第五章 海辺にて
午後五時過ぎに家を出て、六時過ぎに目的のレストランに着く。そこで食事をとった後、由弥のまだドライブしたりないという言葉で、近場の海辺まで行くことにした。
午後八時近くに目的地に着いた二人は、車を路上に停め、砂浜に下りていった。
砂浜には彼ら以外に人の姿は無い。夏でもないのだから当たり前かもしれないが。
今日は晴れていたため、月明かりで街灯がなくてもそこそこ明るい。
涼は空を見上げた。星々が瞬き、綺麗な夜空だった。だが、春とは言っても、さすがに海風は冷たい。
「ちょっと寒いかもな」
涼が傍らにいる由弥に声を掛けた。
「そう? 僕はちょうどいい」
そう言って、由弥は砂浜に腰を下す。涼も一瞬躊躇したが、隣に腰を下した。
二人は暫く静かな暗い海を見つめていた。
最初に口を開いたのは涼だった。
「由弥、俺、お前に聞きたいことがあるんだけど」
「何?」
「なあ、どうして、お前美菜子さん振ったんだ?」
由弥は、驚いたように目を見開く。
「どうして、そんなこと……、ああ、美菜子か」
「美菜子さんはお前に聞けって言ってたぞ」
そう言うと、由弥は暫く黙った。涼も由弥が口を開くまで待っていたので、辺りは波の音だけが響いている。
「僕が昔、病気がちだったって前言ったよな」
由弥が静かに口を開いた。視線は下を向いている。手持ち無沙汰なのか由弥は指で砂浜の砂を持ち上げて、さらさらとその砂を落とした。
涼はそんな由弥を唯見つめていた。
「僕の病気って、心臓病なんだよね」
「心臓病? でも、そんな風には全然……」
見えないと言おうとしたが、由弥の言葉に遮られた。
「ああ、一昨年手術してね、一応完治した」
涼はほっと胸を撫で下ろす。気づかない間に、身体が緊張していたようだ。驚いていた。まさかそんな大病だとは思っていなかった。
「でも、それと、美菜子さんとどういう関係があるんだ?」
涼の問いに、由弥は苦笑を返す。
「美菜子は僕に何ていったと思う? あなたの子供が欲しいって言ったんだ」
涼は一瞬絶句した。美菜子の可愛らしい顔を思い出す。
「それは、また、大胆な」
涼の反応に、由弥は乾いた笑いを漏らす。
「はは、まあね。僕は美菜子に、結婚は出来ない、する気は無いって言ったんだ」
「何で?」
「いつ、再発するか分からないからだよ。それに俺の病気は遺伝するかもしれない」
あっと涼は声を漏らした。由弥は辛そうに眉を寄せた。
「それで、断ったのか……」
由弥は首を振った。
「それだけじゃない。僕には美菜子を友人以上には思えなかったっていうのもある」
そのつけたしたように言われた言葉が真実でないのではないかと、涼は思う。
だが、涼にはかける言葉が見つからなかった。両親に愛されて育った由弥は辛い思いなんてしたことがないのではないか、なんて勝手に思いこんでいた。
黙ってしまった涼に、由弥はことさら明るく声を掛けた。
「ちょっと、涼。黙るなよ」
「悪い」
涼は謝った。由弥はまた苦笑する。
「なあ、僕も一つ聞きたい事があったんだけど」
突然聞かれて、涼は顔を向けた。一体何を俺に聞きたいと言うのだろう。そう思って、由弥の言葉を待っていると、由弥は口を開いた。
「涼がこっちへ来る時、鏡の向こうから声が聞こえたって言ったの覚えてるか?」
「あ、ああ。そういえば」
涼は頷いた。由弥は続ける。
「あの時涼は親父のいない世界に行きたいって言ってただろう? それが気になってた。どうしてなんだろうって思って」
ザザンと波が鳴った。涼は由弥の顔を凝視した。
「聞えてたのか」
由弥は決まり悪そうに頷く。
「そうか。俺も由弥に聞いたしな、話してもいいか」
涼は覚悟を決めた。今まで誰にも話していなかった心の内を口にしようと思った。
「俺、父親と仲が悪いんだ」
「うん」
静かに話し始めた涼に、由弥が相槌を打った。それに勇気付けられ、涼は続きを口にした。
「そうなったのは、俺の母親が俺と父を置いて、男と逃げた時からだったと思う」
「……駆け落ちしたってこと?」
はっきりと口にした由弥に、涼は頷く。
「そう、それからオヤジは俺に辛くあたるようになった。事あるごとにオヤジは、お前はあの女の子供だからって、俺を蔑んだ。暴力も振るわれた。俺は母親似だったし、オヤジはムカついてたんだと思う」
「だからって、息子にそんなこと……」
由弥はそう言って口をつぐんだ。かける言葉が見つからないとでも言うように。
きっと由弥は思ってもいなかったのだろう。世の中に子供を嫌う親がいるなんてことを。
由弥の両親はとても優しい。
「あの時もさ、オヤジと遣り合って、それで、オヤジから逃げたい、親父のいない世界に行きたいって思ったんだ」
「それを、僕が耳にしたわけだ」
「ああ。そうだな」
遠くの車道に車が通った音がかすかに聞こえた。車のヘッドライトの明かりだろうか、それが一瞬こちらに届き、すぐに通り過ぎた。
「辛かったんだな、涼も」
涼はその言葉に目を見張った。由弥のその言葉が今まで辛く張り詰めていた心にしみこんだ。分かってもらえた。そう思った。だから涼も由弥にこう返した。
「お前もな」
由弥はふっと笑った。次いで座ったまま伸びをする。
「あー、ゴメン。話しが暗くなっちゃったな」
そう言って、由弥はいきなり、砂浜に寝転がった。
「おい、由弥、砂付くぞ」
涼の声に、由弥は答えた。
「いいよ、別に。付いたって」
そう言って起き上がらない由弥に、涼は呆れてため息を吐いた。
いつの間にか由弥は目を瞑っている。
涼は少し由弥に近づいた。波の音が絶え間なく涼の鼓膜を打つ。それ以外はとても静かだ。
近くには人もいない。彼らを見ているのは夜空に瞬く月と星々だけ。
「おい、由弥。寝てるんじゃないだろうな。風邪引くぞ」
声を掛けたが、返事が無い。返ってくるのは規則正しい呼吸音だけ。
涼は訝しみ、由弥のそばまで這って行く。
そして由弥の顔を覗きこんだ。
どうやら、本気で眠りこんでいるらしい。疲れていたのだろうか。
涼が覗き込んだため、由弥の顔に影がかかる。涼は暫く無防備な由弥の寝顔を見つめていた。
初めて会ったときも思ったけど、本当に綺麗な顔だよな。
涼はそう思う。
睫毛長いな。
しげしげと涼は由弥の顔を見つめていた。不意に、涼は由弥の顔に触れたくなった。
涼は砂地に付いていた手を放して、服で掌に付いた砂を落とすと、そっと由弥の頬に手をあてた。
思ったよりも暖かいぬくもりが手の平に伝わって、涼はなぜか鼓動が早くなるのを感じる。
そして次の瞬間。
涼は自分で、思っても見なかった行動をとった。
由弥の近くに寄せていた顔をそのまま下ろし、由弥の唇に自分の唇を押し当てた。
涼が我に返ったのは、由弥の唇が少し震えたから。
涼は慌てて、唇を離して、瞑っていた目をあけた。
その時、涼は身体を起こした由弥と目があった。
由弥は驚いた顔を涼に向けていた。それはそうだろう。驚くに決まっている。
だが、涼もそうとう驚いていた。自分の行動に。
「ビックリした」
涼はそう呟いていた。
それを聞きつけたのか、由弥も口を開く。
「それはこっちの台詞だよ」
「ああ、そうか。悪い」
涼が謝ると、暫く沈黙が二人の間に流れる。
「なあ、二十一世紀では、友達どうしてこういうことするの?」
由弥がそう聞いてくる。
「まさか」
つい、涼は正直に答えてしまった。そうだと肯定していれば、由弥は納得したかも知れないのに。
後悔しても後の祭りだ。由弥は訝しげな表情を作っている。
「じゃあ、何で?」
つっこまれたくなかったのに、由弥はそう聞いてきた。なんと答えるべきだろう? 自分でもどうしてこういうことをしたのか分からないのに。
言葉を捜して黙っていると、由弥の溜息が聞えた。
顔を由弥に向けると、由弥は苦笑したような笑顔を作る。
「まあ、いいや。帰ろうか。そろそろ本気で寒くなってきた。風邪ひきそう」
そう言って立ち上がる。
涼はそんな由弥を座ったまま見上げた。
由弥は涼を見下ろし、手を涼に差し出した。
「帰らないの?」
「いや、帰る」
涼は由弥の差し出した手を取ると立ち上がった。そして由弥の髪や背についていた砂を払ってやる。
由弥に礼を言われて、涼は複雑な気持ちになった。
どうやら、由弥はさっきのことをなかったことにしてくれるらしい。それはとてもありがたかった。
歩き出した由弥の背中を見つめ、涼は安堵の息を吐いた。
そしてゆっくりと、由弥の背中を追った。
そんな二人を月は静かに照らしていた。