30 ようやくここまで来た
慣性のままに落下した巨木が下にあった木々を押し倒すのと同時、地面から吹き出した土煙が森を断ち割るようにしてまっすぐにゴートへと走るのが見えた。
直線上に存在した木立が大きく揺れたあと次々と倒れてゆき、生きているのかもわからない肉塊が四散するように宙高く吹き飛んでいく。
疾駆していたものはあっという間にゴートの新市街地を囲う外壁に到達すると、勢いのままに激突した。
石塊を積み上げただけの壁など、なんの障害にもならなかった。
爆発したように外壁が崩れ、内側に向かってはじけ飛んだ石つぶてが徘徊していた生き物たちをなぎ倒した。
突然の災難に硬直した魔物たちが注視するなか、立ちこめていた粉塵の煙をまとうようにして、ゆっくりと進み出てきた影があった。
遠目に見下ろしても、その変化は明らかだった。
全体に骨格が引き締まり、長い足と腕に支えられた胴体が均整のとれたシルエットを形成していることから、以前よりも小さくなったような印象すら受けた。
獣じみて口吻の突き出していた顔面は、いまではすらりとした鼻梁と薄い唇が細く尖った頤におさまっており、縮れることなく腰まで流れた白髪は華麗といってもいいほどの美しさを備えていた。
それは進化したオーガの姿だった。
たったひと晩であれほどの変化をもたらすには、どれほどの敵を屠り、その生命を吸収する必要があったのか、想像もできなかった。
無表情に周囲を見まわしていたオーガを同じ魔物同士と見てとったのか、遠巻きにしていた一体のトロルが肩を揺らしながら近寄っていった。
オーガは鈍重なトロルに視線を向けることすらしなかった。
優雅な仕草で頬をはたくように拳を振ると、当たったトロルの顔面が爆ぜたように弾けた。
首から上を失ったトロルの肉体が膝から頽れ、許しを請うようにゆっくりと前のめりに倒れた。
凍りついたように固まっていた周囲の魔物たちが、一斉に動きはじめた。
生存本能のすべてを闘争に費やすはずの魔物が、躊躇なく背を向け、恐怖の叫びを漏らしながら全力で逃げ出していた。
オーガはそれら一切に注意を向けることなく、そそり立つ光の柱を仰ぎ見ると悠然と歩きだした。
私は再び女王蟻の背に腕を入れ、その魔核を引きずりだした。
粘液にまみれ神経がからみついた魔核は、かろうじて残る命の滴を使い切ろうと弱々しく明滅していた。
かすかに脈動するそれを握りしめ、私は自分の魔力を注ぎこんだ。
あえて魔力の同調はさせなかった。
拒否反応を起こした魔核が不整脈にあえぐように乱れた光を放ち、安定した滑空を続けていた女王の身体が硬直して痙攣する振動に全身が揺すぶられる。
さらに魔力を込め続けた。
握るてのひらに弾けるような衝撃が幾度も伝わってきた。
性質の異なる魔力を限界を越えて注ぎこまれ、魔核が内部から割れはじめている。
同時に女王の外見にも変化が生じた。
外骨格が内側から盛りあがり、ひび割れて体内の粘液がボコボコと沸騰しながら吹き出してくる。
外気に触れた粘液は、一瞬ガスを放出すると青白い炎に変わった。
まだだ。
もう少しだけ耐えてくれ。
胸の内で詫びながら、私はなおも魔力を込めた。
もう一方の手で掴んだ触覚を引き寄せ、前傾姿勢をとった。
眼下で背を向けて歩くオーガに向け、垂直に近い角度で急降下していく。
あのオーガを光の柱まで到達させてはいけない。
コアと接触すれば、まちがいなく新たなダンジョンマスターが誕生することになるだろう。
龍脈と直結したダンジョンコアは、それ自体が意思を持った魔物にも等しい。
そして、この魔の森で頂点に君臨するまでに進化したオーガ。
互いのなにかが共鳴し、あのオーガは喚ばれたのだ。
地上でもまれに見る大規模な龍脈の結節点である広大な魔の森と、その魔の森に蠢く魔物たちのなかでも最強の存在にまでのぼりつめたオーガ。
ダンジョンコアはこのふたつを同時に支配下におさめようとしている。
それが成し遂げられたとき、もはや魔の森全域がダンジョン化するだけでは終わらないだろう。
胎内に龍脈をはらんだダンジョンコアは、その触手を伸ばして地下深くから大地を腐らせる。
我々の生きる王国のど真ん中に魔界が誕生するのだ。
どこにも逃げるすべはない。
なんとしても、あのオーガを倒す必要があった。
地表がみるみるうちに迫ってくる。
残っていた女王の翅を羽ばたかせ、さらに加速した。
女王の千切れた下半身の断面からも青白い炎が長く吹き出し、夜空を流れる彗星にまたがっているようだった。
腹に響く低音の羽音をたてていた女王蟻の翅が、全身を打つ衝撃波をともなって砕け散った。
左右の複眼が連続的な破裂音を響かせながら割れていき、限界まで開いた顎から燐光とともに断末魔の悲鳴が響いた。
オーガが振り向いた。
己に向かってくるものを見定めると瞬時に腰を落とし、右腕を振りあげた。
衝突の寸前、私は四肢を丸めて横ざまに身を投げた。
振りかぶったオーガの拳が突き出されるのと、女王蟻が激突するのは同時だった。
足から着地しようと空中で身体を回転させながら、私は時間が何倍にも引き延ばされたように感じていた。
一切の音が消え、視界のあらゆるものが蝸牛の歩みのようにゆっくりと進んでいく。
磨きあげた大理石のようなオーガの拳が接触した瞬間、女王蟻のまとう甲殻が粉々に砕けた。
体内から青い雷を思わせる電光が四方へ拡散してゆき、一拍おいて全身が跡形もなく破裂した。
周辺の空気が圧縮されて白く濁り、球状に広がっていく。
そのあとを追うようにしてガス状に噴出した女王の体液が引火し、閃光とともに巨大な火球が生まれた。
着地した私は、そのまま四つん這いになって地面にしがみついた。
直後に物理的な固さをそなえた音と風が全身を殴りつけ、視界が炎に包まれた。
頭を下げた姿勢のまま腰を上げ、土に食い込んだ爪先を蹴った。
空気が重い。
まるで水底に沈んでいるようだった。
粘つく膝を渾身の力で振りあげ、低い体勢を保って全力で駆けた。
三歩目で額がなにかを突き抜ける感触があった。
四歩目で目のまえが急に開け、視野のはじで千切れるように飛んでいく炎が見えた。
そして視線の先には拳を突き出した動作のまま硬直するオーガの姿。
大きく開いた口は唇がめくれ上がり、鋭い牙の列が剥き出しになっている。
顎から首にかけての筋肉が怒張し、なにごとかを叫んでいるように見えた。
私は速度を落とさず、体重を乗せた右の拳をオーガの顔面に叩き込んだ。
振り抜いた腕をすぐにたたみ、鋭角に曲げた肘でこめかみを打つ。
半回転した自身の上半身の力を左の軸足で押し返すと、撓みきった発条が勢いよく跳ね返るようにして肘がオーガのみぞおちに突き刺さった。
続けて伸びあがるようにして同じ肘でオーガの顎をかちあげた。
のけぞったオーガの耳を両手で掴んで引き寄せた。
反動をつけた膝をまっすぐ股間へと突きあげ、オーガの頭が下がったところを再度、膝を跳ねあげて鼻面にのめりこませる。
はじめてオーガが動いた。
くぐもったうめき声を漏らしながら、前に立つ私を掴もうと腕を伸ばしてきた。
子どもの腕ほども太さがある鉤爪をかいくぐり、背後へまわった。
髪を掴むと同時にオーガの膝裏を蹴りつけ、強引にのけぞらせた。
むきだしになった喉仏に拳を振り下ろし、鎖骨に肘、頭蓋骨に覆われていない後頭部を膝で蹴りあげる。
同じ三点攻撃を左右で繰り返したあと、肩甲骨の下に手刀を突き入れ、骨ごと剥がすようにして背中を突き飛ばした。
地面に手を突いたオーガのてのひらを踏み潰して肘を蹴り、立ちあがろうとすれば膝横を打って地を舐めさせ、脛を靴底で踏みつけた。
オーガの周囲をめまぐるしくまわりながら身体に張りつくようにして距離を詰め、反撃する隙を与えない速度でひたすらに急所を打ち込んだ。
いまのオーガに森で戦ったときと同じ戦法は通用しない。
関節を搦めとったところで、圧倒的な膂力で逆に握りつぶされるのは目に見えている。
とにかく手数を増やし、相手の動きを止めて細かなダメージを蓄積させていく。
魔力による身体強化と驚異的な自己回復能力を持つオーガを相手に、素手でしかない私が立ち向かう手段はこれしかなかった。
亀のように丸まったオーガの脇腹、肋骨の隙間めがけて手刀を突き立てた。
第二関節のなかほどまで埋まった指を鉤状に握り、力まかせに引き抜く。
短い悲鳴をあげてオーガが仰向けにころがった。
無防備な鼻面に膝を落として頭を固定し、眉間めがけて腕を振りおろした。
固く握りしめた拳で二度三度と打ち据えるうち、オーガの目頭から眉にかけての額が陥没し、両の耳孔から噴水のように血が噴き出した。
右手でオーガの額に生えた角を掴み、左手の親指を眼窩に突っ込んだ。
潰れた眼球が奥につながる神経ごと押し出され、薄紅色の血液が大量に溢れてくる。
絶叫するオーガの口を膝でふさぎ、左右に腕をねじりながら引き絞った。
頭蓋骨の継ぎ目に亀裂が入るパキパキという音が聞こえ、それはすぐに頭部全体の骨が砕ける感触にとってかわった。
もうじき脳に手が届く。
薄い皮膚の下、柔らかな脳をてのひらで掴み、五本の指を突き立てて軟泥のようにかきまわしてやる。
オーガの首を押さえつけていた膝に鋭い痛みが走った瞬間、自分の失敗を悟った。
オーガの再生能力を甘く見ていた。
へし折ったはずの牙がすべて生えそろい、私の右膝に食い込んでいた。
とっさに引き抜こうとした足が、やけに軽く感じられた。
膝から下の右足は、オーガの顎にくわえられたままだった。
オーガは長い舌をのばすと私の足を口腔へと引き込み、バリバリと音を立てて咀嚼した。
喉を大きく膨らませて嚥下すると、唇の端が耳元に届くまで吊りあがった。
笑っている。
生臭く湿った吐息が私の顔を包んだ。
オーガが両腕をあげ、私の左右の上腕部を掴んだ。
たいして力を入れているようにも見えないのに、強烈な圧迫感を感じた。
角を掴んでいた指先の感覚がなくなり、眼窩に突き刺していた指も抜けた。
オーガは立ちあがると、私の腕を握りしめたまま掲げるようにして高々と持ちあげた。
身動きもできずに見下ろす私の視線の先、あちこちいびつに変形していたオーガの首から上が、内側から押し出されるように膨らんで復元されていった。
しぼんで垂れ下がっていた眼球も瑞々しい張りを取り戻して眼窩へと収納されていき、潰れて爆ぜていた鼻梁は額からまっすぐ伸びる繊細なラインを取り戻していた。
オーガは一度鼻を啜るような仕草を見せると、すぼめた唇から唾を私の顔に吐きかけた。
私がオーガに与えたダメージは、その唾液に混じったわずかな血液だけだった。
見事な彫像のような肉体には、傷跡ひとつ残っていなかった。
オーガの力こぶが盛りあがるのが見えた。
握りつぶされた腕にさらに鉤爪が食い込んでくる感覚が伝わり、新たな痛みに私は身をよじってもがいた。
オーガが勢いをつけて腕を広げると、私の両腕はあっさりとちぎれた。
両腕をつけ根から失い、右膝から下もなくなった私の身体では落下に対して受け身をとることも立ちあがることもできず、オーガの足元に倒れたまま、ぶざまに見あげることしかできなかった。
オーガは両手に掴んだ私の腕をゆっくりと食っていった。
骨つきのもも肉から肉をこそげ落とすように噛みつき、愉悦に満ちた目を細めながら口を動かした。
二本の腕がすべて口内に消えたとき、オーガの瞳にそれまでとは違う輝きが急速に灯されてゆくのわかった。
「すばらしい。腹の底から無限に魔力が湧いてくる。なんたる超越感。なんたる全能感。くそいまいましいコアの呼び声も消えた。いまのおれなら、神ですら殺せそうだ」
オーガは恍惚とした表情を消すと、地面に横たわる私を見て首をかしげた。
「おまえいったいなんなんだ。ヒトの形をしているが人間ではない。おれたちと同じ魔物のような力を持っているが魔物ではない。そもそも、血も肉も骨もない」
オーガが身をかがめて私の頭を掴んだ。
まるで枯れ枝でも拾いあげるように持ちあげると、私と目線を合わせた。
「だが、美味い。おれがこれまでに食ってきたどんな命よりも、おまえは最高に美味い。最高に力がつく。食ってやる。肉片のひと欠片すら残らず、喰らい尽くしてやる。おまえを食って、おれは最強になる」
オーガが天に向かって大きく口を開け、哄笑した。
その唇がめくれ、歯茎がせりあがるように突き出てくるとすべての牙が無作為に延びだした。
向きも長さもバラバラの鋭い牙が、唾液を滴らせ、節足動物のようにうねうねと蠢いていた。
狂ったような笑い声にまじって、オーガの口から大量の血液が噴出した。
びくりと硬直したオーガが私の身体を取り落とし、口を押さえた。
驚愕に見開いた瞳が苦悶に歪み、弾かれたように全身を海老反りにのけぞらせた。
剥き出しになった腹が、内部から乱打されているように脈打っていた。
意味をなさない絶叫とともに口から溢れていた血液がどす黒い粘液に変わり、やがて触手のようなものが喉の奥から這い出てきた。
先端が赤子の指のように割れているが、関節はどこにもない。
何本もの不気味な腕が内側から牙を掴み、口をこじ開けていた。
同じ腕が大きく膨らんだ腹を引き裂いて飛び出していた。
手に掴んでいた内臓を放り投げると、四肢に絡みつき、オーガの全身を拘束していった。
オーガの喉が大きく膨らみ、ひときわ太く長い腕がゆっくりと伸び上がってきた。
その手に、ゴツゴツとした赤黒い塊を握りしめている。
魔核だった。
体外へと露出した魔核には血管や神経がまとわりつき、それらがぶちぶちと音を立てて切れるたび、真っ赤な鮮血が辺り一面に飛び散った。
何本もの腕が四方から魔核を掴み、指を食いこませた。
ひびの入った魔核を割り砕き、かけらを掴み取っては細かな粒子になるまで握りつぶしていく。
天を仰いだまま白目を剥いて痙攣するオーガに、すでに意識はないようだった。
漆黒の蜘蛛の糸のように長く伸びた腕によって搦めとられたオーガの姿は、まるで黎明の空の下、天を切り裂く光の柱を背景にして晒された磔刑のように見えた。
オーガに絡みついていた腕がさらさらと崩れ、土煙のようにあたりに漂って消えていった。
私は地面に横たわったまま、霧消していく自分の肉体の残滓を眺めていた。
腕と足が復活する気配はなく、体内の魔力が枯渇しているのがわかる。
親方の治療を終えて以来、ほとんど魔力が回復していない。
このまま回復することはないのかもしれない。
魔力が完全に尽きて肉体すら保てなくなったとき、腕や足と同じように、全身が空気中に溶けていくのだろうか。
そのとき、自分の意識はどうなるのだろう。
限りなく希釈され、記憶も感情も薄れ、己が何者なのかもわからなくなって消え去るのだろうか。
あるいはそれこそが自分に訪れる死なのかもしれなかった。
身をよじりながら上半身を起こした。
残った左足だけで立ちあがろうとして、また倒れた。
両腕がなければ身体の平行を保つこともできなかった。
土を舐めた姿勢のまま、顔を上げて前を見た。
ひどく目がかすみ、視野も安定しない。
視線の先、幾ばくの距離もないところに倉庫のゲートがあった。
光の柱によって屋根は吹き飛んでいるはずだが、身の丈の倍はあろうかという巨大なスライド式のその扉は、原形を留めたまま隙間なく閉じられ、内と外を遮断している。
全身がだるい。
横たわっているだけなのに身体が重くてたまらず、思考は鈍って途切れ途切れにしかものを考えられなくなっていた。
ようやくここまで来た。
だがここで止まるわけにはいかない。
あの扉の向こうに行かなくてはならない。
そこにこそ、私の求めてきたものがある。
生きてその場に行かなくてはならない。
私はまだ生きていると伝えなければならない。
ひと目見るだけでいい。
あなたの姿を見るためにここに来た。
会いたい。
もうじきだ。
待っていてくれ。
地面に自分の肉体をこすりつけながら這い進み、長い時間をかけて扉までたどりついた。
壁にもたれかかってなんとか立ちあがり、全身を扉に密着させた。
渾身の力を込めて押した。
踏みしめた足が震え、肉体が限界を越えて千切れる痛みがいたるところから襲ってくる。
かまわず押し続けた。
はじめびくともしなかった扉が軋みはじめ、やがて重い音をたてながらゆっくりと開いていった。
倒れこむようにして倉庫の内部に入った。
立っていることができず、残った右足を杖のようにして膝をついた。
顔をあげてその先にあるものを見たとき、脇腹に衝撃を受けた。
槍の穂先が刺さっていた。
続けて左右から何本もの槍が突き出され、次々と私の身体を貫いていった。
なんの痛みも感じなかった。
視覚が肉体から切り離されたように、私は眼前に広がる光景から目をはなすことができなかった。
立ちのぼる光の柱。
その根元に鎮座する巨大に成長したダンジョンコア。
琥珀のように透き通ったコアの内部には、一糸まとわぬ姿で眠るように閉じこめられたエレノアの姿があった。




