第八章 真相
目が覚めると、涼の顔が間近にあって由弥は驚いた。
片手を付いて起き上がり、思い出した。
きのう僕は泣いたんだっけ。
由弥は額に手を当てた。
ふと動かした足に、何かが触れた。それに視線を落とすと、そこには見覚えのあるタオルケットがあった。自分の身体にかけられていたのだろう。
これは物入れに仕舞っていたはずだ。涼がかけてくれたのだろうか。
多分そうだろう。いつも何故か不機嫌そうな顔をしているが、彼が優しいことはもう分かっていた。笑うと愛嬌がある顔も由弥は好きだった。
会った当初、由弥は涼に何故いつも不機嫌そうな顔をしているのかと聞いたことがあった。その時涼はこれが地顔なのだといった。別に不機嫌でもなんでもないんだと。
涼の寝顔をみながらそんなことを思い出した。
昨日は、泣くつもりなんてなかった。確かにアイツがいることで、イライラしていた。姉さんを好きでも無いくせに、姉さんの心を独り占めにしているアイツの存在で。あんな奴、姉さんと付き合う資格など無いのに。
アイツが僕にしたことを姉さんに打ち明けてやろうと思ったことは何度となくある。
でもそのたびに、姉さんの笑顔が曇るのを想像してしまい、出来なかった。
姉さんはアイツを本気で愛しているのだ。自分ではなくあんな非道な男を。
「んっ」
涼が小さく呻いた。由弥ははっと涼に視線を送る。
「涼?」
涼の瞼が震えて、うっすらと目が開いた。
「あれ? 由弥」
「うん、おはよう」
自分でも驚くほどすんなり笑顔が顔に浮かんだ。
涼もまだ眠気の抜けない顔に笑顔を乗せる。やっぱりこの笑顔は好きだなと由弥は思う。幸せになる笑顔だ。
「おはよう、由弥。イライラはもう収まったみたいだな」
出し抜けにそういわれ、由弥は少し戸惑った。その間に涼は起き上がり、机を背もたれ代わりにして座った。由弥は口を開いた。
「恥ずかしいな。三十も年下の人に心配かけてるんだよな。悪かった。それとありがとう」
「何言ってんだよ。今は同じ年だろう。変なこと気にすんなよ。それに礼を言われるようなことしてない」
「でも、肩かしてくれただろう?」
「まあ、そうだけど」
「これもかけてくれたし」
そう言って由弥は足元に落ちていたタオルケットを掴んで軽く持ち上げた。
「ああ、それ、押入れに入っていたのを勝手に引っ張り出したんだけど、よかったか?」
「悪いわけ無いじゃないか」
「だったらいいけど」
そのあと少し沈黙があった。昨日月が覗いていた窓から、今は朝の光が存分に部屋に入ってくる。
開いた窓からは通りを行く車の音が聞えてきた。
鳥の声も聞こえる。すずめかな? と由弥は思う。何処からか良い匂いが漂ってきた。味噌汁と、焼き魚だろうか。
「何か腹へった」
唐突に涼が言った。由弥はそんな涼を見る。そして笑った。
「僕もそう思ってたとこ」
そして今度は二人して目を合わせて笑った。
その時思った。
僕はもう一人じゃないんだ。孤独に悩まなくたって良い。こうやって同じ思いを共有できる人に出会えた。たとえそれがもうすぐ離れなければならない相手だとしても。それでもきっと前ほどの孤独を感じなくて済むだろう。
目の前にいるこの人に、恥じないように生きなければ。そんな風に思える。
だから決めた。今日、アイツと向き合うことにする。逃げてばかりの自分にさよならを告げるために。
どうやら洋輔は昨日この家に泊まっていたようだ。
当たり前の様に、由布子に朝食を作らせ、当たり前の様に食卓の前に座っていた。
そして笑顔で由弥におはようといった。
本当は挨拶など返したくはなかった。だが、ここには姉も、涼もいる。変に思われたくなかった。だから挨拶を返して、同じ食卓についたのだ。
由布子は朝食の席で、洋輔が賞を取ったという小説本を出してきた。
それは由弥が想像していた通りの題名だった。
ペンネームは夏木涼。涼の名と同じ字を書く。名前の読みがリョウとスズムの違いだけ。
「あれ? このペンネーム……」
「知ってるかい?」
訝しむような声音で呟いた涼の言葉に、洋輔がそう返した。由弥は二人に目をやった。
「ああ、まあ、知ってるっつーか」
そう言って涼は由弥を見た。目が合う。
そういえば、涼には自分のペンネームが夏木涼だと言ったことがある。初めて涼と会った日に。嬉しくてついそう口走っていた。
「俺の名前と同じ字だからちょっとビックリしたんです」
涼はすぐに目を由弥から逸らしてそう言った。
「まあ。そうなの? 夏木さんて洋輔さんのペンネームと同じ字を書くの?」
心底驚いたというように、箸を持った手を止めて、由布子が涼に聞き返している。
「はい。僕も驚きましたよ」
そう言って涼は由布子ではなく、由弥にまた視線を送る。由弥は目を逸らした。
何か感づいているのかも知れないと、由弥は思った。涼は何か感づいている。彼はとても鋭いところがあるから……。
「どうかしたの? 由弥さん。あなた昨日からおかしいわよ」
思考に突入していた由弥に由布子がいきなり声を掛けてきた。
気が付くと、涼や洋輔までが由弥を見ていた。
「な、何でもないよ。ちょっと疲れているだけ。涼が来てからはしゃぎすぎたのかも」
その答えに、由布子は噴出した。涼は変な顔をし、洋輔は口元だけで笑っていた。
「由弥君は夏木君のこと本当に好きなんだな」
穏やかな声音で洋輔が由弥に言った。由弥は洋輔を驚いて見る。
そして軽く息を飲んだ。洋輔の口元は笑っているのに、目は笑っていなかった。鋭い眼光が由弥を射る。その時、涼が抗議の声を洋輔に上げた。
「変な風に言わないでくださいよ。志藤さん。今のじゃ俺と由弥、倒錯入っているみたいじゃないですか」
「本当。ちょっと私もそう思っちゃった」
由布子が言って笑った。
「そうか? 俺は思ったままを言っただけだよ、なあ、由弥君」
「……そうですね」
「ご馳走様です」
由弥の小さな返事をかき消すほどの大声で、涼がそう言った。驚いて由弥が涼を見ると、涼は由弥にだけ分かるように、にっと笑った。
見ると確かに涼の前にある皿は見事に空になっている。
「由弥。早くお前も食えよ。今日も美菜子ちゃんのところ行くんだろう」
そんな話しはした覚えはなかったが、由弥は涼の言うとおりに、急いで食事を終えた。
早くこの場から去りたくてしょうがなかったのも事実なのだ。
食事を終え、慌てて出て行こうとする由弥と涼に、由布子が声を掛けた。
「ああ、ねえ、今日から私出かけるから」
「え? 何で」
由布子の声に由弥は振り返って問うた。
「今日から、高校の時の友達と一泊二日で旅行へ行くって言ったでしょう」
そういえば涼が来る前にそんな話しを聞いたことがあるような気もする。
「そうだったっけ」
「そうなのよ。だからその間はどこかで食べてくるか、店屋物を取るかして頂戴ね」
「分かったよ。姉さん」
由弥は姉に頷いて見せた。由布子も頷き返して、由弥から涼に目を転じる。
「夏木さん。由弥さんを頼みます」
「はい。任せてください」
「ちょっと、姉さん。どうして涼に僕を頼むんだよ」
少しムッとして由弥は言った。まるで子ども扱いだ。涼は本当なら自分より三十も年下なのに。
「俺の方が、しっかりしてるからだろう。ね、由布子さん」
しゃあしゃあと、涼はそう言ってのけた。今度ははっきりと由弥はムッとした表情をした。
そんな由弥に、由布子は言った。
「由弥さん。本当のこと言われて、怒るのはみっともないわよ」
その言葉に、涼と洋輔が笑い出した。
由布子もそれを見て笑う。由弥は笑う気になれず、そんな三人に背を向けて、さっさと部屋を出て行った。
慌てたように涼が由弥の名を呼んでいるのが背後から聞える。
由弥は立ち止まって涼が傍らに来るのを待つ。そして二人で家を出た。すぐにどこからか金木犀の匂いが漂ってきた。いい匂いだ。空は青空。気持ちのいい日だった。由弥は美菜子の家の方角に足を進めた。
「これから、どうする」
突然、涼が由弥に聞いた。由弥は訝しげな表情を作った。
「え? さっき美菜子の家に行くって言わなかったか」
「ああ、あれ嘘。昨日美菜子ちゃん、明日は彼氏とデートって言ってただろう」
忘れたのか? と聞かれて、由弥は思い出した。そういえばそんなことを言っていた気がする。
「じゃあ、何でさっき」
由弥が問いかけると、涼は指先で頬を掻きながら答える。
「だって、由弥あそこから早く出たそうな顔してたし……」
良く見てるなと、由弥は思った。どうして涼はこんなに何でも分かるのだろう。
由弥に父親の話をしてくれた時、自分は弱い人間だといっていた。だが、由弥には涼が弱い人間だとは思えなかった。自分よりもはるかに強い、とても強い人間に見えた。
「なんだよ、じっと見て」
由弥が涼を凝視していることに気づいたのだろう。涼はそう聞いてきた。由弥はすぐに目を逸らした。
「何でも、無いよ」
「そう? ならいいけど。行くところもないし、暫く散歩でもしようか」
涼の提案に由弥は頷いて答えた。
会話は余りなく、二人は並んで歩いた。
由弥はたまに涼を盗み見た。
僕は彼の様に強くなれるだろうか。もう逃げたくなかった。決着をつけなければならないと思っていた。
そしてそれは今日しかないとも。
姉が留守をする今日しかないと……
深夜一時。
姉は予告通り家には帰ってこなかった。涼も部屋で眠っているのを確認した。由弥は今、父の書斎にいる。ここが一番涼のいる部屋から遠い部屋だったからだ。
そして由弥の目の前に、由弥が憎んでいるといっていい相手がいた。今は本棚の影で相手のシルエットしか見えないが。
「こんな時間に呼び出して、どうしたんだ? 由弥」
低い声が由弥を呼んだ。そう、由弥が彼を呼び出したのだ。姉にも涼にも聞かれたくない話があったから。
部屋には電気もつけてはいない。この薄暗い部屋では、大きな窓から入る月明かりだけがたよりだ。だが、それでいいのだ。相手の顔をはっきり見ることが出来たら、自分はすくんで話など出来ないと思ったから。
「話とは何だ? 俺も暇じゃないんでね。用が無いなら失礼するよ」
そう言って動き出そうとした相手に、由弥は待ったをかけた。
「待てよ」
「何だ? 由弥。お前震えてるんじゃないか?」
あざ笑うかのように低い声で言われた。
「それとも、前みたいに抱いて欲しいのか?」
そう言って一歩踏み出した大きなシルエットは、本棚の影を出て、月明かりの下に姿を晒す。志藤洋輔は笑っていた。ひどく酷薄に。
「ふざけるな。……近寄るなっ」
由弥はつい、大声を上げていた。怖かった。あの時の恐怖が今になって思い出された。身体が震える。でも、言わなければならない。この男から開放されるために。
「僕は、もう、あんたの言いなりにはならない」
「何を言っているんだ? 由弥」
「あんたのゴーストライターなんてもう真っ平だ」
「おい、由弥」
怒気を含んだ声音と共に、頬が鳴った。殴られたのだと自覚したのは、殴られた反動で床に手を付いてから。
「いきなり、どうしたって言うんだ」
床についていた両手を、洋輔につかまれた。
手首を痛いほど締め付けられて、由弥は顔を苦痛に歪めた。
「い、痛い……」
「聞いてるんだよ、由弥」
「嫌になっただけ……だっ、あんたの言いなりになることに嫌気が差したんだ……」
「ふざけるなよ、由弥。お前、俺から逃れられるとでも思っているのか?」
耳元で冷たい声音で言われて、鳥肌が立つ。
由弥はつかまれている両手を動かして苦痛から逃れようともがいた。
だが力の差は歴然としていた。由弥の両手は床に縫いとめられる様に、きつく抑えられている。
「それとも、最愛の姉さんを悲しみのどん底に突き落としたいか?」
由弥は目を見張った。姉の幸せそうな顔が頭に浮かんだ。
二年前、この男に乱暴されたときもそう言って脅されたのだと思い出した。だが、これ以上、洋輔の言いなりになるのも、姉を騙し続けるのも嫌だった。だから言った。
「あんたみたいな男と結婚するよりはましだよ」
睨み付けて言った瞬間もう一度頬がなった。痛みを感じる前に、身体を床に押し付けられた。
洋輔に組み伏せられた格好になった由弥は、二年前の情景を思い出して、吐き気がこみ上げてきた。
「俺たちは今まで上手くやってきただろう? 由弥。何故急にそんなこと言い出したんだ」
洋輔は由弥に顔を近づけ、言った。その顔は怒りに歪んでいる。
「……」
「アイツの影響か?」
由弥が黙っていると、洋輔はいきなりそう言った。意味が掴めず、こんな状況にも関わらず、聞き返していた。
「え?」
「アイツだろう、夏木涼。お前、あのペンネームはあの男から取ったんだろう?」
半ば怒鳴るように洋輔が言った。
由弥は反射的に答えていた。
「ち、違う」
「何が違う? 偶然なんてあるわけが無いだろう。お前アイツのことが好きなのか? アイツに惚れてるんだろう」
由弥は自分が眉を寄せて、訝しい表情を作っているのを自覚した。洋輔は一体何を言い出すのか。涼とは六日前に会ったばかりで、でも、友人で、しかも男同士ではないか。好きとか惚れているとかいう次元の問題ではない。
真上にある洋輔の顔がより一層歪んだ。それは冷笑。
「初恋は実の姉、次は男か……お前もとことんバカだな」
洋輔はそう言うと、身体を由弥に押しつける。困惑する由弥の首筋に、唇を這わせてきた。
「や、やめろよっ」
「もう一度、思い出させてやる。お前は俺の奴隷だ」
由弥は必死に、抵抗した。だが、洋輔はいつ間にか、シャツの隙間から、腕を入れ、身体を撫で回し始める。
気持ちが悪い、鳥肌が立つ。由弥は洋輔が何をしようとしているのか知っている。二年前にもされたから。
由弥は必死で腕を伸ばした。
近くで硬い物が手に触れた。それを掴んで引き寄せ、思いっきり洋輔の頭にぶつけた。
それは本だった。いつの間にか床に落ちていたのだろう。重い本を頭にたたきつけられ、さすがに洋輔も呻いている。
その隙を見逃さず、由弥は洋輔の下から抜け出し、立ち上がるとドアへと向かって手を伸ばす。
ドアノブを掴んで捻ったとき、足首を掴まれた。
由弥は必死で、ドアが開く様に、ノブを捻ったまま外側へ押した。
それとほぼ同時に、由弥の身体は床を滑った。つかまれた足首を思い切り引かれたのだ。
胸を打ったが、痛いなどといっている暇は無い。
由弥の身体はそのままずるずると床を滑った。
「俺から逃げようなんて許さない」
由弥に馬乗りになった洋輔が言った。
「お前も、由布子も俺のもんだ」
押さえつけられた体はびくともしない。逃げられない。どんなに嫌でも、どんなにもがいても、逃げることなど出来ないのか?
由弥は絶望を見た気がした。
洋輔の手がシャツに伸び、シャツを引き裂いた。ボタンが幾つか宙を飛んだのを見た。
「相変わらず醜い身体だな」
洋輔の目は胸元に落ちていた。そこには手術後の大きな傷跡があった。
「いやだ、離せ、助けて」
「黙れ」
怒気を含んだ声で洋輔が怒鳴る。それでも、由弥は黙らなかった。叫んで助けを求めた。
「助けて、涼、助けて」
頭の中には涼の名前しか浮かんでこなかった。
今更ながら、涼のいる部屋から一番遠い部屋にしたことを後悔した。
ドアを開けていても、この声が涼の眠る部屋まで届くとは思えなかったが、由弥は洋輔に口を塞がれるまで声を限りに叫んだ。