第四章 出会い
涼は風呂に入った後、用意された部屋に入り、敷かれてあった布団の上に寝転がった。
そこは由弥の部屋の隣で、空き部屋なのだという。
涼は携帯電話の話で一頻り盛り上がった後のことを、なんとなく思い起こす。
あの後。涼は由布子に呼ばれ、由弥の両親を紹介された。
由弥の母は由弥と良く似た顔立ちだった。品のよさそうな婦人で、着物を着ていた。由弥達姉弟は母親似なのだろう。
由弥の父は少しふっくらとしているが、中々の美丈夫で、年輪を重ねた顔立ちには深みがあり、一見して理知的な印象を受ける。
話し方もユーモアがあり、知性を感じさせる。優しげな雰囲気は姉の由布子に受け継がれているようだった。
その両親とも、突然の訪問者である涼を当然というように歓迎してくれた。
それが少し不思議で、涼は食事の時に尋ねてみたのだ。
すると由弥の父は由弥を見て、言った。
「この子は病気がちだったせいか、ひとりも友達がいなくてね。こうやって家に友達を連れてくるのは初めてなんだよ。それが嬉しくてね」
父の答えに、由弥はやめてくださいと照れたような、それでいて拗ねているような声を出した。
その姿が可笑しくて、由弥以外の全員が笑い出したのだった。
そんなこんなで、涼は家族にも歓迎され、一週間は確実に平和に暮らせることを保障された。
涼は布団の中にもぐりこんで、寝返りを打った。
このままなら、本当に楽しい時がすごせそうだと思う。ただ、由弥が両親と楽しそうに話ているのをどこか、寂しく感じてしまう自分もいるのだ。
涼は一家団欒の食事なんてしたことがない。父はいつも仕事で遅かったし、母はいつも誰かと遊びに出かけていた。子供の頃はいつも一人。兄は二人いたが、年が離れているせいか、ほとんどかまってもらえなかった。
本音を言うと、涼は由弥が羨ましかったのだ。
だからといって、本当に父と食事をしたいとは思わないが。
そんなことを考えているうちに、涼はうとうとし始めていた。そして本格的な眠りに落ちていった。
過去へ来て二日が過ぎ、三日目の朝。涼は由弥の不機嫌な声を聞き、目を覚ました。
遠くから聞えたその声は、どうやら食堂の方角から聞えてくるようだ。
涼は由弥から借りた服を着て、外へ出た。
勝手知ったる他人の家とは正にこのこと。涼は洗面所で歯を磨き、顔を洗う。寝癖を水で直して、洗面所を後にした。
やっとはっきりしてきた頭で、さっきの声は何だったのだろうと首を傾げた。
食堂に顔を出した涼は、イスに腰掛けて食事をしている由弥に声を掛けた。
「お早う」
「ああ、お早う」
だが由弥は返事をしたものの、その顔は不機嫌丸出しといった感じだ。声も何だか刺々しい。
「もう、由弥さん。そんな顔しないで頂戴。仕方が無いでしょう。またいつでもいけるじゃないの」
「お早うございます。由布子さん」
涼が台所から姿を現した由布子に声を掛ける。
顰め面して、由弥に注意していた由布子がこちらを向いて笑顔を作る。
「お早う。夏木さん。良く眠れました?」
「ええ、お蔭様で」
「それは良かったわ」
にっこり笑った由布子の笑顔が、いつもより数倍綺麗に見えて、涼は首を傾げたくなった。
良く見ると、由布子はいつもと違い、少し厚目に化粧しているようだ。それがまた上手いので、彼女の美貌が際立って見える。服装も、いつもの質素なものから、少し派手目のものに変わっていた。
「どこかへ、出かけるんですか」
テーブルの前のイスに腰掛けながら聞くと、由布子はにっこりと笑った。
「ええ、フィアンセと」
その言葉に涼は目を見張った。
「フィアンセって、由布子さん。婚約してたんですか」
由布子はその言葉に、それはもう嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
幸せそうだなと、涼は思った。だから、綺麗に見えたのか。恋する女は綺麗になるという言葉があったなと思い出す。
その時、隣に座って食事をしていた由弥が、不機嫌な声を出した。
「姉さん。今日は一緒に映画を見に行く約束していたのに」
涼は由弥を見た。普段は秀麗な顔に良く笑顔を乗せているのに、今日はやけに不機嫌だ。
「由弥。お前が不機嫌なのって、由布子さんがフィアンセと出かけるからか?」
その言葉に由弥は一瞬目を見開き、次いで顔を赤くして首を振った。
「違う。僕は姉さんが、約束を破るようなことをするから怒っているんだ」
「だから、それは謝っているでしょう。急に決まったんだから」
「断ればいいじゃないか」
言い合いを始めた姉弟を暫く見ていた涼は、いい加減やめさせようと、口を開いた。
「由弥。お前、そのフィアンセに妬いてるんだろう。大好きなお姉さん取られると思って」
由弥の顔を見ながらそう言うと、由弥はより一層顔を赤く染めて、口をパクパクさせる。
絶句しているらしい。どうやら、涼の指摘は的を射ていたようだ。
涼は由布子を見た。由弥に視線を送っていた由布子は涼と目を合わせて、涼と同時に噴出した。
「あはははは、可笑しい。イヤね、由弥さん。あなた小学生の子供じゃないんだから」
「ち、違う、だから僕は……」
「よ、由弥、いい、今更言いつくろったって遅いって」
涼が笑いながら忠告してやると、由弥は押し黙った。
一頻り由布子と二人で笑ったあと、ようやく笑いが収まった頃に、玄関のチャイムが鳴った。
「あ、洋輔さんだわ」
そう言って嬉しそうに玄関の方に駆け出しかけた由布子は、途中で止まってこちらを振り向いた。
「夏木さんにも、紹介したいから一緒に来て」
嬉しそうにそういわれ、涼は苦笑しつつ立ち上がった。
「由弥は行かねぇの?」
「行くよ。挨拶ぐらいはちゃんとするよ」
そう言って由弥も立ち上がった。
玄関へ向かうと、背の高い男の姿が目に映った。
寄り添うように由布子の前に立った男の顔を見て、涼はさっきまでの楽しい気分が一気に吹き飛んだのを感じた。
「マジかよ……」
小さく呟いた涼に気づかず、由布子はフィアンセの男に涼を紹介した。
「夏木涼さん。由弥さんの初めてのお友達よ」
「やめてよ、姉さん」
由弥は先ほどの不機嫌な顔を押し隠しながら、拗ねたような声を出す。
だが涼はそんな由弥の声にも気づかず、男を見つめた目を離せないまま、ようやく掠れたような声を出した。
「は、始めまして」
「こちらこそ。私は志藤洋輔です。でも、驚いたな。由弥君にお友達とは」
その言葉に、由弥は不機嫌を隠さずに声を出した。
「どういう意味ですか。僕に友人が出来るのがそんなに驚くことですか」
不機嫌な声を出した由弥に、洋輔は弁解するような言葉をはいていたが、その言葉も涼の耳には入っていなかった。
涼はただ、洋輔と名乗る男を見つめていた。
似ている。似すぎている。あの人に……。
香田のお父さんに……。
由布子のフィアンセは香田の父にそっくりだった。この間見たときのような皺はないが、理知的な目許も、鼻の形や口の形何もかもが香田の父にそっくりなのだ。
あの自殺した、香田の父親に……。
「夏木君? 私の顔に何か付いているかな?」
聞かれて涼は我に返った。洋輔だけでなく、由布子や由弥までが不思議そうに自分を見ていた。
涼は慌てて取り繕うような笑顔を浮かべた。
「いえ、すみません。知り合いに似ていたもので、驚いて」
それだけ口にするのが精一杯だった。だが、それだけで洋輔たちは納得したようだった。由布子がそろそろ行きましょうと洋輔を促し玄関を出るのにも声を掛けず、涼はただずっと自分の考えに没頭していた。
香田という名前を聞いてまさかとは思っていたが、本当に由香の父親が居ようとは……
つまりこういうことなのではないだろうか。由香の父親は、由布子と結婚して香田の性を名乗った。そして由香の父親、つまり洋輔は二千三年に俺と会った時に、俺のことを思い出した。
でも、だからといって自殺などするだろうか? 昔の知り合いに似ていると言って笑い飛ばせばいいだけの話じゃないか。
それとも、この後洋輔と俺たちの間に何か事件でも起こるのだろうか?
そう、由香の父は生前こういっていたではないか。お前ら復讐に来たのかと。
だったら話しは分かる。洋輔が俺か、由弥のどちらかに何かをした。そして三十年後に、涼が彼に復讐しに来たのだと、洋輔は思ったのだろう。
だが、今にこやかに笑っていた男が、自分達に何をするというのだろうか。全く想像が付かない。
頭の中がごちゃごちゃしてきた。訳の分からないことばかりだ。
「涼、どうしたんだ? ぼーっとして」
由弥の声に涼は我に返った。考えに没頭しすぎていたらしい。困惑気な表情を見せる由弥に、涼は笑って見せた。
「何でもない。本当にさっきの人が知り合いに似てたから驚いただけ」
そう言うと、由弥はあっさり頷いた。
「なら、いいけど。妙に思いつめたような顔をしていたからビックリした」
涼は苦笑するしかない。まだ起こってもいないことをぐちゃぐちゃと考えていたのだ。全ては涼の憶測で、まるで見当はずれかもしれないことを。
二人は食堂へと戻った。由弥は食器を片付け、涼は朝食を取った。涼が朝食を食べ終わるのを見計らったように、由弥が声をかけてきた。
「涼、今日はどうする? 父さんは出張で留守だし、母さんもそれについて行ったから今日は俺たち二人きりだけど」
「え? でも由布子さん帰ってくるだろう?」
涼が言うと、由弥は面白くなさそうに口を開いた。
「帰ってこないよ。多分朝帰り」
「やる事はやるってか」
涼がボソっと呟いた声は、由弥の耳には入らなかったらしい。今なんて? と聞き返されて、涼は言葉を濁した。
「いや、何でもない。本当は、今日は映画見に行こうとしてたんだっけ?」
「ああ、でも、姉さんがチケット持ってるから見にいけない」
「あー、そうなのか? じゃあ今日は家で大人しくしてるか。毎日のように出かけてるしな」
涼が言うと、由弥は頷いた。
毎日の様に出かけているといっても、近所を歩き回るだけだ。下手に行動して未来を変えてしまってもいけない。そんな風に由弥とは話ていた。
涼は、与えられた部屋の掃除をすることにし、由弥は部屋で物書きを始めた。
部屋の窓から漂ってくる味噌汁の匂いで、涼が空腹を覚え始めた頃、ようやく部屋の掃除が終わった。
することのなくなった涼は空腹を抱え、隣の涼の部屋を覗いた。
そこには机に向かって何かを書いている由弥の姿があった。机の脇には辞書が置かれている。
「由弥」
涼が呼びかけると、由弥は振り向いた。
「何書いてるんだ?」
涼が聞くと、由弥は少し恥ずかしそうな顔をする。
「小説だよ」
「小説……、ああ、そういえばそんなこと言ってたっけ」
「今書いてるのはネタだけだけどね。こうやってネタをいくつも思いついたときに書いているんだ。出来上がったのは洋輔さんに読んで貰っている。彼、翻訳家で、自分でも小説を書いて発表しているからね」
「へえ。でも、何だかんだ言って、結局由弥も志藤さんに懐いてるんじゃないか」
涼が言うと、由弥は複雑な顔をした。
「懐いてる……と言うか。もともとあの人は僕の家庭教師だったからね。付き合いは姉さんより長いんじゃないかな」
「何だよ、もしかしてお前、志藤さんに嫉妬したわけじゃなくて、家庭教師を取られて、由布子さんに嫉妬してるんじゃないだろうな」
そう言うと、由弥は眉を寄せて、少し涼を睨んだ。
「まさか。変な事いうと怒るぞ」
本気の意図を汲んで、涼は苦笑いを返す。
「わるい、冗談」
「……まあいいけど」
由弥はそう言うと、開いていた辞書を閉じ、立ち上がった。
「昼食にしようか。って、言っても出前取るけど」
「おお、いいんじゃねえ? そば食おうぜ、そば」
「いいよ。そばね。電話帳どこだったかな」
涼と由弥はそんな会話をしながら部屋を後にした。
出前で取ったそばは、思いの外美味しかった。満足した二人は暫く各自部屋に戻った。
涼はその後、二時間ほど昼寝をした。
ふと目を覚ますと、壁に掛けられた時計は午後四時を示していた。
起き上がった涼は強張った体をほぐしながら、由弥の部屋を覗いた。
だが、由弥は居ない。
由弥を探して、涼は家の中を歩き回る。由弥は庭に出ていた。
庭の花壇や植木に水をやっていたのだ。
「由弥」
声を掛けると、由弥は涼を振り返った。そして、微笑んだ。
「涼、頬に畳みの後が付いてるよ」
そう言って、由弥は自分の右頬を指でさし示す。涼は頬を擦ってみた。確かにがたがたしている。
「本当だ」
二人して、笑いあう。涼と由弥は庭に面した廊下に腰を下ろした。
暫く二人して黙って庭を眺めていた。
すると庭の向こう、勝手口から一人の女性が顔をだした。
「美菜子」
由弥が声を出したので、涼はその女性と由弥を交互に見る。
「あら、お客様?」
由弥に、女性が声を掛けた。長い髪をした可愛らしい女性だった。その女性は涼に目を向けると、にこっと笑いかけてきた。涼もへらっとした笑いを返す。中々可愛い笑顔だ。結構涼の好みかもしれない。
「美菜子、紹介するよ。僕の友人の夏木涼くん」
「始めまして」
涼は意識して極上のスマイルを美菜子に向ける。
「こちらこそ。柴田美菜子です。由弥とは幼馴染なんです。それにしても由弥に男の友達がいたんですね」
「美菜子、余計なこと言わなくていいから」
「何よう、せっかく本返しに来たのに、もう返してやんないわよ」
美菜子が可愛らしく頬を膨らました。
「悪かったよ」
由弥は苦笑した。涼はこの二人を見比べて思った。何か妙に仲が良くないか? もしかして付き合ってるのかも。
そんなことを思っている間に、美菜子は由弥に借りていたという本を返している。
「ねえ、他にお勧めの本あるって言ってたよね、それも貸して」
「分かった」
由弥は庭から、家に上がると家の奥に入って行く。
それを見送って、美菜子は涼に話しかけた。
「夏木さん、由弥とはどういう風に知り合ったんですか?」
「ああ、文通で」
涼がいうと、美菜子はふーんと言う風に頷いた。余り信じてはいないようだ。
「そんなことより、君は由弥と付き合ってるの?」
涼は気になっていたことを口にした。
「ええ? まさか。そりゃ、由弥は私の初恋の人だったけど、はっきりとふられたもの」
「あ、そうなの? 悪いこと聞いたかな」
そう言うと、美菜子はあっけらかんと笑う。
「別に、今は恋人いるし、はっきりと気持ちに整理はついてるから」
「それにしても、由弥はどうして君を振ったんだろう、美菜子さん可愛いのに」
涼がいうと、美菜子は複雑な顔をする。
「それは、由弥に聞いて。私が口にすることじゃないと思うから」
その言葉に涼は内心首を傾げる。その時、由弥が戻ってきた。
「美菜子、これ……どうかした?」
由弥が涼と美菜子の間に流れている微妙な空気を察知したのかそう聞いてきた。
美菜子はそんな由弥に笑顔を向けると、由弥の差し出した本を受け取った。
「何でもないの。ありがとう。じゃあ、私帰るから」
「え? もう」
由弥の声に、美菜子は笑顔のまま言った。
「うん。これから夕飯の用意の手伝いしないといけないから」
「そう」
「また」
「ああ、また」
「夏木さんもまた」
「ああ」
美菜子は涼と由弥に手を振って、来た時と同様に勝手口から外へ出て行った。
「可愛い子だな」
涼がいうと、由弥が笑った。
「まあね、顔は。さて、そんなことより、夕飯どうしようか」
「俺が作ってもいいけど?」
涼が言うと、由弥は驚いた様に切れ長の目を見開く。
「ええ? 涼、料理作れるんだ」
「まあ。一人暮らしだったしな」
「へえ。でも、今日はどこかに食べに行こうか」
「俺の手料理食べたくないって?」
涼が意地悪くいうと、由弥は慌てたように首を振った。
「違う違う。久しぶりにドライブでもしようかと思ってさ」
「ドライブ? お前免許持ってんの」
由弥は嬉しそうに頷く。
「もちろん」
「ちゃんと運転出来るのか」
思わず、思った事を口走っていた。どうにも、由弥が車を運転する姿が想像出来なかったからだ。
由弥はムッとしたような表情をして言った。
「失礼な。出来るよ」
「悪かった。怒るなよ、付き合うからさ」
そう言うと、由弥は少し表情を緩めた。