第二章 世界の入り口
由香の父は彼女の言葉のとおり、亡くなっていた。
彼の死は夕刊に、小さな記事で載っていた。
『有名作家 突然の死』
そういう見出しだった。
由香の父は今朝、自宅のガレージで首吊り自殺していたのだという。
どうしてそれが俺のせいになるのだろう。
そんな疑問が解消されたのは、涼の家に刑事だと名乗る二人の男が現れてからだった。
涼は訳のわからぬまま、任意同行を求められ、警察署に連れて行かれた。
生まれて初めて取調室とやらに入れられて、涼は中年の刑事から一枚の紙を手渡された。
それは香田の父親が残した遺書のコピーだった。
涼はそのコピーに目を走らせ、どうして自分が呼ばれたのかが分った。
遺書に、自分の名が記されていたのだ。
遺書の内容はこうだ。
『俺は、殺されはしない。それが俺の起こした行動のせいだとしても。俺は他人に自分の命をささげる趣味は無い。全ては俺のものだ。俺はお前に殺されはしない。お前が何故今更蘇ったのかは分らないが、俺の人生は俺のものだ。夏木涼まであの頃と寸分たがわぬ姿で現れた時には驚いたが、それでお前の意図は分ったよ。お前は、いや、お前達は俺に復讐しに来たのだと。
だから俺はお前達に殺される前に自ら命を断つ。
あの頃と同じように、お前達は俺に何一つ報いることは出来ないのだ』
そこで文章は途切れていた。
どこか中途半端な気がするが、手渡された紙は一枚きりだった。
「夏木君。君の名前が書いてあるが、何か心当たりは?」
読み終わったのを見て取ったのか、中年の刑事が真正面のイスに座って声を掛けてきた。
涼は首を振った。
「いいえ。心当たりはありません」
「そんな訳無いだろう」
涼が中年刑事の質問に否定した途端。中年刑事の横に立っていた三十代前半くらいの刑事が声を張り上げた。
一瞬驚きの表情をした涼だったが、すぐに平静な表情に戻る。
怒鳴り声には慣れていた。実家にいる間はいつも父の怒声を浴びていたから。
「ここに名前が書いてあるじゃないか。無関係とは言わせないぞ!」
「でも、俺は本当に無関係なんです。昨日初めて会ったのも本当なんだ。それなのに……」
涼は思い出していた。昨日初めて会ったときのことを。
彼は涼を見たときなんと言っていた?
何故お前まで蘇る? 何故今もその姿なんだ。そう言っていた気がする。
この遺書にも似たような表現が使われていた。
夏木涼もあの頃と寸分違わぬ姿で……そう書いてあった。一体それはどういう意味なのか。
何を示していると言うのだろうか。
「おい、夏木君。どうかしたのかね」
中年の刑事がおっとりとした口調でそう尋ねる。
涼は顔を上げた。
「昨日のこと思い出していたんです」
そう切り出して、涼は昨夜あった出来事の重要な点だけを刑事たちに告げた。
「何故蘇る? そう言われたのか」
「はい」
「根津さん。遺書にもそんなことが書いてありますよ」
若い方の刑事が言った。
中年の刑事は難しい顔をして黙りこくってしまった。
しばらくして涼は警察署を出た。
あの後二三質問されたが、すぐに釈放された。どうやら警察の中では、一つの仮説が出来上がったようだ。
その仮説とはこういうことらしい。
神経に異常をきたした作家が現実と想像の世界をごちゃ混ぜにし、たまたま昨日あったばかりの涼の名前を遺書に入れた……。
だが本当にそうなのだろうか? と涼は思う。
確かに昨日の印象で言えば、涼にも香田の父は異常に見えた。
だがそれまではいたってまともだったという。涼の出現が彼を狂気へと誘ってしまったとでも言うのだろうか? では何故?
考えても分らない事だらけだ。
涼は警察署を振り返る。
暗い夜の中で、照明によって浮かび上がった警察署は、やけに殺伐として見えた。
警察署の門を出たところで、見覚えのある車を見つけて涼は顔を歪めた。
「親父……」
その声に反応したかの様に、運転席のドアが開いた。運転手は外に出ると後部座席のドアを開いて丁寧に浅いお辞儀をする。そして後部座席から出てきたのは紛れも無く父の姿だった。
父は体格の良い体をスーツに包み、醜く皺の浮いた顔に渋面を作っていた。涼の前に立った父親は渋面のまま口を開いた。
「涼。貴様、どれだけワシに恥じをかかせれば気が済むんだ」
その怒鳴り声とほぼ同時に、涼は頬に鋭い痛みを感じた。
父親に拳で殴り飛ばされたのだ。
「痛っ……」
痛みを感じた後、じわじわと口の中に鉄錆のような味が広がった。
「お前には二度と好き勝手させん。お前のような奴は鎖で繋いでいないと、何をしでかすか分かった物ではないからな」
「俺は何もしていない」
父を見上げるように睨みつけ、涼はそう返していた。
「警察に呼ばれるようなまねをしているではないか! 夏木家の人間ともあろうものが何という様だ。全くお前は母親そっくりだな、頭が悪く使い物にならん」
涼は無意識のうちに胸を押さえていた。小さい頃から言われ続けている言葉。
心にまた新しい傷がつき、血が流れていても、涼は父に言い返すことが出来ない。
怖いのだ。父が怖い。小さい頃から培われてきた恐怖に、涼は対抗する術を見出せないでいる。何も言い返さず俯いた涼を見て満足したのか、父は涼から運転手に視線を移した。
「おい、梶谷。涼を車に乗せろ。家へ帰る」
それだけ言うと父親は涼に見向きもせず、車に乗り込んだ。
それをただ見ていた涼は、運転手がこちらに近づいてくるのに気づき慌てた。
逃げなければ。
咄嗟に頭に浮かんだ言葉はそれだった。
涼は頭に浮かんだ言葉を実行するために走り出した。
虚をつかれた顔をした運転手にわざとぶつかって転ばせ、涼は車の脇を通り抜け、細い路地へ曲がった。
遠く父の叱咤する声が聞こえたが、足は止めない。
涼は車が入れない細い路地を走った。
走って走って、走り疲れた頃、ようやく足を止めた。
コレで暫くは追って来れないだろう。
そう思って涼は膝に手を当てて、荒い呼吸が収まるのを待つ。
ふと、ここは何処だろうと思い、辺りを見回す。
見覚えのある場所だった。
涼の家から差ほど離れていない。涼の家を基準にいうと、駅とは反対方向で普段は滅多に足を運ばない地域だ。
どうしよう。家に帰ろうか。
そう思ったが、足は動かなかった。
父が先回りして涼の家の前にいるかもしれない。いや、抜け目無い父のことだ。十中八九いるはずだ。
そうなると、家にも帰れない。
所持金も確か千円かそこら。どこかに泊まることもできない。
涼は暫く考え口元に手をやった。
「痛っ」
頬の上から傷口に手をあててしまったのだ。
父に殴られたときできた傷のことなどすっかり忘れていた。逃げることしか考えられなかったから。
だが傷のことを思い出してしまった途端傷か疼きだす。口の中に広がった血の味が気持ち悪い。どこかでうがいでも出来ないものか。
涼は辺りを見回して、思い出した。
確かこの近くに公園があったはずだ。
そこに水道もあった。涼は思いつくと同時にその公園へと足を向けた。
五分とかからずその公園に着いた。
日中、子供たちがはしゃぎまわっているはずの公園は、今はとても静かだ。
公園を取り巻くように植えられた木々の葉擦れの音が、やけに大きく涼の耳に入ってくる。
その音に混じって何かが軋む音が聞える。涼はそちらに顔を向けた。そこにはブランコがある。
風のせいか、ブランコはゆっくりと揺れていた。
街灯があるお蔭で、公園の中はさほど暗くは無い。だが十分な明るさでもないこの空間がやけに寂しく見えた。
涼は公園の奥にある水道へと足を向けた。
誰も居ない遊具場を抜けて、広場へ出る。
広場の隅。洗面台の様に鏡の付いた手洗い場がそこにはあった。
三つ並んだうちの真ん中の蛇口に手を伸ばし、捻った。
勢い良く水が飛び出し、下に当たった飛沫が跳ねる。
涼は流れ出る水に手を差し入れ、顔を洗った。そして今度は手に掬った水を口に含んで、吐き出した。
ここまで届く街灯の光で、吐き出した水に血が混じっているのが分かった。
くそっ。思いっきり殴りやがって。
排水溝に流れていく水を見ながらそんなことを思う。
それにしても静かだ。
聞えてくる音といえば、蛇口から勢い良く流れ出る水音と、木々の擦れる音だけ。
まるで今、この世に自分だけしかいないような気になってくる。
いっそそうなってくれればいいと思う。
もう何もかもイヤだった。
父に縛られるのも、人と関わりあうのもゴメンだ。
一人になれば自由になれるのだろうか。
だが、そんなこと出来るはずも、一人で生きる勇気も無い。
涼は目を上げた。
鏡に映った自分と目が合う。情け無い顔をした男がそこにいた。
父親に頭が上がらず、一人では何も出来ない臆病者で……。
父のいない世界へ行けたらいいのに。
そしたら俺は変われるんじゃないだろうか。
「オヤジのいない世界へ行けたら……行きたい」
涼は言葉に出してそう呟いた。呟いたからと言って、それが現実になる訳はないのに。
涼は自嘲気味に笑った。鏡に映った自分の笑う姿が情けなくて、涼は流したままだった水を掬って鏡に勢い良くぶつけた。
濡れた鏡は涼の表情をはっきりと映せない。
それを見て、涼は少し落ち着いた。
何をしているのだろうか。自分は。
「バカみたいだ」
そう呟いた時、不意に目の前が赤く染まった。
驚いて顔を上げた涼の目に映ったのは、信じられない現象だった。
鏡が赤く光っていた。水の伝った鏡だけが赤く。
鏡が自ら光るなんてありえるのか?
この明かりが反射によるもので無いことは明らかだった。
涼の背後にも左右にも赤い光の光源は見当たらない。
涼は驚きの余り動けず、赤い光を発する鏡を見つめていた。
暫く見つめていると赤い光は弱まり、次第に鏡が何かを映し出した。
だが鏡が映し出したのは、涼の姿ではなかった。
人が立っていた。涼とは似ても似つかない男。涼と年齢はたいして変わらないだろう。彼の背景は赤く染まっている。日の出の時間か夕方なのだろう。だが何故そんな映像が鏡に映っているのか?
誰かの悪戯か? 鏡と見せかけて本当はテレビの画面とか……
涼はその鏡に触れてみることにした。
鏡に触れようと伸ばした手に、予期した感触が無かった。手首まで鏡の中に吸い込まれ、涼はパニックに陥った。
「う、嘘だろ、おいっ」
必死で鏡から腕を出そうともがくが、どういう力が働いているのか、手は抜けるどころかどんどんと中へ入っていってしまう。
「おい、止めろ。誰か助けっ……」
悲鳴に近い声を上げたが、その途中で涼の身体は物凄い勢いで鏡の中へと吸い込まれてしまった。
涼を吸い込んだ鏡は暫く赤い光を放っていたが、それは次第に弱まり普段の何の変哲も無い鏡へと戻った。
まるでここには始めから誰も居なかったかのような静寂が、公園を包んだ。
唯一つその静寂を破っているのは、栓の開かれた蛇口から出る、水音だけだった。