第六章 気まずい二人
昨日と変わらず空は晴れていた。だがどうにも涼の心は晴れない。
由香の父親にそっくりな、由布子のフィアンセのことも気にはなった。だが涼の心を占めているのは昨日自分がとった行動について。
なんであんなことしちゃたんだろうな。
後悔が頭の中をグルグルと巡る。由弥は気にしていないようだったが、涼はダメだった。由弥と顔を合わせ辛い。
だから今もあてがわれた部屋で寝転がっていた。由弥と顔をあわせたのは朝食を取ったときだけ。
由布子は昨日由弥が言ったとおり、何処かへ泊まったらしい。まだ家に帰っていなかった。
二人きりの朝食は気まずくて仕方がなかった。
涼は殆ど由弥と目を合わせることなく、まだ眠いからと部屋へ戻った。
このままではいけない。気にしているのは涼だけで、由弥は全く気にしたそぶりも見せていないではないか。
それに、考えなければならないのは、このことではなく、由布子のフィアンセの事のはずだ。
そこまで考えて、涼は寝返りを打った。
「ただいまー」
涼の耳に微かに届いた声は、由布子のものだった。
今頃帰ってきたらしい。時刻は午前十一時を回っている。
「由弥さん。夏木さん。いないの?」
また由布子の声が聞こえ、涼は起き上がった。ここで彼女を出迎えないのも悪いと思ったのだ。
涼が部屋を出ると、ちょうど由弥も部屋を出てきたところだった。
「な? 朝帰りだっただろう」
目が合うと、由弥は笑って言った。涼はその笑顔にドキリとする。
「そ、そうだな」
そう言った涼を由弥は一瞬不審そうに見て、廊下を歩き出す。涼もその後を付いていく。
居間まで来ると、涼は由布子とそのフィアンセがいた。
「お帰り姉さん」
由弥が由布子に言って、由布子は照れたような笑顔を見せる。
「ただいま。洋輔さん連れてきちゃった」
由布子がそう言って、傍らに立っていた洋輔の腕を掴む。
洋輔は人の良い笑みを浮かべ、由弥と涼を見る。
「お邪魔します」
涼は洋輔の言葉に頭を下げる。どうしてだろう。どうしてもこの男の笑顔を胡散臭く感じてしまう。涼に偏見があるからだろうか。
「姉さん、父さんと母さん、出張長引くって電話があった。後二週間は海外だって」
「まあ、そうなの?」
由弥は洋輔には目もくれず、由布子をみてそう告げた。
その様子に、涼は少し不審に思った。だが、それ以上に、由弥の言葉に驚いた。
「えー、それじゃあ、俺が帰る前に会えないのか」
一緒にいたのは二日くらいだが、お世話になった分も涼はお礼を言いたかったのだ。
涼の大声に、由弥は顔を顰めた。
「何? 朝も言ったけど。涼殆ど、上の空だったもんな」
「ああ、ゴメン」
涼は素直に謝った。由弥は別にいいけどと言って、また由布子に視線を戻した。
「で、姉さん。昨日はどこに行ってたの?」
「ええ? 色々よ。ねぇ、洋輔さん」
「ああ、そうだね。由布子」
洋輔は由布子の顔を見て微笑んでいる。こうやって見ると、やっぱり普通の男だ。恋をした普通の男。俺や由弥に何かするっていうのも、思い違いかも知れない。そうであってくれたらいいのに、と涼は思う。
でも、俺はこの人の最後を知っているんだと、ふとそう思って涼は嫌な気分を覚えた。
「由布子、腹減ったな。何か作ってくれる?」
洋輔が由布子に耳を近づけ、囁く声が聞こえる。由布子はそれに嬉しそうに笑って答えた。
「はいはい。いいわよ。何食べたい?」
由布子の問いに、洋輔は笑顔で答えた。
「君の作ったものなら何でも」
よくもまあ、気障な台詞が言えるものだ。と、涼は思う。このラブラブな二人を見ていられなくて、逸らした視線が由弥とぶつかる。
「俺たちお邪魔かな」
涼の言葉に、由弥は頷いた。
「姉さん。僕たち近くの食堂へ行くから俺たちの分はいいよ」
由弥がそう言った。姉が男といちゃつくのを見ていられないのだろう。だが、由布子は由弥の気持ちに全く気づいていないようだ。
「どうして? 私が作る料理が気に入らないわけ?」
「違うよ、姉さん」
「まあまあ、由布子。由弥君は気を利かせてくれたんだよ。なあ、由弥君」
洋輔がそう言って、由弥に同意を求める。由弥は洋輔から思わずと言う風に顔を背けた。
心なしか顔が青ざめている様に見えるのは気のせいだろうか。
「涼、行こう」
結局由弥は洋輔に返事を返さず、涼の腕をひっぱって玄関の方向へ歩き出す。
「あ、え? あの、行って来ます」
戸惑いながらも、何とか呆気に取られたような顔をしている由布子たちに言った。
そのまま引きずられるように、涼は玄関まで来た。
「おい、由弥。どうしたんだよ」
涼の声に、我に返ったのか、由弥は涼の腕を離した。
「ゴメン」
謝って涼の顔から目を逸らす。
「いや、別に謝らなくてもいいけど、やっぱ嫌なもん? 大好きなお姉さんが男といちゃついてるの」
「別に、いいだろそんなこと。行こう。食堂」
「あ? ああ」
涼は由弥の後について玄関を出る。由布子たちの出現で、涼の由弥に対する気まずさが消えたことに気づくのは少し後だった。
近くの大滝食堂で昼食をとった後、涼たちは暫くぶらぶらと散歩していた。そろそろ帰ろうかと家の方向へ足を向けたとき、後ろから二人に声がかけられた。
「由弥、夏木さん」
二人が振り返った先にいたのは、美菜子だった。今日は淡いピンク色のシャツに白いスカートをはいている。長い髪は前とおなじようにポニーテールにしていた。
「男二人でデート? 仲が良いのね」
二人の前に走り寄ってきた美菜子は開口一番にそう言った。涼は面食らう。昨日の今日でそんなこと言われたら焦ってしまう。いや、焦る必要なんて無いのかも知れないが。
「美菜子、冗談言うな。涼に失礼だろう」
焦っている涼に気づいているのか、いないのか。由弥は美菜子にそう言った。美菜子は素直にゴメンなさいと謝る。
どうしてこんなところにいるのかと聞かれ、涼たちは今由布子のフィアンセが家に来ていて居づらいのだと語った。
「はー、そうなの。じゃあ、家に来る? 今誰も居なくて暇だったのよ。彼も今日は仕事だしね」
そう言ってにっこり微笑まれて、涼も由弥も彼女の言葉に甘えることにした。
美菜子の家は由弥の家の二件先だった。こちらは本格的な日本家屋で、洋室は無いのだそうだ。
「私は洋室憧れるんだけどね。かわいいじゃない?」
美菜子はそう言って笑った。
出されたお茶を飲みながら、三人は他愛も無い話で盛り上がる。
暫くして由弥がお手洗いといって部屋を出て行く。
涼は手持ち無沙汰を覚え、残り少なくなった茶を啜った。
「ねぇ、夏木さん。由弥と何かあった?」
疑わしそうな美菜子の目と視線がぶつかった。驚いた。彼女はかなり鋭い。だが、ここで認めるわけにもいかない。
「別に何もないけど?」
そう答えると、涼はぎこちなく笑みを口元に乗せた。
「ふーん。そう。ところで、聞いた? 由弥が私を振った理由」
信じていない顔だったが、彼女はこれ以上聞き出せないと思ったのか、話を変えた。
涼は頷いた。美菜子はそう、といって目を伏せた。
「可愛そうでしょ? 由弥」
「え? ああ、かわいそうって言えばそうかな」
「だったら、慰めてやってね。由弥を」
「?」
美菜子が何を言いたいのか分らず、涼は美菜子を見た。美菜子は真面目な顔で、涼を見つめてくる。
「夏木さんって、カッコいいし、由弥とはお似合いじゃないかと勝手に思ってるんだけど。見掛けより優しそうだし。由弥もずっと一人じゃかわいそうだし」
何を言い出すんだ。と涼は美菜子の考えが読めない。美菜子は苦しそうに少し笑った。
「だって、由弥は、子供が出来ることを恐れてる。だったら、絶対に子供が出来ない人と付き合えればいいと思ったの。それがあなたなら、私も認められるかなと思って」
涼は呆れて美菜子を見た。物凄いことを考えるな、と思う。こんな可愛い顔して、男同士で付き合えなんて……。
「それとも、夏木さんは由弥の事嫌い? どうしても、由弥のことそんな風に見れない?」
涼の沈黙をなんと思ったのか、美菜子は涼に身を乗り出して聞いてくる。涼は戸惑った。俺は由弥のことをどう考えているのだろう? 気の合う奴だとは思っていた。今まで付き合ってきた友人の誰よりも、会ってそんなに期間は経っていないのに、まるで昔からの親友のような気がしていた。
でも、昨日。俺はあいつの唇に触れた。今でも何故自分がそんなことをしてしまったのか分からない。
家の奥で、ドアが閉まる音を聞いた。由弥がトイレから出てきたのだろう。
涼は思考を中断して、まだ身を乗り出して、涼の答えを待っている美菜子に言った。
「あのさ、まず、由弥の気持ちがあって初めて成り立つ話だろう」
涼の言葉に美菜子はあっと声を上げた。
「本当だわ。忘れてた。私ってば自分の考えが一番正しいと思っちゃうところがあるから、そんなことちっとも考えてなかったわ」
そう言って、美菜子はからからと笑い出した。つられて涼も笑う。そこに襖を開けて由弥が入ってきた。
「何? 楽しそうに笑って。何の話?」
由弥の問いに、美菜子は笑いながら答えようとする。涼は慌てて、そんな美菜子を遮った。
「いや、別に。お前が遅いから、大のほうかなって言ってた所」
つい下品な言葉を口走った涼に、由弥は不快な顔を向けてくる。
「違うよ、バカ」
咄嗟に付いた嘘が可笑しかったのか、美菜子は本格的に笑い出してしまった。
「ちょっと、美菜子、何がそんなに可笑しいんだよ」
由弥が不機嫌な声を出したが、美菜子の笑いは止まらない。そんな美菜子を見ているうちに、涼も由弥も何だか笑いたくなって笑った。
そしてそれは暫く続いた。