声だった。


 毛根をつけたまま頭皮がべろりと剥がれ、流れでた眼球が原型を留めたままの鼻梁を巻きこんで流れ落ちていった。

 剥きだしになった歯列のあいだから口内にあった舌や溶けた肉汁が溢れ、糸を引いて胸元を汚した。


 老エルフが身につけていた軽鎧の腰のあたりから、ヘビのように細長い肉塊が大量にこぼれ落ちた。

 腹のなかにおさまっていた臓物だった。


 老エルフは狼狽したようにしゃがみこむと、足元に山をなして湯気をあげる腸を抱え集めた。

 拾いあげるそばから肉塊は溶け崩れていき、老エルフの周囲には薄汚い粘液の染みが広がっていった。


 激しく動いたせいだろう。

 老エルフが装備していた軽鎧はすべてはずれ、床に散らばっていた。

 残されたのは、赤茶色の液体を全身からしたたらせるスケルトンの姿だった。


 呆然と己の姿を見下ろしていたスケルトンが、助けを求めるように周囲に顔を向けた。

 虚ろな窪みだけとなった眼窩に入ってきた光景は、底なし沼のように広がった影にゆっくりと沈んでいくエルフたちの無惨な死に顔だった。


 くぐもった呻き声や痛みに耐えかねた悲鳴が消えて静まりかえった空間のなか、恐怖に打ち震えるスケルトンの骨が擦れあう、かちかちという音だけが響いた。


 よろよろと足を踏みだしたスケルトンが、噴出する龍脈が生みだす光の柱へと近づいていった。


 それが執念によるものなのか、それとも救いを求めた最後の一念だったのかはわからない。


 両手を突き出しておぼつかない足取りで進んでいったスケルトンは、龍脈に触れたとたん眩く発光し、さらさらとした粉末に崩れ去りながら光の柱に吸いこまれていった。


 床にわだかまっていた黒い闇は、蝟集(いしゅう)していたエルフたちをすべて飲み込むと私の周囲へと集まってきた。

 倒れていた私の上半身を包み込んで溶けあい、人型の輪郭を刻んでいく。


 しばらくしたのち、私は地面に腕をついて身体を起こした。


 万全にはほど遠い。

 あいかわらず魔力は枯渇しており、細く頼りない手足は立ちあがるのがやっとだった。


 震える足で歩きだし、左右に揺れた身体が倒れたあとは膝をついたまま這って進んだ。


 肉体を構成している闇が私の意思に反して暴れまわり、何度も口から溢れ出てきた。


 ようやくダンジョンコアまでたどりつき、抱きつくようにして身を起こした。


 見上げるほどに巨大な琥珀色のかたまり。

 額を押しつけて内部をのぞきこめば、龍脈の光を受けて金色に照らしだされたエレノアがそこにいた。


 むきだしになった両の乳房の中央から、濃い色をした紅玉のような鉱石が突きだしているのが見えた。


 一定の律動を保ちながらかすかに明滅しているそれは、魔王を倒したあと、私がみずから破壊したはずのダンジョンコアにちがいなかった。

 心臓がわりに埋めこまれたオリジナルのダンジョンコアが龍脈を吸って肥大化し、体外へと露出したのちに、今度はエレノアを取りこむようにして成長を続けたのだろう。


 あのとき、中途半端にコアを放置せず、完全に消滅するのを確認しておけば、エレノアがこんな目に遭うことはなかった。

 いや、そもそも王家がいらぬ欲をかくこともなく、故郷のゴートが崩壊することもなく、ギリアムが自滅することもなかった。

 魔王を倒して世界の平和は保たれた。

 それで終わるはずだったのだ。


 エレノアの姿を見あげた。

 深く眠っているような穏やかな表情だと思った。

 だが、これは私が会いたかったエレノアの姿ではない。


 上半身にかたく巻きつけていたベルトポーチに手を触れた。

 なにがあろうと、これだけは守り抜いてきた。

 かつて杖の勇者だったものが封印されているアストラル体。

 鋭く尖ったその闇色に光る結晶を掴み、頭上に掲げた。


 我が深奥に宿りしセフィロトよ。

 血肉のすべてを捧げた私に、この身で与えられるものはなにもない。

 だからおまえの足元に、私の魂を横たえよう。

 喰らえ、一片残さず。

 そしてこの場に流れし龍脈をことごとく啜り尽くし、地上に世界樹を降臨せしめよ。


 私は握りしめた結晶をまっすぐ振りおろし、みずからの胸元に突き立てた。


 セフィロトよ。

 いまこそ汝、神となれ魔となれ。


 身体の奥底で誰かの歓喜が爆発した。


 これまでに経験したことのない、まったく異質な魔力が猛烈な勢いで全身を駆けめぐっていく。

 それは突き刺さったアストラル体に直撃すると、瞬時にして砕き、溶かし、圧縮して肉体の隅々にまで浸透させた。


 全身が強張る。

 胸のなかに生まれた熱いかたまりが瞬く間に膨張し、肉体を内側から押し広げていく。

 すべての血管が一気に拡張したような感覚とともに、抑えようのない震えが全身を揺さぶり、硬直した身体に亀裂が走る破裂音が頭のなかに轟いた。


 雷に打たれたような激しい衝撃をおぼえると同時、私の肉体が弾けた。

 巨大な翼のような黒い爆炎が背中を断ち割って噴き出し、頭上に伸びる光の柱に絡みつくと一気に黒く染めあげた。

 形を失った両脚から細い管が伸び、鋭い槍となって地面に突き刺さると凄まじい速度で根を張り、いたるところで大地を隆起させた。


 幾筋にも分岐した左腕が蔓のようにダンジョンコアに巻きつき、締めあげた。

 半透明だったコアの表面に何本ものひびが入り、深い亀裂が眠るエレノアへと近づいていく。


 まだ自分の意思で動かせる右腕のてのひらをダンジョンコアの表面に沿わせると、体内に残っていた自身の魔力を放った。

 ガラス質だったコアの表面が重い粘液状に変化し、かすかな波紋が広がっていく。

 そのまま腕を沈めていった。


 肩のつけ根まで腕を沈めると、指先がエレノアの胸から突き出す結晶に触れた。

 握りしめ、意識を集中させた。


 かつて私が杖の勇者を倒したときに得た称号、〈セフィロトに触れし者〉。

 そのスキルである〈到達者〉は、相手のアストラル体を任意に再構築できる能力だった。

 アンデッド化したエレノアはまだ死んでいない。

 天界にあるアストラル体には、まだエレノアの魂が刻まれているはずだった。


 いま、セフィロトに力を与えたことによって、この地に世界樹が顕現した。

 ならば、この世界樹を通じてアカシックレコードに私の意識をリンクさせることで、天界にあるエレノアのアストラル体にアクセスし、そのマナコードを修復することができる。

 肉体の損傷を回復させ、アンデッド化の呪いを除去してエレノアを復活させることができる。


 そしてもうひとり、まだ死なせることはできない人間がいる。

 ギリアムもまた、エレノアのなかにいるのを感じた。


 顔を上げ、天空へとそそり立つかつて光の柱だったものを見上げた。

 いまはもう光り輝くこともなく、急速に実体化した闇によって何本もの幹が絡みついたような巨木に育っている。


 世界樹はまだまだ大きくなり、やがて龍脈の噴出孔をふさぎ、地下深くまで根を伸ばして過剰な龍脈の奔流をすっかり吸い尽くすことだろう。

 そのときには、周囲一帯が繁茂する木立に覆われ、ゴートの街並みは飲み込まれることになる。

 剣の勇者による救援が、そうなるまえに間に合うことを祈るしかなかった。


 意識が点滅するように途切れ、過去に見た記憶がフラッシュバックする。

 死んでいった魔王とその家族の顔が、何度も脳裏に甦った。

 だめだ。

 まだ意識を乗っ取られるわけにはいかない。

 最後の仕事が残っている。


 いまの私の身体は、成長を続ける世界樹となかば一体化していた。

 アカシックレコードにリンクすることは造作もなく、また世界樹の力を借りることで、海のように膨大な世界の記録のなかにあっても、容易にエレノアとギリアムの魂を見分けることができた。


 ふたりのアストラル体を見つけだし、内部におさめられたマナコードを書き換えた。


 右手に握りしめていた結晶の感触が変わった。

 ゴツゴツとした深紅の鉱石だった結晶は、白く輝く光の珠へと姿を変えていた。

 暖かい熱が脈打つ、力強い鼓動をてのひらに感じた。


 エレノアの体内でかすかに残存していたとはいえ、肉体を失ったギリアムを人間のまま復活させることは不可能だった。

 かつての自我が残っているのかもわからない。

 だが、娘を思う気持ちはまちがいなくあった。

 だからギルドマスター、エレノアをお願いします。

 いずれ彼女が目を覚ましたとき、あなたが守ってあげてください。


 てのひらのなかの光の珠をエレノアの胸におさめ、腕を引き抜いた。

 ぽっかりと開いた穴の奥で珠は大きく光り、やがて盛りあがった肉に埋もれて見えなくなった。


 傷跡ひとつないエレノアの身体に腕をまわし、引き寄せた。

 液状のダンジョンコアの内部、エレノアの口元から小さな気泡が漏れ、浮かびあがるのが見えた。


 解放したエレノアを胸に抱きしめた。

 生きている人間のやわらかさとあたたかさを感じた。

 大丈夫。もう大丈夫だ。

 問題はない。なにも問題はない。


 どこかから降りてきた太い枝が、老エルフの身につけていたローブを拾って伸びてきた。

 受け取り、エレノアの裸身にかぶせた。


 胎児のように身体を丸めて穏やかな寝息をたてるエレノアを、何本もの枝が恭しく持ちあげ、頭上へと運んでいった。


 あとはセフィロトにまかせておけばいい。

 いずれやってくる救援隊によって付近の安全が確保されるまで、彼女が危険にさらされることはないだろう。


 身体が動かない。

 文字通り、足が大地に根を張り、全身が樹木化して世界樹と融合している。


 抗いがたい眠気が肉体と精神の両方を支配しようとしている。

 このまま眠りに落ちれば、もう目覚めることはないのかもしれない。


 私がなすべきことは、もはやなにもない。

 私はもう、なにもできない。

 この身は世界樹に取りこまれ、意識は消失していくだろう。

 そう思ったとき、強い安堵と同時に強烈な孤独を感じた。


 脳裏を次々とよぎっていく記憶の景色がある。

 孤児院でともに育った子どもたちの姿。

 皆で駆け巡った山野の空気。

 年老いた神父。

 そのてのひら。


 冒険者になるために駆けた夜の森。

 暗い闇のなかで、うしろからずっとついてきたフクロウの鳴き声。


 はじめてギルドの扉に手をかけたときの古い木のにおい。

 裏庭で浴びた井戸水の冷たさ。

 着替えを持ってきたついでだといってタオルを掛けてくれた、エレノアの姿。


 はじめて倒した角ウサギの目。

 解体した手に残る血潮の熱さ。


 ギルドマスターとともに足を踏み入れた魔の森。

 その深層で味わった恐怖。

 護衛任務のさい盗賊に射られた弓の痛み。

 ダンジョン内部で裏切った冒険者に切りつけられた背中の痛み。

 油断してモンスターに食らった毒による灼けつくような全身の痛み。


 いつも腹を空かせていた孤児院の子どもたち。

 いっしょに野草で作ったスープの味。

 集めたまま隠していたら酒になってしまった花の蜜。

 それを飲んで酔っ払った子どもと激怒したシスター。

 そのシスターの喜ぶ顔のために、スライムの加工のしかたを必死になって覚えようとした子どもたちの真剣な顔。


 ともにクエストを達成した冒険者たちの背中。

 頭から浴びせかけられたエールの味。

 年甲斐もなく冒険者になった中年の男といやいやパーティを組んだ若者。

 その中年男の亡骸を抱いて泣きながら帰還した若者。


 街を襲ったワイバーンの群れをギルド総出で迎え撃った夏の朝。

 特攻していった女騎士。

 大空に連れ去られながらも空中で討ち果たし、墜落して死んだ彼女。


 討伐任務で赴いた山の山頂から見下ろしたゴートの街並み。

 周囲の森に息づくいきものたちの息吹。

 暮れなずむ夕日に視界が真っ赤に染まるなか、私は街に(とも)るほのかなともしびと夕餉(ゆうげ)の煙から目を離せなかった。


 すべてが遠くなりつつある。

 甦るはしから記憶が消えていく。


 怖い。

 私が消えていく。

 まだ死にたくない。


 怖がる必要はない。

 世界樹はともにある。

 (あまね)く生命は(われ)に抱かれ、我の胸の内で命を謳歌するだろう。

 天に星が瞬くかぎり、地に花が咲き誇るかぎり。

 それこそが我の望み。

 それこそが我の喜び。

 お眠りなさい、安らかに。

 穏やかな安息があなたの魂に訪れんことを。


 私は死んだ。




というわけで、森走破編はこれにて終了となります。

400字詰め原稿用紙で100枚強、約4万字にわたって血と肉片が飛び散る物語を書けました。

たいへん満足しております。


完結までもうちょっとだけ続きますので、ブックマークなどしていただけるとよろこびます。


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