第七章 賞をとった小説
美菜子の家を出たのは午後六時二分前だった。結局あの後、美菜子の話を由弥には聞かせなかった。
取り留めの無い話ばかりしていた気がする。
家に着くと案の定洋輔はまだいた。
「お帰り。遅かったじゃないの。どこへ行ってたの」
由布子が怒った顔で彼らを迎えた。涼はスイマセンと誤り、由弥は美菜子の所へ行っていたと言った。
「それならそうと、連絡くれればいいのに。由弥さんがまた倒れたんじゃないかと心配したじゃない」
その言葉に、由弥は声を荒げた。
「僕はもう、完治したよ」
涼は驚いて由弥を見る。由弥が怒鳴ったところなんて初めてみた。だが当の由弥はしまったと言う風に顔を顰め、声を落として姉を見る。
「ゴメン姉さん……」
「謝ることなんてないのよ。ごめんなさい。姉さんこそ、子ども扱いして……」
気まずい雰囲気が漂いだす。涼はどうしたものかと二人を見比べた。
「由布子? 鍋が噴いているよ。お帰り、由弥君、夏木君」
あら大変と、由布子は台所へ走って行く。入れ替わりに現れた声の主は見なくてもわかる。洋輔だ。
「二人とも早く上がったらどうだい? 今日はご馳走だよ」
「ああ、そうですね。でも、なんでご馳走なんですか?」
由弥が答えないので涼がそう言うと、洋輔は一度由弥を見て、口を開いた。
「それは、後で。食事の時にでも話すよ」
そう言ってどこが含みのある笑顔で、涼ではなく由弥を見る。由弥はすぐにそんな洋輔の視線を避けるように顔を逸らした。
前から思っていたが、由弥は洋輔を避けているようだ。何故だろう? もしかすると洋輔は由弥に恨まれるようなことをすでにしているのだろうか?
だがそんな疑問を深く考える前に、台所から由布子の呼ぶ声が聞こえた。
「みんなーご飯よー」
洋輔は、はーいと由布子の声に答えて、台所へ向かって歩き出す。涼もその後を追うように歩き出した。だが、由弥がまだ玄関につっ立ったままなのに気づき振り返る。
「由弥?」
名前を呼ぶとはっとしたように、由弥は顔を上げた。
「ああ、ゴメン何でもない」
そう言って、由弥は靴を脱いで上がってきた。二人はそのまま居間へと入って行った。
天ぷらが山盛りになった大皿が、食卓の真ん中に置かれている。それ以外にもかぼちゃの煮つけやほうれん草の胡麻和えなどが並んでいた。
四人はまだ熱々のそれらを暫くは無言で食べていた。
そのうち由布子が話しだし、それに洋輔が答える。途中で涼も会話に加わり、場が盛り上がっていく。
「でもどうして、今日はご馳走何ですか?」
涼がさっき聞いて返事をもらえなかった質問をもう一度口にする。
今度はそれに由布子が嬉しそうに答えた。
「実はね。洋輔さんの小説が賞をもらえることになったのよ」
「本当? 志藤さん」
心底驚いた様に、声を上げたのは由弥だった。その由弥に視線を合わせ、洋輔は言った。
「ああ、君のお蔭でね」
洋輔はゆっくりと微笑んだ。どこか含みのあるその笑顔。
「……」
じっと洋輔に見つめられ、由弥は言葉を失った様に黙り込んだ。
「ねえ、洋輔さん。由弥さんのお蔭ってどういう意味?」
由布子が屈託なく洋輔に尋ねる。洋輔は笑顔で由布子に視線を動かした。
「まあ、色々。彼にもアドバイスを貰っていたからね」
「そうなの? 由弥さん。私全然知らなかったわ」
由布子が由弥に視線を向けた。由弥は引きつったような笑顔を作った。
「まあ、そうかな……」
「ねえ、志藤さん。志藤さんって翻訳家だって聞いてたんだけど」
涼が口を開いた。話を変えたかったのだ。由弥が辛そうな顔をしていたから。
「ああ、そうなんだ。だけど、他人の話を訳すだけなのはつまらなくてね。自分でも書いてみたくなったんだ」
「へえ。それで賞が取れるってのは、やっぱ才能なのかな」
涼の言葉に反応したのは、洋輔ではなく由布子だった。
「そうでしょう。そうなのよ。すごいのよ」
手放しで褒め始めた由布子の言葉を途中で遮ったのは、由弥の立ち上がった音だった。
涼たち三人の目が由弥を見上げた。
「ご馳走様。部屋に戻るよ」
「おい、由弥」
「由弥さん、まだそんなに食べてないじゃないの」
由布子が眉を寄せて、非難の言葉を由弥に吐く。
「お腹空いて無いんだ」
そう言ってリビングを出て行ってしまう。
涼はそんな由弥が気にかかり、行儀悪いとは思ったがご飯を思いっきりかきこんで飲み下した。
「ご馳走様です。俺も部屋に戻ります」
そう言って何か言われる前にさっさと立ち上がって部屋を出た。
そのまま由弥の部屋のドアの前に立つと、ノックする。
返事が返る前にドアを開けた。
「由弥、どうしたんだよ急に」
由弥は机に向って座っていた。涼に背を向けた格好になる。だから由弥の表情は見えない。
部屋には明かりがついていない。この部屋の光源は窓から覗く月明かりだけ。
「何でもない」
由弥は涼に背を向けたまま言った。
「でも……」
「何でもないから出ていってくれ」
由弥は立ち上がってそう怒鳴った。振り向いた顔が痛みに歪んでいる様に見える。
「そんな風には見えない」
静かな涼の言葉に、由弥は聞きかえす。
「え?」
「何にも無いようには全然見えないっつったの」
半ば怒鳴る様に涼は言った。由弥は驚いた様に目を見開いた。涼を凝視する。涼もそんな由弥を見返した。
これは根競べだと涼は思った。何故由弥が怒っているのか。何故由弥は辛そうに顔をゆがめているのか。
涼には分からない。
知りたいと思っていた。
だから目を逸らさない。
逸らさない。
リビングの方から由布子のはしゃいだ笑い声が小さく聞えて来た。
この様子なら、さっきの由弥の怒鳴り声に気づいてはいないのだろう。
視線を先に逸らしたのは由弥だった。由弥は顔を横向けた。そんな由弥に涼は話し掛ける。出来るだけ穏やかに聞えるように抑えた声音で。
「どうしたんだ?」
「……」
「話してくれなきゃ分からない」
涼は顔を背け続ける由弥に近づいた。手を出せばすぐに触れられるほどに。
「由弥、なあ……」
「……」
涼は由弥の頬に両手で触れて、顔をこちらに向かせた。
「お前が情緒不安定なのってさ。あの志藤洋輔が原因?」
涼の言葉は確信をついたようだった。涼の掌に包まれた由弥の顔が、そう物語っていた。
「あいつとお前の間で何かあったのか」
つい声を荒げてそう聞いていた。由香の父親の顔が浮かんで、志藤洋輔の顔と重なった。
あいつは俺に復讐されると恐れていた。あいつは、志藤洋輔は既に、由弥に何かしているのかも知れない。
由弥はそれに傷ついているのだろうか。
何もかも憶測でしかない。今目の前にいる由弥は何も話そうとしないのだから。
由弥の瞳から、一筋の涙がこぼれた。
それを目にして、涼は我に返った。
「由弥?」
声を掛けた。由弥は涼の眼差しから逃れるように、目を伏せた。
「話せない……、話したくない。涼には知られたくない。絶対に……、知られたくない」
最初は小さい声で発された言葉は、だんだんと大きな悲鳴のような声に変わった。
涼は思わずそんな由弥を抱きしめていた。
由弥の頭に右手を添えて、由弥の顔を肩口に押し付けた。
由弥は本格的に泣き出した。荒々しい泣き声は上げなかった。声を殺して、すすり泣いていた。
涼はそんな由弥をより一層強い力で抱きしめた。
それくらいしか、自分に出来ることはなかった。ただ、俺はお前のそばにいるよ。そう教えてやりたかった。
涼は由弥が泣き止むまでの長い時間、ずっと由弥を抱きしめ続けた。